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伊予市誌

2 小学校の変遷

 小学校の統廃合 
 学制によって創設された明治時代当初の各小学校は、その後幾多の変遷を経て、一八九〇(明治二三)年の小学校令による新しい局面を迎えるに至ったが、この間における小学校の移り変わりを、一八八八(明治二一)年の市町村制による各町村ごとに見よう。

 南山崎村の小学校の変遷
 勧明小学校 一八八三(明治一六)年五月、勧善・明道の二校を合併して、下唐川村字豊岡に勧明小学校を新築した。生徒数は約五〇人であった。同二三年南山崎尋常小学校の分教場となったが、一八九二(明治二五)年九月二七日、唐川尋常小学校として独立校となった。
 大平尋常小学校 一八九〇(明治二三)年四月一六日に従来の森山小学校を南山崎尋常小学校として、唐川に分教場を置いた。生徒数は約五〇人であった。一八九二(明治二五)年一〇月一日、大平尋常小学校と改称した。

 北山崎村の小学校の変遷
 鹿島小学校 一八八一(明治一四)年まで中村法寿院の仮校舎であったが、同年に中村に校合一棟を新築した。その坪数は間口八間半、奥行四間で、当時建築係として尽力したのは、武智民次郎・山崎庄八の諸氏であった。
 桂小学校 一八八六(明治一九)年七月、学区改正とともに、従来の組合に市場・稲荷・三島町の一町二か村が加わって、区域も広まり生徒数も増加した。このとき桂小学校と改めた。当時の生徒数は一一〇人内外で、三島町に分教場を設けて初等・一級・四級・六級の生徒を分散した。一八八七(明治二〇)年三月末、学制改革によって校名を中村尋常小学校と改め、尋常・簡易の二科を置いた。生徒数は一三〇人内外であった。一八九〇(明治二三)年に三秋簡易小学校を合わせて、北山崎尋常小学校と改めた。生徒数は一五〇~一六〇人であった。

 郡中町・郡中村の小学校の変遷
 千丈小学校新築は、一八八三(明治一六)年下吾川の現在地四国電力変電所のあたりにされた。
 明教・修道両小学校の設立、一八八四(明治一七)年山崎小学校を分離して明教・修道の二校となった。
 明教小学校は、灘町東にある藤谷豊城所有の敷地建物を借り受けた。敷地坪数は約一二三坪、建坪は六二坪で、一部は一二坪の二階となっていた。学齢児童は男一三七人、女一二二人、計二五九人で、そのうち不就学児童が一〇五人であった。
 修道小学校は、湊町字殿町に新築され、二階建て洋風建築でかなりモダンな建物であった。学校敷地は三〇〇坪、校舎坪数は五四坪、建築予算は三七〇円であった。当時の学齢児童は、男一四五人と女一三四人の計二七九人であったが、就学人員は八六人に過ぎなかった。
 郡中小学校の創置 一八八六(明治一九)年五月一八日、郡書記豊川渉は郡中小学校創置について、県当局に認可を要請した。その内容は、灘町の明教小学校を本校として、町の修道小学校と下吾川の千丈小学校を、共に分教場としようというものであった。
 この申請は、同年六月二日付けで許可され、一応明教・修道・千丈の三校の名目統合が行われて郡中小学校が創置された。
 吾川・郡中両小学校の併立 先に一八八五(明治一八)年戸長役場の改正があり、それに伴って小学校の統合が行われることになった。先の三校統合後二か月後であった。この計画によって、灘町の旧明教小、米湊の里美小、上吾川の吾水小の三校を統合して郡中小学校と称し、本校を灘町の旧明教小学校に、分教場を米湊と上吾川の旧小学校に置いた。
 一方下吾川の千丈小と湊町の修道小及び下三谷の興譲小の、三校を統合して吾川小学校と称した。本校を下吾川の旧千丈小学校に置き、湊町及び下三谷の旧小学校を分教場とした。こうして郡中・吾川の両小学校が併立することになった。
 郡中・松本両尋常小学校の設立 一八八六(明治一九)年、小学校令発布に伴って、一八八七(明治二〇)年四月、新学制に伴う尋常小学校が設立され、郡中小学校は米湊尋常小学校と改称し、同時に吾川小学校も吾川尋常小学校と改められた。
 一八八九(明治二二)年一月、灘町と湊町を合わせて郡中町、上吾川・米湊・下吾川を合わせて郡中村が発足し、これに伴って、一八九〇(明治二三)年には郡中町に郡中尋常小学校が、郡中村に松本尋常小学校がそれぞれ設立された。

 南伊予村の小学校の変遷
 南伊予村の村制公布前は、宮下・上野・上三谷・下三谷それぞれの部落に、磯野・弥光(後、明理)・日新・興譲の各小学校が設置されたが、一八八六(明治一九)年に下三谷は一時、吾川尋常小学校校下にあって分教場が設置されていた。
 一八八七(明治二〇)年、各小学校が統合されて伊予尋常小学校と称し、宮下・上三谷・下三谷にそれぞれ分教場が設置された。一八九〇(明治二三)年、上三谷に本校が移され、上野・宮下・下三谷に分教場がおかれた。一八九二(明治二五)年には、宮下と上野を校下に伊予第一尋常小学校が、上三谷と下三谷を校下に伊予第二尋常小学校が設置された。

 当時の小学校の状況 
 一八八七(明治二〇)年設立された愛媛教育協会機関誌『愛媛教育協会雑誌』によると、下浮穴・伊予両郡においては、学校の体裁を備えるものはわずかで、学校として建築したものも構造がよくなかった。また、穀倉を用いているものが多かった。これは新築の計画があっても、建築標準が出たために猶予しているものが多いとのことであった。教授管理については、教員が熱心にやっているが、所によっては、文字もあまり書けない学校もあった。有資格者の教員も少なく、尋常小学校の四分の一と簡易小学校の二分の一強とは訓導が居なかった。生徒が二〇〇人を超える尋常小学校は、伊予郡では、松前・北川原・米湊・吾川の四校、一〇〇人以上は、上野など一一校であった。器械・器具については、読本中の庶物、博物の標本、簡易な理化等の試験をする器械も極めて少なく、大そろばんのない学校、時計のない学校もあった。校長や首席訓導は、年度の経常予算については、ほとんど知らなかった。
 一八七八(明治一一)年の小学規則で、授業料は一か月五銭と定められたが、一八八八(明治二一)年には、尋常小学校は一〇銭~五〇銭、高等小学校では五〇銭~一円となり、一八九五(明治二八)年には、尋常小学校は二〇銭以下、高等小学校は五〇銭以下と定められた。こうした授業料の徴収のために児童の就学率は、当初危ぐされたとおり、一八八四(明治一七)年における県平均は、男子六二・八〇%、女子三一・四二%であり、灘町明教小学校では五九・四六%、湊町修道小学校では三〇・八二%と非常に低率であった。しかし、授業料の徴収は一九〇〇(明治三三)年の小学校令によって、それが撤廃されるまで続いた。高等小学校では、その後も継続され、同四五年度の郡中町予算には、二〇銭~三〇銭の授業料が計上されていた。

 郡中高等小学校 
 一八八六(明治一九)年に国が設定した小学校令に基づき、一八八七(明治二〇)年四月、下浮穴郡と伊予郡で米湊村の西ノ原(現在西野)に設立された。一八八九(明治二二)年五月一〇日刊行の『愛媛教育会雑誌・第二三号』によると、当時の校舎は「高等小学校ハ自今旧里正ノ宅ヲ代用シ居レドモ不日新築ノ筈ナリ」、教員は「高等小学校ニハ校長兼訓導一・訓導三・雇教員三・授業生ニ・雑務係一」、教員の給料は「最多額ハ高等校デ弐拾壱円、尋常校デ拾弐円、最少額ハ高等校デ三円五拾銭、尋常簡易校ニテ三円」とあって尋常小学校と比べて高等小学校には高給の教員が配置されていた。
 同年一月の出席生徒数は、「高等校合計二百廿四人内男二百五人、女十九人、内四学年男十三人、三学年男三十七人、女三人、二学年男六十二人、女九人、一学年男九十三人、女七人」とあり、当時としては相当の大規模校で、男子生徒に比べて女子生徒の極めて少数であったことがわかる。
 また、「郡中高等校ニ於テハ去ル四月二、三、四ノ三日ヲトオシ、本校生徒図画作文習字裁縫科ノ展覧会ヲ開設シ、加フルニ理化試験並ニ唱歌体操生徒ノ講談ヲナシ公衆ニ来観セシム。其初日ノ参観者 ハ八百二十人。第二日ハ一千五百十五人 第三日八二千七十五人ノ多キニ至り 実ニ同校創設後ノ一大盛会ニテアリシ」と記されたこの展覧会を、参観した沢両東四郎(元松前小学校長、後に南山崎村助役)は、「会場には顕微鏡があって花粉が見えるようにしてあった。また針を水面に流して表面張力の説明がしてあったり、女の先生がいたことが特にめずらしかった。」(『伊予郡・市教育界のあゆみ』による)と語った。こうした大がかりな学校行事を公開した当時の学校当局の意欲と、これについての地方住民の関心が大きかったことがうかがわれる。
 就業年限は四か年で学習程度はかなり高く、遠くは温泉郡の東部・森松・荏原・坂本あたりからも通学したといわれている。当時の教員には、後に伊予鉄支配人、北予中学校校長となった、露口悦次郎や、正岡子規の友人であった村上見機がいた。卒業者の中には、世界的な栄養学者佐伯矩博士、三木善太郎中将(松前町塩屋出身)、伊予農校長増野萱吉、佐伯照市、越智卓美など数々の名士があった。一八九二(明治二五)年九月、小学校令の実施のため、組合立に切り替えられた。

第187図 南山崎村の小学校の変遷

第187図 南山崎村の小学校の変遷


第188図 北山崎村の小学校の変遷

第188図 北山崎村の小学校の変遷


第189図 郡中町・郡中村の小学校変遷

第189図 郡中町・郡中村の小学校変遷


第190図 南伊予村小学校の変遷

第190図 南伊予村小学校の変遷