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伊予市誌

二、学問の興隆

 儒学 
 近世儒学は藤原惺窩に始まり、林道春(羅山)がこれを継いで幕府に仕え、その子孫が湯島聖堂(のち昌平坂学問所)を統率した。佐賀出身の古賀精里は一七九六(寛政八)年に昌平校の教官に任用されたが、この学者に学んだのが日下伯巌と武知五友であった。
 日下伯巌は、一八一五(文化一二)年昌平校に入り、のち松山藩の明教館教授に任ぜられた。上唐川の浜出稲荷神社の神主倉橋幸たい(代に巾)は、伯巌に学び、自宅で寺子屋を開いた。
 武知五友は、日下伯厳に従って昌平校で学び、帰郷後松山藩の教授となり、晩年は郡中で塾を開いた。
 篠崎小竹は大坂の人で、古賀精里に学んで大成したが、その門人に伊予郡南黒田の里正鷲野南村(蕗太郎)がある。南村は小竹の門に学び、ついにその塾頭となった。帰郷後塾を開いたところ、四方から集まってきて塾に学ぶ者は数百人にのぼった。その中に玉井健次郎(弥光学校教員、のち南伊予村長)、西岡喜十郎(平山学校教員、のち松本小学校長)、鷲野富次郎(南村の子、興譲学校教員)などがいた。
 宮内柳庵(桂山)は灘町の人で、学を菅茶山(備後の人で程朱の学、医学を修めた人)に受け、帰郷後子弟を教育した。鷲野南村・陶惟貞はその弟子であった。
 陶惟貞は、宮内柳庵について学んだが、貫名海屋(阿波の人で京都で塾を開く。書家)にも儒学と書道を学んだ。また、京都で医術を修め、帰郷後灘町で医業のかたわら子弟を教授した。

 国学 
 伊予における民間国本主義の先駆者に仙波盛全がいる。半幽齊と号し、幼名を亀之助、長じて安兵衛と称した。祖先は喜多郡出渕村(現中山町)の住人越智盛景である。その子孫は、伊予郡上灘村(現双海町)に住み、のち大平村に移住した。盛全は、盛景の末えい仙波覚兵衛の二男として、一六五五(明暦元)年に生まれた。一五歳のとき松山に出て、商業で身を立て、数年ののち一家を興した。
 盛全は生まれつき正直明敏で学問を好み、文学的な才があったので、松山藩の大月履齊や国学歌道に通じた小倉正信と交わって教えを受け、また多くの歌人とも交わってその道をきわめた。彼は伊予の国の古来名勝の地が多いが、これを知る人が少なく、その事跡が失われるのを嘆いて、これらの名勝史蹟と伊予の名神二四社とを和歌に詠じて一巻とし、一七二三(享保八)年に氏神である稲荷神社へ奉納した。盛全が奉納した一巻には、親友小倉正信が奥書しており、今この神社の宝物の一つとして現存している。また彼が六〇歳を迎えるにあたって、松山地方の同好の友二一人から寄せられた年賀の歌を一巻として同神社に奉納している。盛全の生家仙波家は、維新当時まで大平村の庄屋であった(愛媛県教育会『愛媛県教育史前篇』)。

 蘭学 
 徳川八代将軍吉宗のころから、西洋学術の摂取が活発となったが、語学としての蘭学が実学に向かったのは、一一代将軍家斉の文化・文政の時代であった。
 越智崧は字を高崧、通称は仙心、号を桂荘といい、静慎、仏手仙心、又一郎などの別号がある。灘町宮内吉通(通称小次郎)の長子で、一八〇八(文化五)年に生まれた。年わずかに一四歳で京都へ行き、もっぱら漢籍を学んだ。のち江戸に出て伊藤宗益方におり、箕作阮甫の門に入って蘭学を学んだ。箕作秋坪、林洞海、伊東方城らと交わり、ますます蘭学と蘭法医学の研究を積み、一八四二(天保一三)年ごろ長崎で諸家に出入りしていたが、親族の病気見舞いのため郷里に帰った。郷里に居ること二年で再び京に上り医を業とした。その後伏見の内藤豊後守に仕えたこともあったが、一八六四(元治元)年五七歳でまた長崎に行き、ボードウインに教えを受け、その地で開業した。晩年は京都におり、女婿宗直哉方に寄寓して、文墨を楽しみとし、快適の時だけ診療に従事した。一八八〇(明治一三)年一〇月、七三歳で没した。「眼医秘笈」・「炎施臑爾篤眼科書」・「眼医全針」・「眼科新設」・「内翳書」などの著書がある。
 藤井道一は、杉田玄白にオランダ医学を学んだ鎌田玄臺(正澄、華岡青洲にも学び、大洲藩医で特に外科手術の名人)の門人であった。道一は温泉郡中島の粟井村(大洲領)から郡中に来て、大洲藩の医者目付となった。道一は淡村と号して詩文に長じ、有名な頼山陽との交わりもあり、山陽から道一にあてた書状が藤井家に伝わっている。鷲野南村・陶惟貞とも文筆をもって交わった。一八一九(文政ニ)年に没した。年四二歳であった。
 藤井止水は独松と号し、道一の子である。蘭学を播州の加藤仙齢に学び、父の死後医業を継いだ。大浦兼式(のち内務大臣)、松本順(のち軍医頭)、芳川顕正(のち文部大臣、長与専斎(のち内務省衛生局長)などと交友関係があった。一八九八(明治三一)年に没した。藤井父子の墓は増福寺にある(愛媛県教育会『愛媛県教育史前篇』)。

 算額遺題 
 新谷藩第六代泰賢の時代、藩中には和算の研究者が相当居た。しかも、それが高い水準に及んでいたことが、今なお残っている算額によって知ることができる。和算は江戸時代に目覚ましい発展をとげ、この時代として西洋数学を超える領域まで進んでいたことは驚くべきことであった。この学の特色の一つは、その承継の方式であった。それは「遺題承継」という方式で、師の出題した難題を門弟が解き、その門弟が更に難問を残し、後進が解いてさらに問題を残すという連鎖的な展開であった。こうした難問は、別に算書として刊行されることも多かった。しかし、ほとんどがこれと同時に「額面題」として社寺に奉納することが行われた。それは自己の苦心した難問又は解答を、額面として社寺に奉献して、崇敬の意をささげるとともに、同学への告知・挑戦を図ることでもあった。その起こりは大体一六六一~七三年(寛文年間)とされるが、世にいう「算額遺題」である。
 岩田源介清興は、一七九七(寛政九)年九月、稲荷神社に題額を奉納した。これより先、一七八八(天明八)年に、新谷藩士別宮四郎兵衛猶重が山口神社(大洲市新谷)に算額を奉掲していた。現在、わずかにこの二人のものだけが残っていて、当時の新谷藩における算学の隆盛を物語っている。なお、これらの算額は、我が国に現存するものとしては古い部類に属するもので、愛媛県では最古のものである。