データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予市誌

1 初等教育の戦時体制

 小学校教育の戦時色 
 一九三七(昭和一二)年七月蘆溝橋に端を発して日中戦争が起こった。そのため挙国一致・尽忠報国を目標として、国民精神総動員の体制下に入った。小学校教育もまた、濃厚な戦時色を帯びるに至った。その具体的な姿は、次の一九三九(昭和一四)年における松本小学校経営の努力点に見ることができる。

   松本小学校経営の努力点
  一 時局下の国民としての教養努力
   1 事変下国民としての自覚を高め、各自其の位置に応じ、最大最善の努力をなす
   2 勤労愛好
   3 物質尊重と貯蓄報国
   4 体位の向上を図る、安価なる栄養物、亀子タワシ摩擦励行、肝油服用、近眼防止、姿勢の端正、水泳奨励、課外体育等
   5 廃品回収
   6 全体的皇道精神の教養
   7 大陸発展への教育

  二 報徳精神の研究と義農精神の教養

  三 各教科の実力向上
    1児童調 2個別指導 3周到なる教授の準備 4予習復習の励行 5課外指導 6自発活動の尊重

  四 少年団の訓練
     遺家族其他社会的勤労奉仕作業、毎月定期日曜日の奉仕等

 非常時訓練 
 他の小学校もそれぞれ努力目標を掲げて、教育の中で次のようなものが行われた。
 出征兵士の見送り、武運長久祈願参拝、少年団班別日参、国防献金、国民精神強調週間の設定、戦勝旗行列、出征遺家族慰安会、入営兵士歓送会、慰問袋の作製、廃品回収、防空訓練、飛行機愛媛号献納寄付金募集、奉仕作業、出征軍人遺家族への農業手伝い、防空防毒の講演、防毒マスク製作講習、焼夷弾催涙ガス実演など。
 一九三九(昭和一四)年の夏休みには、一か月を通じての心身鍛練として、体操・登山・水泳、銃後活動として、兵士見送り・義勇軍への慰問文発送さらに集団勤労奉仕作業が行われた。
 同年九月一日から、毎月一日を興亜奉公日ときめた。この日には特に早起き励行・時間厳守・報恩感謝・節約貯金・大和協力・心身鍛錬・勤労奉仕・物資愛護などが強調された。
 一九四〇(昭和一五)年には、文部省から体位向上のため、全校鍛錬運動実施の通達があった。毎日業間に二〇分間の体操・徒歩・かけ足などが実施された。

 国民学校の成立 
 一九三七(昭和一二)年一二月に設置された内閣教育審議会の答申に基づいて、一九四一(昭和一六)年三月一日に国民学校令が公布された。「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ目的トス」とあるように、教育の全般にわたって、教育勅語に盛り込まれた国体の精華と、臣民として守るべき道を修練させようとした。
 新しく誕生した国民学校の名称と、学級数・児童数は第165表のとおりである。この表によると、これまでの松本小・郡中小の名称が、郡中東・郡中旭の両国民学校に変わっている。これは一九四〇(昭和一五)年に郡中村と郡中町が合併し、国民学校令の施行に伴って、郡中両校の名称が問題となり、郡中東と郡中西の名称も出たが、結局、郡中東と郡中旭に落ちついた。旭は郡中小学校の位置が旭町であるところから取った。

 満蒙開拓青少年義勇軍 
 戦争が進むにつれ、満州移住予定者の三〇~四〇歳の壮年者が戦場に送られ、移住計画が困難になったため、成年男子移民に代わって、満蒙開拓青少年義勇軍の構想が生まれた。そして、各学校に義勇軍募集の強い要請があり、高等科二年担任の教師がこの募集に当たった。陸軍少年兵、海軍志願兵は応募者も多かったが、義勇軍志願者は少なかったので、説明会や講習会がたびたびもたれた。高二担任者にとって、この義勇軍募集は頭を悩ますものの一つであった。第166表は一九三九(昭和一四)年における青少年義勇軍の送出状況である。
 当時の満蒙開拓の国策にそって、教育者の中では松本小学校長岡本藤技、北山崎小学校長西村橘次郎が自ら満州に渡った。岡本は一九四一(昭和一六)年に満蒙開拓団経理指導員として渡満したが、不幸病気のため同年九月ハルピンの訓錬所で死去した。西村は一九四三(昭和一八)年、南伊予村下三谷の出身である宮内弥が副知事をしている蓋平県で、第一二次連雲開拓団長として、八五戸の開拓団の育成に当たったが、二年余で終戦を迎え、一九四六(昭和二一)年帰国した。

 学童の勤労奉仕 
 一九四二(昭和一七)年、ミッドウェー海戦、同年から翌年にかけてガダルカナル島争奪戦と戦争が進むにつれて、国民学校児童の勤労奉仕も次第にひんぱんに行われた。そして中等学校生徒の軍需工場動員に伴い、農作業の手伝い、校庭・堤防・鉄道線路横・荒地・山の伐木跡地などに大豆・甘藷・かぼちゃなどの作付け、落穂拾い、いなご取り、野草採取というように、全児童をあげて終戦になるまで、勤労報国運動が続けられた。第167表と第168表は郡中東国民学校長が、伊予地方事務所長に報告した当時の状況である。

 学童の集団疎開 
 一九四三(昭和一八)年の後半から戦局は急速にわが国に不利となり、一九四四(昭和一九)年中ごろから米機の本土空襲が激化した。このため政府は、六月三〇日に「学童疎開促進要綱」を閣議で決定した。この要綱に基づく実施要領によって、愛媛県には大阪市此花区内の国民学校児童が集団疎開することになった。郡中地方には、第169表のように割り当てられた。
 伊予郡郡中町に配置された島屋国民学校四~六年生と桜島国民学校六年生は、彩浜館・米湊集会所・栄養寺・常願寺などに分宿し、旭国民学校などの教室を借りて勉強した。
 大阪を出発の際は、父母はもとより町内の人々に見送られた。九月一五日に郡中に着くと、ものすごい歓迎ぜめで、のぼりや旗をうちふって迎えた。寮に着いた晩には、一人ひとりに会席膳、花型のようかんなどでもてなされた。その後も婦人会などから、みかん・もち・菓子などを送られたり、南山崎へびわ狩りに行ったり、遠足で城山や道後温泉へ行って、比較的恵まれた日々を送っていた。しかし、一〇歳前後の子どもが親もとを離れて暮らすことの精神的苦痛は大きく、夜ともなると、家に帰りたいため寮を抜け出す子や、親をしたって泣き出す子があった。鉄道路線の上り列車を見送って淋しそうにしている子を、教師がそっと部屋に連れ帰るなどのこともあった。
 終戦後、一九四五(昭和二〇)年一〇月一九日、疎開児童は、九時二二分発臨時列車で大阪へ引き揚げた(『郡中小学校沿革誌』による)。


 空襲 
 松山市は一九四五(昭和二〇)年三月一八日から三日間、アメリカ艦載機の機銃掃射を浴び、郡中地方の上空にも、しばしば敵機が来襲した。
 郡中東国民学校の三月一九日の日誌には、次のように記されている。

  一、本日早朝より米国艦載機数十機松山地方に来襲、午前七時一三分空襲警報発令、児童登校禁止す。一〇時四六分、空襲警報解除 一二時二六分、再び空襲警報発令午後三時二五分解除五時三〇分警報解除午前中道後平野及び、隣接海上空は空中戦場と化す
  一、昼食後直ちに防空壕構築す(二箇所)

 五月には、毎日のように不気味なサイレンのうなる音とともに、警報発令が出された。一日に数度にも及ぶ発令で、始業時間は遅延したり、授業は途中で中止して下校させるなどして、午後授業などという変則的な学校生活であった。
 七月になってから敵機来襲はますます激しくなり、一日中警報発令が出て、休校もしばしばであった。七月二六日に松山市が空襲を受けて焼野が原となった。
 一九四五(昭和二〇)年八月一五日、ついに終戦となった。

第165表 昭和16年度国民学校一覧

第165表 昭和16年度国民学校一覧


第166表 満州移民並びに青少年義勇軍送出状況

第166表 満州移民並びに青少年義勇軍送出状況


第167表 学校報国農場開墾状況(昭和19年3月10日現在)

第167表 学校報国農場開墾状況(昭和19年3月10日現在)


第168表 学校時局活動実施状況(昭和19年3~4月)

第168表 学校時局活動実施状況(昭和19年3~4月)


第169表 疎開児童宿舎別割当表(昭和19年8月調)

第169表 疎開児童宿舎別割当表(昭和19年8月調)