データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予市誌

一、大洲・新谷藩の文教と郡中地方

 中江藤樹と郡中 
 大洲藩加藤家の祖加藤光泰(一五三七~一五九三)は片鎌槍の達人であるとともに、平日は論語や孟子を読む篤学の武将であった。嫡子の貞泰(一五八〇~一六二三)は関ヶ原の役と大坂夏・冬の陣の戦功により一六一七(元和三)年に伊予国大津(洲)城六万石に封ぜられた。貞泰の子の泰興も文武両道に励んだが、その嫡子泰義も儒学をよく学んだ。
 中江藤樹(一六〇八~一六四八)は、一六〇八(慶長一三)年近江国小川村に生まれた。一六一七(元和三)年に祖父中江徳左衛門吉長は、加藤貞泰に仕え、孫藤樹(九歳)を養子にもらい受けた。その翌年八月転封のため藤樹を連れて伊予大洲に移った。その年の冬、祖父が藩命を受けて風早郡代官として赴任したので藤樹も従って柳原に赴いた。
 藤樹は一一歳で初めて「大学」を読んだ。風早から大洲に移ってからは本格的に学問の道に励んだ。その後次第に藤樹の学名は高くなり、その門人も多かった。藤樹は一六三四(寛永一一)年に近江に帰郷したが、近江時代の門人中に大洲・新谷両藩士は三二人いると言われ、その中の一人に、替地代官二〇〇石の森村太兵衛の名が挙げられている。「替地」は郡中地方の当時の俗称であり、この土地の代官が藤樹に師事していたことから、当時の郡中地方にも、藤樹学の遺風が伝承されたものと推察される。
 現在、豊円寺横には、松山藩と大洲藩が境を接した地点に建てられていたという「是従南大洲領」と刻んだ碑があり、その書者は中江藤樹であると伝えられている。両藩の替地は、一六三五(寛永一ニ)年で藤樹の帰郷はその前年であったから、その説は信じ難い。しかし、こうした言い伝えが残っていることが、藤樹と郡中地方との関係が深かったことを示している。

 御替地古今集の撰 
 大洲藩第一〇代の藩主加藤泰済は、領内各村々の旧記改めを命じた。内容とするところは、大洲藩・新谷藩全域の村々の史実・伝承・古城古跡・社寺の由来・庄屋家系・古文書など広い範囲にわたった。主として富永彦三郎がこれに当たって、翌年には献上することができた。その中でいわゆる御替地の分の述作は、上唐川村の庄屋隠居菊沢与八武輝によってなされた。巻一一の上唐川村末尾に、「下唐川より是迄皆菊沢が撰による」とあることで明らかである。菊沢与八の述作の原資料は、別本となって伝えられた。『予州大洲御替地古今集』がそれである。記事が詳細である。御替地の伊予郡・浮穴郡のうち里分二三箇村・砥部一九箇村、計四二箇村と三町の詳細な郷土史料である。

 予州大洲好人録の刊行 
 大洲藩主加藤泰温は領民の教化に力を入れた。川田雄琴は師三輪執斉の推挙によって大洲藩に奉職し、つねに城中に伺候して御前講義に従うほかは、主命によって藩士の陽明学講釈に専心した。泰温は藩の施策として善行者の表彰を行ったが、雄琴は藩から表彰された孝子・節婦・奇特者などの言行を収録した。この書の中に郡中地方から八人の孝子・善行者が載せてある。