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伊予市誌

2 教育委員会

 教育委員会法の制定 
 戦後における地方教育行政制度の改革は、文字どおり抜本的であった。その端緒となったのは、地方教育行政について、地方分権化の徹底と住民自治の実現、教育行政の一般行政からの分離、独立のために、米国に発達した教育委員会制度を採用すべきであるとの米国教育使節団の勧告である。そして一九四六(昭和二一)年九月発足した教育刷新委員会の建議をとり入れて、一九四八(昭和二三)年七月、教育委員会法が制定された。

 教育委員会の発足 
 一〇月五日、我が国初めての地方住民の公選による県教育委員の選挙に対して、県教育部と進駐軍地方軍政府は、精力的な広報活動を開始した。第一回の県教育委員の選挙によって、伊予郡砥部町の阿部公政ら六人が委員に選ばれ、ほかに白石春樹が県議会選出の委員として県教育委員会が発足した。市町村教育委員会の設置は当初、一九五〇(昭和二五)年と予定されていたが、諸般の事情から二年遅れて、一九五二(昭和二七)年一一月一日まで延期された。これまでに各市町村で公選委員と議会選出の委員が決定した。各市町村教育委員会は、早速社会教育を主として活動を開始し、地教委自体の研修もまた活発化した。また学校施設設備の充実にも力が注がれた。

 伊予市教育委員会の発足 
 一九五五(昭和三〇)年一月、伊予市制の発足に当たって郡中・南伊予・北山崎・南山崎各町村の教育委員長が新市の教育委員となり、議会選出の委員を加えて伊予市教育委員会が発足した。
 事務局は灘町広場の元自治警察署跡で、郡中公民館と同居した。

 任命制度教委の発足 
 教育委員会制度は教育上の急激な改革であったため、実施後いろいろ問題を生じて、各方面で論議がされた。一九五六(昭和三一)年一月、政府は教育委員会制度を改正することを決め、同年三月国会に提出、六月に同法案は成立した。この法案の特長は、これまでの委員の公選をやめ、地方公共団体の長が、議会の同意を得て任命するのである。こうして同年一〇月一日、県教育委員並びに各市町村教育委員が任命された。

 勤務評定問題 
 地教委の任命制が実施され、最初に直面したのは勤務評定問題であった。愛媛県は県財政窮迫のため、昇給予定教員全員を昇給させる財源に困り、やむを得ない対策として、勤評による昇給方針を打ち出した。任命制となった県教育委員会は、一九五六(昭和三一)年一一月一日の定例委員会で、公立学校教職員の昇給昇格は、勤務評定を参考として行うことを決定した。これに対し愛媛県教員組合は絶対反対の立場を取ったため、両者の話し合いは行き詰まった。伊予市におけるその後の経過は次のようであった。
 一九五六(昭和三一)年一二月五日、県教委の召集した松山管内小中学校校長に対する勤務評定説明会に、松山市の校長は出席したが、他は出席しなかった。伊予市・伊予郡の校長も欠席した。一二月一九日、伊予市内校長会を開催し、教育長菊澤薫から勤務評定説明会への出席を要請し、校長側は評定実施の困難を訴えた。
 一二月二四日、伊予教育事務所における勤務評定協議会に、伊予郡・市全校長、教育委員長、教育長ら約五〇人が出席した。県教委からの説明に対して校長から切々と悩みが訴えられた。
 一九五七(昭和三二)年二月二日、伊予郡・市校長全員が勤務評定書を地教委へ提出した。一〇月一六日、再び勤評問題が起こって、中予各郡市教員組合員全員参加のもと、抗議集会が松山市で開催された。一一月二一日、一ノ瀬楠矩(郡中中学校長)、篠崎豊秋(伊予中学校長)が地教委に勤務評定提出の延期を申し入れた。一一月七日、伊予郡・市校長は全員地教委へ勤評を提出した。
 一九五八(昭和三三)年三月三一日、伊予郡市校長三六人は全員郡教組を脱退した。九月一五日、勤評反対の伊予郡市総決起大会を五色浜で開催したが、郡教組の足なみは乱れた。
 こうした血みどろの勤評闘争によって、伊予市・伊予郡の教育は多少の混乱をまぬかれなかったが、伊予市においては、宮内教育委員長、菊澤教育長の一糸乱れぬ態度と、現場校長及び教員の良識によって、他郡市にさきがけて平静に復した。

 教育研究部の活動 
 一九五五(昭和三〇)年四月、伊予市教育委員会の陣容が整ってから、学校教育・社会教育の両面での活動が次第に活発となった。初代教育長岡田盛は市に教育研究機関を設けることを発案して、これを伊予市教育研究部と称し、補導主事を中心に各学校から専門委員を委嘱し、当面の教育研究を推進することになった。当初の研究課題としては、学力調査・体力調査・社会科資料収集・道徳教育の研究を選び研究を進めた。二代教育長菊澤薫も教育研究に意欲を燃やし社会科研究委員会では、まず「楽しい校外学習」を刊行し、続いて社会科副読本『伊予市のくらし』の編集に取り組んだ。当時愛媛県内では、松山市教育研究所編の『松山のくらし』があるだけであった。委員たちは精力的に資料を集め、学習指導要領に準拠して、教科書と連関を持った読本の編集を目指した。数多くの会議と推こうをかさね、ついに昭和三三年度末に印刷を完了した。昭和三四年度から各学校は三・四年に使用させることになった。その後この副読本は、改訂を経て、続いて使われている。
 研究部は社会科のほかに研究課題関係の資料、その他次々新しい課題に取り組みながら、資料を刊行して教育現場の指針とした。

 北山崎小、郡中小の校舎建築 
 伊予市発足の将来の構造に小中学校施設の拡充整備が挙げられていて、一九五六(昭和三一)年一一月、北山崎小学校の木造二階建て校舎建築に着工し、一九五七(昭和三二)年に六教室の校舎が完成した。
 郡中小学校は、一九五六(昭和三一)年二月理科校舎が完成、一九五九(昭和三四)年一月本館校舎が完成した。このとき北側正門を西側に移し、松本小学校時代とはまったく学校の面目を改めた。

 学校給食施設の整備 
 一九四六(昭和二一)年に出された「学校給食の普及奨励について」の文部・農林・厚生各次官通達によって、当初は各学校でミルク給食が行われたが、一九五四(昭和二九)年四月「学校給食法案」が成立をみ、六月「学校給食法」が公布されたので、全校児童生徒を対象として完全給食を行うため、給食施設が整備されるようになった。伊予市でこれに先べんをつけたのは、伊予小学校であった。校長足立邦芳は、児童の健康増進のため給食の必要を力説し、一九五七(昭和三二)年三月他校にさきがけて、給食調理室を市費とPTAの寄付で落成した。これに次いで、一九五八(昭和三三)年には唐川小学校、一九五九(昭和三四)年には南山崎小・中学校と北山崎小学校に、給食室が落成した。郡中小学校は、一九六〇(昭和三五)年四月に完成した。郡中小学校に建設計画の際、玉本市長は全市内小・中学校の給食室を統合して、給食センターの建設構想を提案したが、諸種の都合によって実現しなかった。なお、伊予中学校は伊予小学校より二年遅れ、昭和三四年度から給食を実施した。統合した港南中学校は校舎建設後の昭和三七年度から給食が開始され、ここに伊予市の全小・中学校に給食施設が整備され、完全給食が実施されるに至った。

 鵜崎・平岡部落児童の通学問題 
 昭和時代の初期、南山崎小学校の移転問題が起こった。一時は唐川小学校を廃校とする案も出ていたので、通学距離のもっとも遠い鵜崎部落では、比較的に距離の近い砥部小へ児童を登校させる父母ができた。砥部町の区域内に仮家を建て、そこへ児童を寄留させ、そこから砥部小へ通学させようとした。しかし、事実はほとんど実家から通学させていた。その後この問題は、南山崎村対砥部町、後には伊予市対砥部町の問題として長く交渉が続いた。一九五八(昭和三三)年九月三〇日、愛媛県庁で両者の代表による手打式が行われ、昭和三四年度から梅の木谷と中谷は砥部町に編入し、ここにこの問題はやっと解決した。
 一九五八(昭和三三)年一一月一日、平岡部落の伊予市編入に伴って、平岡部落から佐礼谷小学校へ通学していた児童男一一人と女一一人は南山崎小学校へ、佐礼谷中学校へ通学していた生徒男一人と女四人は南山崎中学校へそれぞれ編入した。一九〇九(明治四二)年佐礼谷小学校の新築によって、南山崎小学校への教育事務委託が解かれてから約五〇年で、平岡部落児童生徒は、部落から眼下に見える南山崎小・中学校へ通学することになった。

 水泳プールの建設 
 一九五六(昭和三一)年八月、伊予中学校に水泳プールが建設された。当時県下には松山市の勝山中学校と宇和島市の和霊小学校にその施設があった程度で、伊予中学校長篠崎豊秋が、この建設を正式に打ち出した時は、市の理事者・議会議員・父母ともに驚いた。最初は相当の非難もあったが、日野重雄と石丸政市の中・小学校PTA会長がよく理解してこれに同調し、武智惣五郎をはじめ地元議員もこれに協力して、ついに市当局を動かし完成した。その後、第177表に示すように、各学校に続々とプールが建設され、伊予市全小・中学校では、水泳指導が本格的に行われることになった。建設に当たっては用地の確保はもとより、多大の建設費を必要としたので、国庫補助や市負担では賄い切れないため、建設推進に当たった人たちの苦労は並々ならぬものがあった。

 中学校の統合 
 伊予市において中学校統合問題が起こったのは、一九五七(昭和三二)年五月八日の臨時市議会の時であった。以来市教委の課題として研究をはじめ、同年六月一八日に市助役をはじめ議会代表、各種団体長、区長、教育委員からなる「伊予市中学校施設設備協議会」を結成して中学統合について論議を重ねた。その結果、具体的な統合の三案(A案南・北山崎の二校統合、B案郡中、南・北山崎の三校統合、C案Bに伊予を含めた四校統合)を提出し、各地区に持ち帰って住民の意思を取りまとめ、同年一二月七日の総会にその結果を持ち寄った。
 唐川と伊予校区は反対し、南山崎校区は時期尚早であるとし、北山崎校区だけが賛成した。郡中校区は原則的に賛成だが、積極的に他の地区へ働きかけないという報告があった。そこで小委員会を設けてこの問題を更に深く掘り下げ専門的に研究した結果、一九五八(昭和三三)年二月二七日に総会を開き「北山崎中と郡中中を統合するのがよい」との結論に達したので、城戸豊吉市長にこの旨を答申し、協議会を解散した。
 同年五月一二日、市議会は市長提案の統合中学校建設について議決し、新たに両地区区長・正副議長・文教委員・教育委員で構成された「伊予市中学校統合推進協議会」を発足させた。同年六月一四日の協議会で、校地の位置を米湊三番耕地の現在地に決定し、直ちに買収交渉に入った。じ後、折衝を重ねること二四回という難航の末、一九五九(昭和三四)年九月二七日に、ようやく地主二四人と市との間に校地買収の契約が成立した。
 その間、八月六日の議会で八月三一日限り郡中・北山崎両中学校は廃止し、九月一日伊予市立港南中学校設置の議決が、一人の反対も無く満場一致で行われた。こうして建築に対する国補助額も内定したので、関係予算を審議する九月議会が開かれた。
 ところが、中学統合に積極的賛成であった北山崎中学校校下から、統合反対の火の手があかっか。九月一〇日、校区教育振興会は統合問題について協議し、続いて、九月一五日にも協議した。九月二八日は一部住民が中学校統合反対期成同盟会の名をもって市役所へ押しかけ、一〇月一四日にも同様統合反対陳情を行った。その反対理由として同盟会の掲げた文章によると、「港南中学が統合されるまでに市当局が執った手続上には、形の上で誤りはないが、協議会に出席した区長、各種団体長の個人的意見、少数者を代表する意見をもとに、統合計画が進められたので、北山崎校区民の正しい意見は、少しもいれられていない。」というのであった。そして統合の結果は、「①教育が低下する。②生徒が不良化する。③家庭経済の増大を来たす」の三点をあげていた。その後、反対運動は更に大きくなり二年有余に及んだ。

 伊予中学校の施設整備 
 中学校統合に加わらなかった伊予中学校では、独立校としての施設を整備する第一歩として、一九五八(昭和三三)年一二月体育館が竣工した。これまでへき地校以外には認められなかった屋内体育館が、中予に建設された最初であった。水泳プールに引き続いての体育施設の整備は、特に体育に力を注いだ篠崎校長と、これに協力を惜しまなかった関係者の努力のたまものであった。
 一九六一(昭和三六)年、生徒数増加のために学校実習田と武智俊次郎所有の田とを交換して、普通教室三教室を増築した。同年には音楽教室を新設、一九六二(昭和三七)年には家庭科教室を改造するとともに、新教育課程に即応する技術室を落成した。これで一応の施設が設備された。この施設整備についても、PTA幹部・地元出身市議の推進の力が大きかった。

 港南中学校の建設 
 一九六二(昭和三七)年九月一日、港南中学校が開校した。当初は、旧郡中中学校と旧北山崎中学校の両校舎で授業が行われたが、その間に新校舎の建設が着々と進められた。その経過は次のとおりであった。
 一九六〇(昭和三五)年九月三〇日、第一期工事が完成した。普通教室一八、製図室ニ、音楽室一で建坪六一六坪、経費は、二、四一二万円であった。一九六一(昭和三六)年三月一五日第二期工事が完成した。理科室・家庭科室・音楽の特別教室及び準備室で、建坪五三二坪、経費は二、四三二万円であった。同年四月一日、全生徒は新校舎へ移転した。一九六二(昭和三七)年一月一三日、第三期工事が完成した。普通教室一四・職員室・校長室・応接室・保健室・図書室・教材室・放送室で、建坪七九九坪、経費は四、一〇〇万円であった。一九六三(昭和三八)年五月六日、建坪五〇五坪の屋内運動場が経費三、七三〇万円で落成した。一九六二(昭和三七)年四月一日、技術室が落成した。経費は六三〇万円で、建坪は一三七坪であった。なお校地面積は二町四反一三歩すなわち七、二一五坪で、買収総額は一、〇一五万余円であった。

 南山崎中学校の合併 
 伊予市の中学校統合によって港南中学校が発足したとき、これに加わらないで独立を続けていた南山崎中学校は、その後校下の父母から港南中学校との統合を希望するものが出たので、伊予市議会は、両校の統合を決定した。一九六七(昭和四ニ)年三月二五日、南山崎中学校では「花橘のかぐやしき 学びの殿堂は消ゆるとも 星霜ここに二十年 若き生命を育みし 法の灯永遠に きゆる時なく里人の 心の奥にともるらん あゝここに溢れし生命ありき あゝここに教への泉ありき」との校長片山正雄作のゆかりの碑を建設し、三月二七日に碑の除幕式とともに閉校式を行い、四月一日両校の統合が実現した。

 学校保健研究発表大会 
 伊予市の学校保健の研究並びに向上推進を図ることを目的として、伊予市学校保健会が生まれたのは、一九五九(昭和三四)年二月であった。当初は学校保健について、関係者が集まって協議する程度の活動であった。九年後の一九六八(昭和四三)年に、学校保健会は学校保健協会と改称し、その事業の一つとして学校保健の大会を開催することになった。大会は研究発表を中心とし、伊予市教育委員会との共催のもとに、学校保健研究発表大会と称した。年度当初には、研究の目標と重点努力目標を掲げて目標達成に努力し、その成果を大会で集約発表した。こうし会
を重ねるごとに、市内各小中学校の学校保健の実績が年々あがってきた。

 社会教育研究大会 
 伊予市社会教育の年間最大の行事と見られる社会教育研究大会の第一回は、一九六五(昭和四〇)年一二月、「伊予市における放送をくらしに生かす運動」の発足を兼ねて、港南中学校で開催された。第二回も同じ形式で行われたが、第三回からは、伊予地区PTA活動研究大会との合同で三か年間開催した。昭和四五年度からは、伊予市単独で、各校区回り持ちで行われることになった。研究主題は、第一、二回は放送の教育的利用が中心であったが、第三回から第五回までは青少年の健全育成を主題とし、第六回からは生涯教育をテーマに研究が進められた。この大会が、伊予市の社会教育関係団体の連絡提携と、強力な社会教育活動のために果たした役割は、極めて大きいものがあった。

第177表 伊予市内プール建設状況

第177表 伊予市内プール建設状況