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伊予市誌

5 教育関係諸団体、その他

 学事会 
 一九〇八(明治四一)年三月、伊予郡訓令第三号で町村学事会規程を発布した。これに基づいて学事会が郡中村・郡中町・南伊予村に組織された。その目的とするところは、町村の教育発展を図ることにあって村吏員・学校職員・学務委員・学校医及び有志が会員であった。事業としては、教育に関する諸問題の討議と通俗講演会の開催であった。講演会の内容は、教育勅語並びに戊申詔書の趣旨を貫徹するための精神講話であった。
 この会は会費についての定めがなく、町村当局が主体であった。会員は町村の中心的人物が主で、町村教育推進の役割を果たしていた。南伊予村学事会の第一回総会に取りあげられた協議題は次のようであった。
  一 各字青年会をまとめ一団となすの件
  一 壮丁教育を今一層有効ならしむる件
  一 学校児童を今一層向上ならしむる件
  一 各大字に通俗講談会を開催するの件

 同窓会 
 小学校の整備に伴って、卒業生が師弟の情をあたため、同窓の親睦や懇親を図り、知識の交換をするという趣旨で、各学校に同窓会が生まれた。一九〇三(明治三六)年に北山崎・伊予同窓会、一九〇五(明治三八)年に彩浜同窓会、一九〇七(明治四〇)年に松本同窓会がそれぞれ発足した。これらの同窓会は、毎年夏季に総会を開き、役員の改選、名士の講話、会員の談話討論、体験発表、運動遊戯、唱歌、朗吟、朗詠などで一日を楽しく過ごした。

 南伊予村自彊会 
 一九〇八(明治四一)年に戊申詔書が出されると、その趣旨を体して一九一〇(明治四三)年三月この会を創設し、事務所を村役場に置いた。会員は四四二人で、村民の多数が入会した。その目的及び事業は次のとおりで、今日の社会教育運動の発端と見られる。

  一、目的 戊申詔書ヲ奉戴シテ大ニ勤倹貯蓄ヲ奨励シ兼テ堅実ナル気風ヲ養成スルコト、本村農会及本村信用組合ト気脈ヲ通シ殖産興業ノ発展ヲ期スルコト、
  一、事業 善行者ノ表彰、高齢者優遇、青年会婦人会指導 罹災者救恤貧困者ヲ撫育シ授産ノ方法ヲ設クル事、談話会開催、納期ヲ厳守スル為納税旗ヲ樹ツ事、主要物産ノ品評会開催、勤倹貯蓄ヲ奨励スルコト、時事問題ノ討究、

 愛国婦人会 
 一九〇一 (明治三四)年三月に愛国婦人会が誕生した。その後ものすごいスピードで全国に波及した。本県支部の結成は同年一二月であった。天皇を中心とし、日本人が一致団結して軍隊のうしろだてとなり、国力を拡大していこうとする当時の一般的な考え方の最先頭に立つたのがこの団体であった。郡中地方では、一九〇三(明治三六)年、南伊予村の愛国婦人会では会員が二六人であったが、日露戦争後は一四七人となった。また、一九一〇(明治四三)年当時、北山崎村四七人、郡中村六一人が、この会に入会していたことが、記録されている。

 下三谷原組婦人会 
 南伊予村では一九〇三(明治三六)年、軍隊後援を目的とする愛国婦人会に初めて入会した。日露戦争後は会員が一四七人に増加した。一般婦人会は、すこし遅れて一九一〇(明治四三)年、下三谷原組出身で、当時村役場の書記をしていた菊澤縁三郎の提唱と勧誘によって、部落の婦人会が発足した。会員は部落の戸数五〇余戸中、会員は五二人で、各戸の婦人で入会しないものはなかった。事業としては、毎月一回例会を開催して家庭教育方法・婦人心得・勤倹貯蓄方法・家政の大要を講話したり、婦徳並びに勤勉力行の精神を養成して家庭教育の重要性を悟らせた。
 そのほか、養鶏あるいは機織りを奨励して収入の幾分かを貯金させた。また、毎月一〇銭以上の規約貯金を励行し、一九一〇(明治四三)年末で七五円一九銭四厘の多額にのぼった。