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伊予市誌

2 小学校校舎の増改築

 郡中地方の小学校施設は、大正時代末期から昭和時代初期にかけて、運動場の拡張、校舎の増改築、講堂の新築などが相ついで行われた。また、南伊予村、南山崎村においては、学校の移転にからんで紛争も起こった。

 南山崎村の小学校統合紛争 
 南山崎村では大平・唐川の二尋常小学校があったが、同村は規模が小さく財政上貧困であったから、両学校統合の必要が叫ばれ、一九二八(昭和三)年にその計画が進められた。ところが上唐川部落が強硬に反対し、二年間にわたって紛争を重ねた結果、一九三〇(昭和五)年に村長・助役が辞職し県の職務管掌を受けることになった。そこで北山崎村長永井貞市・松前町長武智雅一・原町村長兼県会議員相田梅太良・県会議員亀井官次郎並びに県地方課長と教育課長らが調停に入り、一校一分教場に統一して、本校の位置を変更することによって解決を図ろうとした。この調停案に対し上唐川部落民の多くはこれを了承せず、同地区出身の村会議員六人が辞職した。補欠選挙施行の際、反対部落民は棄権したので、当選議員は中央部の大平部落を中心に選ばれた。その結果議員は定数に達したので、学校統合に関して正規の議決を完了し、一校一分教場と、本校の位置変更の申請が提出せられた。県では一九三〇(昭和五)年一月二一日、申請に従って許可の指令を行った。ところが、その前日の村会議員の総選挙において、学校統一に反対している部落から議員が多数選出され、彼らは従前のとおり二校説を主張した。そのために村会は紛糾し、新校舎の建築ができなかったので、校舎は老朽かつ狭あいのままで放置されていたが、ようやく仮校舎を使用して授業が行われることになった。このような状態を憂慮した父母の強い働きかけもあって、その後ようやく両者の間に円満な話し合いが進んで、一九三一(昭和六)年から旧唐川小学校は南山崎(旧大平)尋常小学校の分教場になった。しかし、唐川と大平部落の反目は容易にとけず、学童通学の不便を理由として一九三三(昭和八)年に唐川分教場は再び独立して唐川尋常小学校となった(『愛媛県教育史』第二巻による)。

 北山崎小学校 
 一九三三(昭和八)年二月、木造二階建てと一部平屋建ての校舎副築工事が落成した。総坪数は延べ四八三・五坪、工事経費は二万一、一〇〇余円であった。請負者は南伊予村工友会であった。この建築によって、文庫室、手工兼図面室、理科室及び備室、補習学校の試験室兼作法室、家事室など特別教室が整備された。

 郡中小学校 
 一九二八(昭和三)年、一九二九(昭和四)年、一九三二(昭和七)年と三回にわたって、運動場を拡張した。これに伴って、従来五色浜で行っていた運動会を止めて校庭で行うようになった。
 一九三〇(昭和五)年に本館二階建校舎を改築した。一九三三(昭和八)年には南校舎と中校舎が建築落成した。更に、一九三四(昭和九)年講堂が落成した。ここに第一〇代町長仲田百太郎が計画した郡中小学校増改築が完成した。講堂、家事室、試食室、工作室、理科室、同準備室、図画室、裁縫室、図書室、貴賓室、音楽室が完備し、当時郡内随一の壮麗な建物として人々の目を見はらせた。しかしながら、町財政は苦しくなって一九三〇(昭和五)年の校舎改築の際は校地購入にあたって、各戸の寄付金として一日一円の日掛貯金でまかなったほどであった。

 松本小学校
 一九二七(昭和二)年三月、二教室を改造して手工と理科の兼用室及び同準備室を置いた。同年七月に二教室増築し、一九三三(昭和八)年には二階建て新校舎を落成した。延べ三八七坪で総経費は二万二、〇〇〇円余りであった。工事は本村工友会の請負で、工事日数は一七八日かかった。
 また、一九三二(昭和七)年に国旗掲揚台が設置され、一九三四(昭和九)年には、大元茂一郎など村出身成功者の寄付によって、建築費七八〇円で奉安殿が建設された。

 伊予小学校移転問題 
 上野銭坪にあった伊予小学校は、児童数増加のために学校移転問題が起こった。当時の村長武智惣五郎は、現在の場所が傾斜地であるため、拡張が難しくかつ水質が良くないとの理由で、これを上三谷に移転する案を村会に提案した。これに対して上三谷・下三谷の両部落は賛成したが、八倉・宮下・上野の三部落は反対したので、結局一〇対八で村会は学校移転を議決し、県はこれを認可した。反対派議員八人は辞職した。
 この問題が起こり始めたころ、移転反対派の児童二五〇余人は盟休に入ったが、そのうち五〇余人は寄留の形で隣村北伊予小学校に通学を始めた。一九二五(大正一四)年七月福田郡中署長が調停に入り、休学していた児童も登校することになったので、同問題も近く円満に解決するだろうと思われた。七月二四日、武智村長は村会を招集したが、三部落民は会場である村役場に押し寄せて開会を妨害した。そのとき集結した村民は四〇〇余人にのぼり、ついに大混乱におちいった。急報によって郡中署員三〇大と松山署警官練習所員五〇大が、現場に急行して鎮撫に努めたが、興奮した村民は、そこからなかなか動こうとしなかった。民衆の多数は、武智村長が負傷して郡中町の病院に運ばれ、影浦助役も姿をかくし、村会議員も出て行こうとしたので、校長中島辰次郎に談判しようと学校に押しかけたが、福田署長の解散命令でやっと騒ぎがおさまった。
 この一大事件で三四人の収容者を出した南伊予村では、村長・助役は事件を起こした責任を感じて、七月二七日に県へ辞職届を提出した。県はこれを受理し、翌日香坂知事は村長職務管掌として県属横田玉好を派遣した。
 横田は在任九か月、その間、事件を無条件で県内務部長に一任するよう努力したが果たさず、一九二七(昭和二)年四月二六日付けで任を解かれた。同時に、元本県保安課長永山又市が、村長臨時代理を命ぜられた。
 永山は、学校問題解決のため、県当局及び亀井官次郎・相田梅太良・武知勇記ら三県会議員の指導と援助によって、村内の東西両部落有志間に種々交渉の結果、ようやく同三年六月無条件で県ヘ一任することになった。その後、小学校の位置を現在の上野に決定し、学校建築予定地の損害賠償をするとともに、指定地の買収と地ならし工事に着手した。また、校舎の建築と起債の件も順調に進んだ。こうして永山村長代理は大任を果たして一九二九(昭和四)年一一月三〇日限りで退職した。後任村長には、前村長であった敏腕家の武智惣五郎が就任し、一九二六(大正一五)年七月以来の南伊予村学校位置問題は、ここにめでたく解決を見た(当時の海南新聞記事による)。

 伊予小学校新築校舎 
 伊予小学校の新しい校地は実測面積七、〇九二坪で、校地買収及び補助費は二万三、七四一・八六円であった。地ならし工事は昭和四年六月に着手し、工事費九、六四七・七八円で同五年六月に完成した。
 校舎建築状況は次のようであった。
  第一期工事 昭和四・一二・一四~五・七・二五、第一・第二・第三校舎、小使室、宿直室、便所、渡廊下。総工費は六五、九〇五・六〇円
  第二期工事 昭和五・七・三一~五・一〇・二三、旧校舎移転改築、農業室、便所、体育具室、渡廊下。総工費は一万二、〇五六・五六円、ほかに敷地買収並びに土木費等に一万一、一三五・二四円
  講 堂 昭和一一年一一月三日に落成、建坪 一五九坪、経費 一万二、三二四・七九円
 雨降って地固まるのたとえもあるとおり、伊予小学校は広い敷地に平屋建て校舎を配して立派に完成した。