データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予市誌

3 当時の教育の状況

 学科課程 
 義務教育の延長に伴って、尋常小学校の教科目は、修身・国語・算術・日本歴史・地理・理科・図画・唱歌・体操となり、女児のために裁縫、土地の情況で手工を加えることができるとされた。高等小学校はこのほかに、手工・農業・商業のうち一科目又は数科目を加えることができ、土地の情況によっては、英語を加えることができるとされた。松本小学校では、既に一八九二(明治二五)年ごろに裁縫科を設置し、一九〇四(明治三七)年に手工科を加え、一九〇八(明治四一)年には高等科に農業科を設置していた。

 就学歩合の向上 
 一九〇〇(明治三三)年の小学校令では、保護者に学齢児童の就学義務を課し、公立義務教育学校における無月謝制の原則を確立した。本県の明治二九年末の就学率は、五八・七%で全国平均六四・二二%には及ばなかった。よって当時の県知事篠崎五郎は、郡市町村を督励し、校旗にその学校の就学成績を等級によって明示し、強力な就学奨励を行った。これによって、各学校の就学歩合は次第に上昇した。
 特に女子の向上が目覚ましく、明治四〇年代では、もはや頂点に達したもののようである。

 出席の状況 
 就学歩合の向上は、出席歩合の向上が伴わなければ教育の実績をあげることはできない。松本小学校における児童の出席状況の変化は、第160表のとおりである。これを見ると、尋常科の出席歩合は、約一〇年間に驚くべき向上を示している。これは「学校役場共一致協力してこれが督促奨励をなし、一面貧困児童に補助金を与え、又学用品の貸与等をなすを以て漸く面目を改め」た結果であると『郡中村郷土誌』は述べている。
 一九一〇(明治四三)年時の郡中地方各小学校の大字別の出席歩合は第161表のとおりである。これを見ると、出席歩合は各学校及び部落で較差があり、唐川小の校下は一般に低く、特に鵜崎部落は著しく低い。これについて『南山崎村郷土誌』は次のように述べている。
 「唐川尋常校区域内八通学里程頗ル遠ク、通路険悪ニシテ、殊ニ上唐川ノ一部及大字鵜崎ノ如キハ、最遠距離一里余ノ児童ニシテ、加フルニ峻坂ヨリ雨雪ノ場合ハ、止ムヲ得ズ往々欠席スルモノアリ。為メニ各大字ノ出席歩合ハ、道ノ遠近ニ依リ、自然ノ等差ヲ生ズルハ、地勢上実ニ止ムヲ得ザルナリ。」

 上級学校進学の状況 
 一九一〇(明治四三)年刊行の各町村郷土誌によると、上級学校進学の状況は当時はよくなかった。町村別では郡中町がもっとも多く、これに次ぐのが南伊予村・北山崎村である。学校種別では中学校、女学校がもっとも多く、南伊予村は中学校、郡中町は女学校が多い。また、郡中町の商業学校在学者が極めて多いのは、職業との結びつきによるものと見られる。高等教育は、全体で一二人とまだまだ少ない。これは当時の進学の困難なことを物語っている。

 教育費 
 当時の教育費支出の状況を『郡中町郷土誌』によると、教育費は年々増加の傾向にあるが、戸数は年々異動が多く、したがって町費の増減が安定していない。傾向としては、町費に対する教育費の割合も、教育費の一戸に対する割合も、概して年々増加の跡が見られる。

 学校行事 
 松本小学校では、一九〇三(明治三六)年に秋季運動会が五色浜海岸で催された。また、この年から初めて児童全体に検眼が実施された。父兄母姉懇談会も開かれ、二九二人の出席者があった。三月には学芸会も行われた。一九〇四(明治三七)年は遠足が行われ谷上山へ登った。一九〇八(明治四一)年一〇月の秋季運動会は、八幡池で行われた。一九〇九(明治四二)年三月には、尋六と高三の児童を連れ、大洲方面への二泊三日の修学旅行が初めて実施された。一九一〇(明治四三)年三月には、尋六、高三の児童が今治・四阪島に修学旅行をした。一九一一(明治四四)年に児童を引率して、なわしろのめい虫駆除が三回実施された。めい虫ずいむしは一〇〇匹、その卵五〇個を学校へ持って行くと、それぞれ一銭の報酬を出して、村役場が買い上げた。一九一二(明治四五)年三月には、高三の生徒が広島へ、尋六の生徒が松山地方へ修学旅行をした(『郡中小学校沿革誌』中、松本尋常小学校の記事による)。

第160表 児童出席状況(松本小学校)

第160表 児童出席状況(松本小学校)


第161表 各小学校出席歩合(明治43年)

第161表 各小学校出席歩合(明治43年)