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伊予市誌

二、現代の神社

 新田神社
 伊予市大平一〇一五番地にあって神官は星野萬四郎が兼務し、祭神は新田義治の神霊である。伊予市大平四ツ松の山林の中にある当社は、国道五六号線から一〇〇㍍余り山手に進み、更に高さ六〇㍍余りの急傾斜の石段(一五八段)を登りつめた所にある。昔からこの神は痢病に霊験があると言われて、遠近からの参拝者が多くあったが、近時は一般に敬神信仰の風が薄れたためか、祭日にさえ参詣人はまばらとなった。社記によると、脇屋義助の子である新田義治は、南朝の長慶天皇の御代、一三七〇(建徳元)年五月に伊予の国に来て、六月一三日に大平村で痢病にかかり四五歳で没した。社殿から一二〇㍍ばかり離れて墓所がある。死に臨んで弓矢を流し、甲冑を埋めさせたという。そのため甲谷・冑谷・小手谷・弓矢が淵などの地名が今も残っている。伊豫温古録によると義治の死に所については諸説がある。河野家の家譜には、一三八四(永徳四)年正月に義治は義宗とともに伊予の国に来て、宇和郡で亡くなったとある。北朝の永徳四年は南朝の建徳元年から一五年後のことである。
 また、温泉郡湯山村にある下新田神社(当社を上新田神社という)の碑文には、同所の日浦で亡くなったとある。一方、讃岐の国大内郡土居村に義治正統の子孫がいて、宇摩郡下山村で生涯を終わったとか、大浦郡土居村で亡くなって同村字竹谷の森の中に墓があるとか言われている。義治の死に所はこのように諸説があるが、彼の忠義の霊を祭る神社には必ずその効験をあらわすものと信じ、至誠をもって奉祀した。義宗・義治は二人とも南朝を守護して数回義兵を挙げたが、いつも敗北していた。幸いにも生き延びて素志を捨てず、伊予へ来て秘かに隠れていた。河野氏は二人の忠節心の深いことを思って、敵地から遠い宇和郡のさびしい辺地においてやった。当時、細川氏は足利家の腹心の藩士で、阿波・土佐・讃岐の三国を領有していた。新田氏にとって足利市は仇敵であったから、これを倒して自分の功を誇ろうと願っていたにちがいない。しかし、讃岐にしても宇摩郡にしても細川氏の掌中にあったので、新田氏が自らその地に行ってとどまるのは、危険この上もないことであった。新田氏の忠勇の肝がいかに大きくても、あえて火中に入る夏虫の危険をおかすような愚か者ではなかったにちがいない。このことから義治の死に所は伊予郡大平村の新田神社の社記が正しく、義宗の死に所は上浮穴郡中田渡村の新田神社の伝を真実と信ずるほかはない。また、義治、義助の二人が宇和郡で亡くなったとする河野家の家譜にもこたえるものである(『南山崎村郷土誌』)。
 新田大明神の新田義宗・義治は土居・得能を頼って落ちて来たという。当時、灘村に得能氏がいたので、この大平の地と田渡にかくれていたのであろう。河野通直の時になってこの二人がはるばる、我が伊予の国に来て目的を果たさず、亡くなったのは誠にあわれであった。幽魂はいつまでもこの地に止まることであろうといって、道後郡に二つの社を建てて、義宗と義治を神にまつり、上の新田神社(当社)・下の新田神社(湯山村)といった(後略)(『大洲旧記』)。
  注、宇和・喜多・浮穴・和気・久米・伊予・温泉の七つを道後郡という。

 大鷦鷯神社
 伊予市大平曽根乙八四番地にあって、神官は星野萬四郎が兼務し、仁徳天皇を奉祀している。勧請年代は明らかでない。一八七一(明治四)年までは稲荷神社の境外末社であったが、同年村社に列せられた。一九〇九(明治四二)年一〇月一一日に、山之神神社(祭神大山積 命外二座)と廃高神社(祭神菅原道真)を合祀し、同年一一月九日に維持方法の認可を得た。位置は国道五六号線に接しているが、神域は山のふもとの古杉老樹のうっそうと茂った間にあって、いかにもおごそかである。『大洲秘録』によると、神社の下にかれ葉の水という名水があるという。

 中御前五社大神社
 伊予市下唐川甲五三八番地にあって、神官は星野萬四郎が兼務し、祭神は保食神・伊弊諾命・伊弊冊命・国常立神・猿田彦命で、末社に天神社(祭神は菅原道真)がある。勧請年代は明らかでない。一八七一(明治四)年までは、稲荷神社の境外末社であったが、同年村社に列せられた。一九〇九(明治四二)年五月一七日に、永野にあった天神社を合祀し、同年一〇月一六日に維持方法の認可を得た。神殿には流造りの本殿と中殿・拝殿がある。

 浜出稲荷神社
 上唐川本谷甲二二番地、神官は星野暢広の兼務。祭神は保食神・伊弊冊命・猿田彦大神・瓊々杵命・稚産靈神である。当社ははじめ翁山(片山ともいう)の山上に、神代から鎮座していた霊験あらたかな神であって、神功皇后が三韓征伐の時、当国の海浜にあらわれて神徳を示したので、この地に迎えて祭った。その後、伊豫守源頼義が社殿を修築したが、一度火事に遭って焼けた。安徳天皇の寿永の御代に、倉橋麻呂の二〇代目の正統である将監太夫阿部康義が、当国に下向し翁山に登ってみると、榊の大木がこうごうしく茂り、それが辰己の方に流れているのを見て、不思議に思っているとき、当社の神が老翁となって現れ出て「沙能はここに来た。われは朝廷のために皇統を守ろうとするものである。昔からこの土地に宮を建て、三韓征伐の時の御神徳によって、浜出稲荷五社大明神と社号をつけた。そして康義は当社の神官となった。時は一一八五(文治元)年八月一三日であった。その後、河野家から二、〇〇〇石の神領を寄付せられた。白滝城主の中村主殿正は武功のあった人で、大いにこの神を崇敬し、一七四五(延享二)年に社殿を再建した。これが今の社である。境内に宝剣殿があったというが今はない。建造物には本殿・幣殿・拝殿・神門がある。鳥居は木造で笠木・島木ともに反りを見せる典型的な明神鳥居である。社宝には古い面相をした古面が二面と頭巾型のかぶとなどがある。境内に森田電死久の歌碑がある。氏子は上唐川である。

 清神社
 伊予市両沢にあり、神官は和気省一が兼務し、祭神は祗園牛頭天王である。勧請の年は明らかでない。初め白滝山の頂にあったが、いつのころかふもとの現在地に移したものである。一九〇九(明治四二)年一〇月一六日に維持方法の認可を得たが、一九一一 (明治四四)年六月五日には郷社大宮八幡神社へ合併された。本殿と拝殿はそのまま残され、拝殿は地元の人たちの寄進によって一九五五(昭和三〇)年に改築された。

 水之明神社
 伊予市三秋三九一番地にあり、神官は星野暢広が兼務し、祭神は水波能売命・市杵島比売命・ほか五座(境内末社)である。当社の創立は明らかでない。一八一一(文化八)年一〇月正一位の神階を裁下された。もと明神山の山中に鎮座し、祈雨の神とし領主加藤侯をはじめ、伊予・浮穴・喜多の三町四〇か村の祈願所となっていた。一八七三(明治六)年稲荷神社の境外末社として村社となった。一九一〇(明治四三)年、明神社のふもとのよう拝所であった現在地に、本殿を建てて奉遷したのが今の社殿である。毎年七月一八日の土用干祭には、神宝を奉じて氏子一同でお籠りの行事を行う。氏子は三秋である。

 伊豫稲荷神社
 伊予市稲荷一二三〇番地にあり、神官は、宮司が星野萬四郎、禰宜が星野暢広である。
 祭神は、宇迦能御魂大神(倉稲魂神)、伊邪那美命、邇々芸命、久々理比売命、大宮能売命である。境内末社には、庚申社(祭神は猿田彦大神)、田中社(田中大神を祭る田中社と四大神を祭る四大神の合殿)、海社(祭神は綿津見神)、新田社(新田神社遙拝社)、五臓社(祭神は天八下魂命、天三下魂命、天合魂命、天八百日魂命、天八十万魂命)があり、境内小祠には久美社(九尾狐霊)と命婦社(命婦狐霊)がある。
 社伝や平安遺文によると、今からおおよそ一千百余年の昔、第五二代嵯峨天皇の御代、八二四(弘仁一五)年二月午の日に国司伊豫守越智宿祢為澄が勅を奉じて山城国伏見稲荷神社から勧請し、石田郷の総鎮守とした。氏子は国司の知行地の保田・山崎保であったが、その後伏見稲荷大社の荘園となった。弘安の役の功によって河野通有が山崎郷(石田郷の改称)を賜ってから、当社を祈祷所として河野家代々の崇敬が深かった。知行安堵状によると、神領地(稲荷・市場)が神主星野太夫に与えられ知行が許されていたようである。一六三五(寛永一二)年お替地によりこの地方が大洲領となって以来、藩主加藤家も当社を深く信仰した。次いで当地方が新谷領となってから藩主加藤直泰もあつく尊崇し、両藩代々の祈願所となり、藩主をはじめ重臣たちがたえず参拝奉幣した。
 その間、一八〇二(享和二)年正月、朝廷から最高の御神位正一位を贈られ、一八七一 (明治四)年には郷社に列せられ、次いで一九三三(昭和八)年には県社となったが、一九四五(昭和二〇)年の神道指令によって、社格はすべて撤廃され一宗教法人となった。
 社殿は一七〇〇(元禄一三)年、一度火災に遭い、楼門だけを残してそのほとんどを焼失したが、その翌々年に再建されて今日に至っている。絵馬殿は一七九五(寛政七)年に再建した。現在は本殿、幣殿、神楽殿、神饌所、宝物館、絵馬殿、手水舎、納札所、社務所などがある。中でも楼門は一六六二(寛文二)年名工治部によって建設されたもので有形文化財として一九六九(昭和四四)年愛媛県から指定を受けている(本誌の美術工芸及び文化財の項参照)。また宝物館には錦手大形神酒徳利、十錦神酒徳利、能面、山姥金時の絵、儀仗用太刀、その他多数の社宝が展示されている(本誌美術工芸の項参照)。境内の久美社と藤の古木についてはおもしろい伝説が残っている(本誌民話と伝説の章及び文化財の項参照)。

 八幡神社
 伊予市中村二八四番地にあり、神官は星野暢広が兼務し、祭神は品陀和気命・帯中津日子命・息長帯毘売命・建速須佐之男命・建御雷神(境内末社)である。当社の創立や由緒は不明である。一八七三(明治六)年稲荷神社の境外末社として村社となり、一九一〇(明治四三)年荒神社・水天宮を合祀した。建造物には本殿と中殿・拝殿がある。氏子は中村である。

 天神社
 伊予市森一七一番地にあって、神官は星野萬四郎の兼務である。祭神は菅原道真と中将殿・吉祥女である。境内末社に厳島神社(市杵島姫命外一座)・春日神社(天児屋根命)・和清神社(大己貴命)の三社がある。当社の創立年代は不明である。一八七一(明治四)年まで稲荷神社の境外末社であったが、同年村社に列せられた。建造物には本殿と中殿・拝殿がある。

 成吉神社
 伊予市本郡六〇九番地にあって、神官は星野萬四郎の兼務である。祭神は底筒男之命・中筒男之命・息長帯日売命・天児屋根命・武速須佐之男命である。当社創立の年月日は不明で、一八七三(明治六)年まで稲荷神社の境外末社であったが、同年村社に列せられた。一九一〇(明治四三)年三月には無格社の春日神社と荒神社を合祀した。一九一五(大正四)年には神饌供進の神社に指定された。建造物に本殿・中殿・拝殿があり、神域は田地に囲まれ境内は明るく清浄である。

 天神社
 伊予市尾崎四五六番地にあって、神官は星野暢広の兼務である。祭神は菅原道真で、末社には厳島神社(田心姫命外二座)がある。当社は昔から米湊村の七反に鎮座していたものを、この地
に移したもので今から約三三〇年前の慶安年間に大洲藩主円明院が、鷹狩の節、鷹が逃げたので当社に祈願したところ鷹が直ちにもどってきた。その神威をかしこみ現在地に遷座して庄内二町一〇か村に、氏神の稲荷神社同様に崇敬せよと仰せ付けがあったという。建造物には本殿と中殿・拝殿があり、氏子は尾崎である。

 宮領八幡神社
 伊予市市場九五七番地にあって、神官は星野萬四郎の兼務である。祭神は品陀和気命・帯中津日子命・息長帯日売命である。境内末社に疫隅神社(建速須佐之男命外一座)、奈良原神社(保食神)がある。当社の創立年月日は明らかでない。一八七一(明治四)年まで稲荷神社の境外末社であったが、同年村社に列せられた。次いで一八七三(明治六)年には神饌供進の神社になった。本殿と中殿と拝殿がある。

 金子天神社
 伊予市三島町九九番地にあって、神官は星野暢広の兼務である。祭神は菅原道真である。当社は創立年代が不明であるが、もと米湊村七反(現在の天理教南郡中教会所付近)にあった畑天神を分祀しかものである。一八七八(明治一一)年六月七日に稲荷神社の境外末社となった時、神徳を崇敬する総代や有志の発起によって、現在地に社殿を建てて町内の守護神とした。建造物には本殿・中殿・拝殿があり、本殿と中殿は一九七三(昭和四八)年改築された。昔の神域(七反)には、明治初年まで一本の老松があったという。周囲二丈余尺(六㍍)のまがりくねった松で枝葉が茂り、俗に金子の天神松といって昔から親しまれていた。この松は八八八(仁和四)年に讃岐の国司であった菅原道真が、風俗視察のためこの地に来られ、御休憩の時自ら植えたものだという。

 山崎神社
 伊予市稲荷五五八番地にあって、神官は星野暢広の兼務である。祭神は明見神社(天御中主神)、十二社神社(伊邪那岐命・伊邪那美命・菊理比売命・天鈿売命・佐田比古大神)、天神社(菅原道真)、河内神社(猿田比古神・天宇受売命、日野石鎚神社(石鎚大権現)である。昔から当所に鎮座していた明見神社は、稲荷神社の境外末社で創立年代は明らかでないが、一七二一(享保六)年に再建された記録がある。一八七三(明治六)年に無格社に列せられ、一九〇〇(明治三三)年には隣接の山林を境内に編入して拡張した。一九一〇(明治四三)年に本村から十二社神社を、客から天神社を、谷から河内神社を合祀して山崎神社と改名した。一九四〇(昭和一五)年に崇敬者の寄進によって本殿・中殿・拝殿ともに改築し、社地も更に拡張した。神域は平坦地にあって周囲は田地であるが、樹木が茂って荘厳である。境内にあるクロガネモチの大樹は、天然記念物として一九六九(昭和四四)年伊予市から文化財の指定を受けている。

 伊豫岡八幡神社
 伊予市上吾川四九五番地にあって、神官は宮司が武智盛浄である。
 祭神は足仲彦命・誉田別命・息長媛命で境内の上之川神社に合併している各末社の祭神は次のとおりである。十合八幡神社(応神天皇ほか三神)、三島神社(大山祇命)、鎌倉神社(源範頼)、神之木神社(猿田彦命)、武之宮神社(須佐之男命)、楠神社三筒男命)、一木之神社(一木弥十郎)、若宮神社(猿田毘古命)、天神社(菅原道真)、松本神社(金山彦命)、山王神社(大己貴命)。
 当社は清和天皇の時代八五九(貞観元)年八月、筑紫の宇佐八幡宮を、山城の男山に勧請する途中で、郡中の海浜に停泊中、霊験があったのでこの地に社殿を建立して、祈願所と定められたのがはじめである。縁起の類は、元禄年中に火事に遭い皆焼けてしまったが、石清水八幡の古文書によると、当社は同八幡の系列に属し、社領が非常に広汎であったことが明らかである。また、『伊豫旧蹟史』には当社のことが、詳しく記録されている。
 大洲領主加藤家では当社を累代の祈願所として崇敬厚く、病気平ゆや雨乞いの祈願をたびたび行い、特に雨乞い祈願はほとんど毎年、年中行事として行われた。「郡の雨乞い」と称し神職が奉仕して神に祈る神事がなされ、その口伝は今も残っている。明治時代の初めに郷社に列せられ、一九〇九(明治四二)年に上吾川の各地に鎮座していた十合八幡神社・三島神社・神之木神社・若宮神社・楠神社・山王神社・松本神社・須佐之男神社・武之宮神社・天神社・鎌倉神社・一木神社などを合併し、上川神社として当社境内に祭ることになった。当社の特殊な行事として、清祓の行事が今も存続している。
 また一〇月一五日の例祭で神輿渡御の節、お旅所で神饌を参拝者に配布する行事がある。これは神様の召し上がったものを、氏子民が共にいただくという神人一体の神まつりの真義を伝えるものである。神域の丘は御留山と称して、昔から鳥獣の捕獲や竹木の伐採を禁止している。この神域には、土地がうずたかくなって御物など納めたと思われる古墳が散在している。これらを八森霊神といって祭っているが、詳しいいわれはわかっていない。しかし、平野の中にある森林として、その面積の広範さ(四、三五九坪)と繁茂する自然林(暖地性の植物多種多様)は、県下にもその類を見ない美観であり、森厳そのものである。社領としての田畑は現在ほとんどなくなったが、当社の南方に御手洗・御子田などという地名があるのは、昔神田であったことを物語っている。また、当社に隣接する八幡池の西側に宇食井戸という井戸があったが今はつぶされている。この井戸は深さ三㍍ばかりの小さい古井戸で、清水が自噴しどんな干天続きにも枯れたことがなかったという。この水は昔、神饌の調理に使用したもので、全国の古社にはよく見受けられる神泉である。この泉から流れる清流を御手洗川といって昔はかきつばたが群生し伊予名所の一つとして、「御手洗川のかきつばた」と歌にまでうたわれたが、今はその姿を見ることができない。建造物には一七三七(元文二)年に建立した神明造り銅板ぶきの本殿をはじめ、一六九四(元禄七)年建立の拝殿や一八四九(嘉永二)に建てたやぐら造り瓦ぶきの神門、そのほか多くの末社殿がある。当社の神域には樹齢数百年の老樹が茂り、その中に多くの古墳群があるので自然林は天然記念物として、古墳群は史蹟としてともに県の文化財の指定を受けている(本誌文化財の章参照)。

 湊神社
 伊予市米湊九〇九番地にあって、神官は星野暢広の兼務である。祭神は武速素盞鳴尊・櫛稲田姫命・菅原道真・品陀和気命である。当社の創立年代は不詳である。古来稲荷神社の境外末社であったが、一八七三(明治六)年村社に列せられた。俗に天王さんと称せられ崇敬されてきた。一九一〇(明治四三)年に西野から若宮神社を、七反から天神社を合祀して湊神社と改称した。建物は本殿(一坪)と中殿(三・九二坪)と拝殿(一三・六五坪)である。

 五色浜神社
 伊予市灘町三〇九番地にあって、神官は星野萬四郎の兼務である。祭神は上筒男命・中筒男命・底筒男命・息長帯比売命と菅原道真である。境内にある末社の祭神は多賀神社が伊邪那岐命、生目八幡神社が悪七兵衛影清、厳島神社が市杵島比売命・多紀理比売命・多岐津島姫命、恵比須神社が大己貴命・少比古那命、和歌八幡神社が品陀和気命、和霊神社が山家公頼である。当社の創立年代はわからないが、古来稲荷神社の境外末社であった。明治時代の初めに天神社を住吉神社に合併して、五色浜神社と改称し村社に列せられた。一九〇九(明治四二)年に前記の六末社を合併しか。神域は五色浜の海岸にあり、多数の松が林立していて美しい。建造物には本殿(流造り二・二五坪)と中殿(一三・九坪)と拝殿(一三・九坪)と社務所(四・〇坪)と倉庫(七坪)がある。一九七九(昭和五四)年に本殿と社務所を、一九八三(昭和五八)年に各末社を改築した。毎年一月一〇日の十日戎祭・七月一七日の宮島祭・七月二九日の住吉祭には多数の参拝者があってにぎやかである。社宝には伊藤博文の書いた「神号」がある。

 湊神社
 伊予市湊町二四六番地にあって、神官は武智盛浄の兼務である。祭神は事代主神・菅原道真・上筒男命・中筒男令・底筒男命・息長足日売命・豊玉姫命である。当社は湊町の海岸にあり、創立は明らかでないが、一七二九(享保一四)年天神社を勧請し一七五四(宝暦四)年戎神社を勧請した。一九〇九(明治四二)年一二月二四日に、戎神社に、天神社と海津見神社・住吉神社を合併して湊神社と改称した。そのため今でも人々からお戎さんといわれ、特に漁民と尊崇があつい。氏子民にはまだ一度も漁船が遭難して死亡した者がなく、広く神徳の高いことを伝えている。建造物には一九一一(明治四四)年五月に改築した本殿(神殿造り銅版葺)と中殿(平家造り)と拝殿(流造り)がある。

 宇佐神社
 伊予市下吾川六六六番地にあって、神官は武智盛浄の兼務である。祭神は応神天皇で、境内の吾川神社に合祀している末社の祭神は、祇園神社が素盞鳴命、牛王神社も素盞鳴命、三島神社が大山祇神、明神社が三女神、恵比須神社が事代主命、天神社は菅原道真である。当社創立の年代やいわれは不詳であるが約三〇〇年前の鎮座であるという。明治初年村社に列せられ、一九〇九(明治四二)年になって、下吾川社地内の処々にあった祇園神社・天神社・牛王神社・明神社・三島神社・恵比須神社を境内末社として合併し、吾川神社と称することになった。これらの神社は、この地方で先祖以来厚く崇敬して来たが、いずれもいわれはわからない。ただ、古老の話によると、明神社は、昔芸州(広島県)から勧請した神であるというが、その時代は不明である。安永のころ、この神社に人なれた鹿が四~五度来たことがあり、いつも海を渡って帰っていったが、中にはこの地で死んだのもあったという。この鹿は安芸(広島県)の厳島から来た神鹿であるといわれているが、真偽のほどはわからない。天神社は、菅公が筑紫へ帰るときこの地に立ち寄ったので、その縁故でここに社を建てて祭ったものであるという。建造物には本殿(流れ造り瓦葺)、中殿・拝殿(平屋造り瓦葺)、神門(四足門瓦葺)がある。神域は下吾川本村部落の中央にあり、民家に囲まれ老木数本がおい茂っている。拝殿に一八七九(明治一二)年コレラ流行の際、平癒祈願のため奉納した漢詩の神額がある。田中英安の書で、絵は武智良吉が描いたものである。

 鎌倉神社
 伊予市上吾川十合にあって、神官は武智盛浄の兼務である。祭神は源義朝の六男で蒲冠者源範頼である。源範頼とその弟義経の墓所はどこにあるのか今に確定していないという。範頼については伊豆修善寺町の修善寺にあるといい、横浜市金沢山の称名寺にあるともいわれ、また伊予国吾川郷の稱名寺(当地)にあるといっている。どの説も確かな根拠がないが、当地の墓所について考えると、伊予の豪族河野氏との関係でこの地に落ちて来たのであろうというのが、現在史家の定説となっているという。火災のため文献が焼けたので、確証がなく断定できないのは遺憾である。当社が範頼の墓所として祭られ鎌倉神社として崇敬せられるようになったのは今から約三〇〇年前である。大洲藩士野口長左衛門の口述(『温古集』)によると、「大洲藩主加藤泰恒が当地へお越し遊ばされた時、蒲冠者の墓に御参拝になったが六~七間前から御跣にならせられ、二~三間前から御脆づき御はいより御参拝遊ばされた云々」とある。現在の墓石は江戸末期に大洲藩主が建立したものである(『大洲旧記・伊豫二名集』)。
 当神社は古来、戦いの神として戦勝祈願や武運長久祈願のための参拝者が多く、殊に第二次世界大戦の際は、当地方ばかりでなく広く他郡市や遠くは他県からの参拝祈願者も数多くあった。最近は世相の変遷につれて参拝者が減ったが、それでも重病人の平癒、入学試験の合格、災やくよけ、縁結びなどの祈願に訪れる人が相当数ある。神域は谷上山のふもと、称名寺の山門の下にある池のほとりの森の中にある。本殿と拝殿(一九七三(昭和四八)年改築)があり、その後に墓所があって、高さ約二㍍の石塔に「蒲冠者源範頼之墓」とある。拝殿の前庭には夏目漱石の句「蒲殿やいよいよ悲し枯尾花」「木枯らしや冠者の墓撲つ松落葉」の二つの句碑がある。

 埜中神社
 伊予市下三谷二三八三番地にあって、神官は星野萬四郎の兼務である。祭神は伊弊諾尊・伊弊冊尊・鹿屋野比売命で、末社に御崎神社(須佐之男神)、天神社(菅原道真)を祭っている。『伊余志』によると神戸郷御谷邑の四所明神二三柱の神は、上古より国造が祭っていた古社であるので、伊與村の神と総称する。この四柱は本郡の産土の神であって、歴代の天皇や皇子の崇敬深く、他の神社と異なる風習があったとある。この四所明神の一つである伊余野中宮は当社のことである。御谷四所名神社伝によると、上古国造が神籬を四所に祭った跡が今の神社である。推古天皇の御代の四年(五九六)一〇月に、厩戸皇子が当国に行啓になり、国司散位小千宿禰益躬に令旨を下して、四所名神の神殿を造立させたとある。『伊豫旧記』には、伊予国一四郡内伊余郡神戸郷御谷邑伊余埜中大明神宮、別名伊豫中大明神とある。伊予国大洲領新谷領旧記には、下三谷村は伊予郡三谷郷で昔は神戸郷の内であった。氏神は野中大明神で一五九〇(天正一八)年、総社合祀までは伊余中大明神といっていたとある。以上の諸書で見る所では勧請年代は不明であるが、大昔から衆人の崇敬が他の神社と異なっていた。当社の前から三二〇㍍ばかり西の方に大鳥居の跡がある。また、その近くに野中の清水という神池があって、最近まで毎年正月の神祭り用の水は、この神池の水を用いていたという。昔は社地が広大であったことが、これらのことから推察することができる。本殿も近郷にまれな大型である。この本殿は一九三七(昭和一二)年に従来の桧皮葺を銅板葺に改め現在に至っている。

 広田神社
 伊予市上三谷三一六六番地にあって、神官は武智盛明である。祭神は天照大神、配神が月夜見命、大山津見命、天道日女命で、境内の末社に富田神社(大穴牟遅命)、青木神社(猿田彦命)、尊霊神社(高皇産霊命外二座)、高守神社(御食神)、三光神社(八幡神社と合祀、神功皇后)、岩崎神社(水波之女神)、生目八幡宮(悪七兵衛影清)、八重神社(須佐之男命)、庚申社(猿田彦神)、石鎚神社(石土彦命)を祭っている。大昔、国造がこの地に神籬をたて広田大神(摂津国武庫郡広田大神)を奉斎した。推古天皇の御代の四年一〇月に厩戸皇子が勅を奉じて当国に行啓された。そのとき、国司散位小千宿禰益躬に令旨を下し神殿を造立させ御谷大神宮と称し、神護寺を建てさせた(この寺は伊予七八伽藍の一つで後に谷上山に移された、今の宝珠寺である)。当社は伊予国二五大神宮の一つで朝廷の尊崇が特にあつく、神位を授けられ、幣帛を奉るお告げがあり、それに神戸と神田が付けられていた(『神祗令二州一覧及び元弘神明記』)。また、当社の祭神は神功皇后が三韓征伐のとき、特別の神徳があった神で海上守護の神といわれ、軍神とも仰がれ、昔から武家の崇敬があつかった。一一九〇(建久元)年に伊予守河野通信は神殿を再建し神領を寄進した。その後、河野通有・通村・通能ら数代にわたって、神殿の補修や神田の寄進をした。江戸時代になって藩主加藤家の崇敬もあつく、社殿を修理したり物品を奉納したことが、『伊豫志』や『伊豫旧記』によって明らかである。また、日本紀によると神功皇后の皇子が誕生のとき、この神に祈願されたので安産守護神と仰ぎ、祈願が満ちる時奉賽としてえいを奉ったり花を植えたりする風があった。このためか、当社には今でも花木が多くあるという。建造物には本殿・中殿・拝殿・倉庫・手水舎があるほか境内末社一〇殿もある。神域はおい茂る古木の森で境内の荘厳さを維持している。社宝には甲冑や扁額や棟札などがある。

 三谷神社
 伊予市上三谷三五二五番地にあって、神官は武智盛明の兼務である。祭神は天御中主命・天照皇大神・伊邪那岐命・伊邪那美命・猿田毘古命・国常立命・天照国照彦命・天照命櫛玉饒速日命・大市玉命・天山命・大物主命・宇摩志麻治命である。当社は一九一〇(明治四三)年に村社中御前五社大明神社と村社若皇神社と無格社金刀比羅神社を合祀して、村社三谷神社と称するに至ったものである。
 中御前五社大明神社の創立は大昔のことで詳しいことがわからないが、口伝や古記録によって見ると、推古天皇のころ、聖徳太子が始めた四社明神の一つである。当時は原町村大字七折の幣が峯に鎮座していたが、いつのころからか大谷川の左岸で今の古社という所へ位置を変えた。両三谷の氏神として尊崇があつかったが、川水のため岸がくずれて危険になっていたうえ、たまたま大雨があり行幸橋と社殿の一部が流失した。ところが、その夜神幣が飛んでどこかへ行ってしまった。現在幣田と称している所はその跡であるという。新たに三色谷の地に社殿を建てて祭っていたのが、合祀のときまであったものである。
 若皇神社は若一社・若市王大神宮・若皇社などとも言う。『豫州大洲領御替地古今集』によると、当社は上三谷村の氏神である。但し平松組は宮下村伊曽能神社の氏子である。養和から元暦のころまで一の谷・壇の浦・赤間が関の戦に出た河野四郎通信一族は、若一社の神力によって戦功をたて、鎌倉右大将二位殿から御教書を賜り、三谷・吾川・伊予・久米・浮穴を知行した。当社の産子は向井・垣生・武智・高市の村人である。一一九五(建久六)年の別当は正円寺の権大僧都快源と神主大舎人藤原朝臣森正であった。御神体は熊野権現である。その縁起によると一五七七(天正五)年太閤秀吉が西国を鎮めに行く途中、当地に滞在した時賊が若一社へ乱入して、社殿や社家を全部打ち壊した。一五九六(慶長元)年になって、三河国藤原朝臣加藤左馬介が当国の安権使で来たとき、「若一社は高市の氏神で源氏代々の鎮守であるから捨て置くことはできない」と、一六〇二(慶長七)年に釿初めをし、奉行の友沢兵衛尉を三谷氏子として、同年八月に再建を成就し遷宮したのがこの若一社である。社領は二〇〇石になっていたが、その後次第になくなり五石余りになっていた。多喜寺という小庵の所を墓地にして、正円寺を檀寺祈願所とした。境内の北に大松があり、上枝が折れて下枝にかかったまま三〇年も生きていたが終に枯れた。この松に金毘羅さんが来迎し心願すれば必ずかなうといって参詣する人が多くあったという(『御替地古今集』による)。

 伊豫神社
 伊予市上野二四八五 二四八六番地にあって、神官は武市盛幸の兼務である。祭神は月夜見命・愛比売命である。境内末社には正一位時雨神社(水分神外三座)、弥光井神社(愛媛命)、山本神社(須佐之男命)、猿田彦神社(猿田彦大神)がある。当社は上古よりこの地(上野神戸郷)に鎮座せられた国家守護の一宮で、延喜式に載せられている式内大社である。祭神は当伊予の国の国魂神で昔から朝廷の尊崇が特にあつく、勅使の参向があったこと、神戸の備えがあったこと、神階にあずかったことなどが日本記・三代実録・その他の古史や当社に伝わる古い書類を見ても明らかである。また、当社は河野家累代の尊敬も深く、後世大洲藩主の祈願所となり、藩主の参拝はもとより祭祀料が年々献上された。昔は社地の広さが八町余歩(八㌶余)にもわたり、その風致は特にすぐれていた。社殿は北向きで前に川があって宮川と称した。この宮川に勅使橋があり、後で掛け足したものが現存している。本殿の東に泉水があり、真名井または弥光井という。この泉水には当社に関する深い由来があり、その遺跡に弥光井神社という小さい祠がある。当社の摂社で愛比売命を祭る社であったが、一九一〇(明治四三)年に境内末社として合併した。なお、このほかにも、後世になって土地開拓に際し、霊地として遺されていたものが、近辺の処々に散在していた。これによって、社地が如何に広大であったかを知ることができる。社殿や工作物も規模が壮大であったが、兵火その他の変遷にあって現状のようになったものである。明治初年村社に列せられ、一九一〇(明治四三)年及びその翌年には、境内末社として弥光井神社・正一位時雨神社・山本神社を合併した。建造物には本殿(流造り銅板葺)、中殿(唐破風付平屋造り瓦葺)、拝殿(唐破風付平屋造り瓦葺)、神輿庫などがある。神域は多くの老木がうっそうと茂り荘厳である。社宝には社号扁額一面・古代実録一巻・祈願所御書付一巻(大洲藩主)・棟札二(神殿再興延宝二年五月及び拝殿再興宝永五年四月)がある。
 境内末社の正一位時雨神社は水分神・雷神・高寵神・海童神を祭っている。当社は旧号を正一位八大龍王神社といって、古くから伊豫郡二四か村の祈雨社であった。一八一一(文化八)年には正一位の神階を授けられた。したがって、常に関係村民の崇敬深く、寛永・寛文・延宝の時代に大かんばつにあったが、当社の霊験によって救われたのをはじめ、いつの年でも祈ると必ず降雨があったので、ますます農家の信仰をあつくした。昔は行道山の山頂に祭っていたが一九一一(明治四四)年伊豫神社の境内末社として奉還した。毎年夏祭(八月七日)や秋祭(九月一八日)を行う。本殿(流造り銅板葺)と幣殿(流造り瓦葺)がある。

 手間天神社
 伊予市上野一三八四番地にあって、神官は武市盛幸の兼務である。祭神は少名毘古那命と菅原道真である。当社は上野大地にあり、大昔から少名毘古那命を祭っていたが、菅原道真が勅使として神戸郷の伊豫神社に来られたとき、仮殿を当社の地に建てた。このため、後世になって菅原道真が相殿としてともに祭られるようになった。その後、地方の人々からは天神さんと称してあつく尊崇せられ、一九〇二(明治三五)年になって信徒一同で相計り、菅公の一千年祭を執行すると同時に境内に記念碑を建てた。当社のいわれや沿革はこの碑に刻まれた撰文によって明らかである。本殿(流造り銅板葺)と中殿(平屋造瓦葺)及び拝殿(唐破風付平屋造瓦葺)は一九七二(昭和四七)年に改築された。神域は人家に近接しているが、周囲は土塀や玉垣で囲まれ数本の老木で尊厳さを保っている。社宝に神号額一面・棟札(拝殿再興寛政六年)・菅公一千年祭記念碑原文軸物一巻などがある。

 伊曽能神社
 伊予市宮下二〇〇七番地にあって、神官は武市盛幸である。祭神は天照皇太神・天児屋根命・太玉命・猿田毘古大神・伊蘇志神で、境内末社の吹揚神社には誉田別命・高皇産霊神・須佐之男命・櫛稲田姫命・田心姫命・田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命・彦狭島命・大小市命を祭り、天神社には菅原道真を、奈良原神社には保食神を祭っている。伊予市宮下の北谷に鎮座する当社は、延喜式に伊豫国伊豫郡伊曽能神社とある。この地は昔神功皇后が三韓征伐のとき泊まられ、ここに祭壇を設けて神祭りをされた跡であるといわれている。後世になって、伊勢から天照皇大神を勧請し、更に天児屋根命ほか三座の神々も合祀した。貞観年中(八五九~七七)に国司源寛王が奉幣し、延久年中(一〇六九~七四)には源頼義が越智親経に命じて社殿を修補させた。それから後、各武家の崇敬があつく、伊予の国主河野家もよく当社を尊崇した。中古のころは社号を吹揚大明神と称していた。旧社殿は大同年中(八〇六~一〇)に豊州(大分県)の国府長者が心願によって、唐木で造営されたものであった。その後、一三六五年貞治の乱のとき社殿が宝物もろとも焼けてしまった。一六七一(寛文一一)年に再建され、続いて一八四五(弘化二)年には神殿を建立し、一八一四(文化一一)年には中殿を建てた。これらの社殿は一八六九(明治二)年になって再興されるとともに、時の大洲藩知事加藤泰秋が当社を祈願所と定め、年々蔵米五石を寄進することになったが、一八七二(明治五)にこれは中止となった。同年一月一五日に郷社に選定せられ、一九〇八(明治四一)年には神社維持方法に関する規程が改正されて、当社では知事の認可を得て田地一町歩余りを購入して基本財産とした。一九一二(明治四五)年及び一九三八(昭和一三)年には、本殿の屋根のふき替えを行い正遷宮を執行した。第二次世界大戦終丁後は、農地改革によって当社基本財産の田地はすべて買収せられ、宗教法人法の施行に伴い、一宗教法人として登録され現在に至っている。境内には本殿(楠・槻・檜材、惟一造、檜皮葺)、中殿(槻・松材、平屋造り瓦葺)、拝殿(槻材・平屋造、唐破風付、瓦葺)のほか、末社の吹揚神社(檜材・惟一造り瓦葺)、新三郎神社(同上)、厳島神社(同上)、猿田彦神社(同上)、天神社(同上)、奈良原神社(同上)、多賀神社(同上)の社殿や井水屋・手水所など多数の建造物がある。これらのうち、本殿は一九八四(昭和五九)年桧皮葺を銅板葺に回収した。神域は山のふもとにあり、松・杉・檜・椎などの老木がうっそうとおい茂り、そのこうごうしさは格別である。社宝には伊曽能神社由緒一冊、延喜式一部、神号額一面、神領寄進状一巻、鏡(藤原吉良作)一面、伊曽能神社旧記一巻がある。
 今岡の御所は、伊予市宮下の茶臼山(丘)の上にある。ここは伊豫皇子の御陵であると伝えられ、彦狭島命と大小市命を祭る今岡神社があったが、一九〇九(明治四二)年伊曽能神社の境内末社吹揚神社として合併され、一九八一 (昭和五六)年その跡に記念碑が建立された。との今岡御所は、人皇第七代孝霊天皇の皇子伊豫皇子が西南の藩屏としてここに居住し、三六所の公卿百太夫を置いて各州を鎮護していた。その皇子が亡くなったのがこの地である。その後、推古天皇の御代、厩戸葛城臣と僧恵総らがこの地に宝石・玉塔・一三階を建て、乎致宿禰益躬が香大院を建てて今岡寺といっていた。越智氏の先祖はこれから出たという。本船大明神をはじめ一宮神社・新三郎神社・吹揚神社の由来が、『豫州大洲領御替地古今集』には次のように記録されている。

 一宮神社、新三郎神社、吹揚神社の由来
 宮野下村の氏神は伊曽神社である。伊予国二四社の一つで、三谷村にもその氏子がある。一宮神社は応永(一三九四~一四二八)のころ、当所へ鎮座の伊勢の五十鈴神の御同体であるという。二名島へ行こうとして霊夢にあい、天の岩楠船という船に召されて真崎(現在の松前)でただよいながら東に向かっていた。そのとき谷上山の上で光がさし、平松(現、上三谷平松)の沖に船を着けたのを見かけて立ち寄り、御神体を上げようとしたが上がらない。そこで新三郎にお告げがあって、安々と背負い三谷の幡屋(現、上三谷旗屋)に旗を建ててお仕えした。その後平松に一の宮という社をたてて祭った。神崎の庄は昔は入海であったので、地名にも北には沖夷子、鳥居、西には龍王、行堂などがある。また、長尾、音地とは太夫が音楽を奏した所である。郷内は皆この宮を敬い、たいへん盛んであったが、応仁の大乱ですべて滅びてしまった。持統天皇のとき豊後の国府長者と天皇がお召しになった船が当地の沖で難に遭われた。そのとき当社からその船に光がさしたならば御社を建立しようというと、直ちに悪風が静まったので神殿、中殿、拝殿を造った。伊勢の例にならったので神殿は茅葺である。伊曽神社の古い神号は、海上から迎えたので吹上大明神と称した。八、九〇年以前に神主武智伯耆が大三島太夫に話して京都吉田に伺い、古名を伊曽神社といったという。そのときから右神も、今後西海へは背を向けないだろうと行った。右の背負い上げた縁を以て新三郎神社の脇に小社があり、拝殿上り石のところにお仕えしている。これは潮の干満がある石といって人々は踏むことを遠慮するという。上三谷の旗屋に木船大明神が今も祭られている。

 坂本日吉神社
 伊予市八倉九五七番地にあって、神官は武市盛幸の兼務である。祭神は大山積神・雷神・高れい神・天御中主神・国常立神・大己貴神ほか二一座である。『伊與旧蹟史』によると当社は昔は日吉山王権現宮と称して、大宮・二の宮・三の宮・聖真子宮・客人の宮・八王子宮・十禅師宮・下八王子宮・王子宮・早尾宮・大行事宮・聖女宮・新行事宮・牛尊宮・小禅司宮・悪王子宮・岩たき宮・剣宮・気比宮・大竈宮・竈殿宮の合計二一社に二七座の神々を祭、山王二一社と称していた。聖武天皇の御代、七二八(神亀五)年八月二三日詔を奉じて大山祇大明神を勧請し、一宮を建立したのが最初であった。その後、八一九(弘仁一〇)年九月二一日国司散位越智宿禰実勝は嵯峨天皇の詔を奉じて、近江国日吉山王神社の三本松行宮を勧請し大山積大明神の社に、日吉山王大権現の分霊として合祀した。八六七(貞観九)年には神護別当を入仏寺と八倉寺の二坊とした。当時、野間郡では海賊が群居して官物を掠奪したり、人命を殺害したりすることが多かったので、当社に海賊退治の祈願があり、九四〇(天慶三)年にこれを平定した。そのとき八倉の里の水田八町歩が寄進された。次いで一二八一(弘安四)年詔勅によって蒙古退治の祈願があり、閏七月一日に神風が西海に起こって賊の艦船は皆沈没し、乱は治まった。国守河野対馬守通有と備後守通純の二人は、神殿を再建し社領に麻生部落の水田八町歩を寄進した。一三三三(元弘三)年二月、時の探題北条時直が河野氏を襲撃したとき、その兵火の害にかかって、当社の宝物は大半がなくなり社殿も焼失したが、河野氏は直ちにそれを再建した。一三三九(延元四)年河野弾正通政は、先祖代々の遺志を継いで江州(滋賀県)比叡の日吉山王新権現を勧請し、新旧合わせて四〇座の神々を祭った。征南将軍の宮満良親王は、特に当社を崇敬になり、神領五〇貫の地を寄進された。また、慶長のころ、国守加藤左馬介嘉明も社領の山林三町歩を献上し神殿を再建したという。明治初年村社に列せられ、一九〇九(明治四二)年には八倉地内の処々にあった若宮神社・伊豫夷子神社・重松神社・八重谷神社を当社の境内末社として合祀した。神域は金松山のふもとで、県道伊予川内線から約一〇〇㍍登った小高い所にある。境内の松・杉・櫟・楢がおい茂る中に、本殿・中殿・拝殿と各末社があり、いかにも荘厳である。現在の広さは約五ヘクタールであるが、昔はもっと広大であったという。