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伊予市誌

8 幼稚園、高等学校、その他

 幼稚園 
 一九五四(昭和二九)年四月五日、天使幼稚園が米湊西野に創設された。その前年にカトリック教会愛媛管区長リセンテイゴンシャレスは、郡中町長城戸豊吉に面接して教会堂と幼稚園を設立したいという主旨を述べたところ、町長はこれに賛成をしたので、三五〇坪の敷地に八五坪の園舎を建設した。一九五九(昭和三四)年には北隣りの土地を求め増築したので、敷地は七三七坪、建坪は一五〇坪となった。一九五六(昭和三一)年四月、戦時中の近松国民保育所が新たに幼稚園として再建された。
 伊予市発足以来懸案の市立幼稚園は、やっとその機が熟して昭和四九年度から、旧北山崎中学校校舎を使用して開設されることになっている。

 伊予農業高等学校 
 一九一八(大正七)年五月に発足した伊予郡立実業学校は、その後、県立に移管され一九三〇(昭和五)年には、全国優良実業学校として文部大臣の表彰を受けた。その後、加工場・堆肥舎・農具室・温室を完成し、運動場用地・果樹園・実習地を購入して施設を整備した。また、一九四〇(昭和一五)年には男子部の修業年限を三か年に変更し、女子部に家政科を設置した。一九四四(昭和一九)年、校名を愛媛県立伊予農業学校と改称した。一九四五(昭和二〇)年には農業土木科を設置したが、翌年廃止された。
 一九四八(昭和二三)年、伊予農業学校は愛媛県立伊予農業高等学校と改称した。新制農業高等学校としての第一歩を踏み出したが、アメリカ軍政府の占領下では総合制・共学制・学区制の三原則の実施が強調されたので、翌一九四九(昭和二四)年の県立高校再編成に当たっては、三〇年の歴史と伝統をもつこの学校も松山南高等学校伊予分校として、やっと存続を認められた。
 同窓会、PTA、学校側の独立に対する熱意によって、一九五二(昭和二七)年に伊予農業高等学校は独立校となった。独立以来のこの学校の充実発展ぶりはまことにめざましいものがあった。
 一九五七(昭和三二)年六月、待望の鉄筋コンクリート三階建ての本館が落成した。当時の伊予市には鉄筋コンクリートの本格的な建造物はなかった。その後、本館の第二期工事、特別教棟、体育館がつぎつぎに完成し、園芸科・食品化学科と科の増設も行われた。

 教育功労者表彰
 愛媛県教育文化賞 大元茂一郎 伊予市米湊

  明治三六年三月愛媛県師範学校卒業、その後愛媛県師範学校地理歴史科訓導・東京女子高等師範学校訓導・熊本県師範学校教諭・熊本農業補修学校長を歴任し、大正八年一二月大洲高等女学校長を最後に教壇から退かれた。氏は四〇有余年の間、若い学徒の教育にまた後輩指導のために精魂を打込まれ、その間各種の文献を発表したり、新しい教授法の理論と実際の研究刷新に寄与された。また社会教育に対する識見と精進も深くその振興と向上のために情熱のすべてを傾倒された。
  新制中学校施設功労者(昭和二五年一一月)
                 大元 市太郎 伊予郡北山崎村
                 山崎正三 伊予郡郡中町
                 岡部仁左衛門 伊予郡郡中町
                  (『愛媛県教育史』第三巻による)

第183表 伊予市の幼稚園の状況

第183表 伊予市の幼稚園の状況