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伊予市誌

1 寺院のおこりとその変遷

 日本に仏教が伝来したのは五五二年(欽明天皇一三年)と伝えられる。その後、五九三年に推古天皇が即位され聖徳太子が皇太子となった。聖徳太子は摂政として国政に当たったが、自ら仏教を深く敬うとともに仏教を基とした一七条の憲法を発布した。そのころから各地に寺院が建立されることになった。当市で最古の寺院は谷上山宝珠寺である。したがって、往古の寺院開基の様子は同寺にある『伊豫旧蹟史』の中の宝珠寺草創沿革録に詳しく述べられている。
  「伊豫国伊豫郡神戸郷吾川邑神山乃崎伊豫津之岳愛比売宮神護宝珠寺草創沿革録、」
 恭しく惟るに、人皇第三四代推古天皇の四年(五九六)、詔を受けて厩戸皇子が伊予の国に行啓した。扈従は葛城大臣並びに高麗の僧彗慈・彗惣の二大法師で国司の散位乎智宿禰正三位益躬らが奉行して大伽藍一堂を神戸郷に建立した。時はその年一一月であった。勅旨によると、当山の頂に霊位あり、弥光井(夜光井ともかく)一名真名井ともいう。ここは往古、月夜見、愛比売お二方の御隆誕の跡で大山津見、鹿屋野比売、熊野三所の大権現と、月夜見・愛媛
の両尊を祭っていた。この神々は五穀豊饒の神で、祭主の御威徳が現れる故、山名を田神という。当山の鎮守田神大権現はこれである。この神は山のふもとの伊豫岡の神社にあり、因って精舎(寺)を造り、神護とし、国土の安寧を祈る。これは伊予国五社大明神の一つで当寺は別当である。

  註、伊予国五社大名神は当社のほか、風速郡の国津比古神社、浮穴郡の国津比売神社、天山の里の伊豫津比古神社、湯郷の出雲岡神社の四社で、いずれも草創が同時である。
 当寺の開基は聖徳太子で開山は彗慈大師である。人皇第四〇代天武天皇の御代、六七三(白鳳二)年二月、国司散位大夫従五位の上、越智宿禰有興が霊夢を感じて、七堂伽藍を当田神の峻峯(谷上山)の中央に移した。三等の松風は凡境の垢塵を払い、弥光井五智の流水は煩悩の苔を洗う。中台の峯、八葉の谷はさながら南方無垢の浄殺道場である。

 藩政時代の寺院
 当市の寺院で藩政時代のものは第194表のとおり大洲領寺院録に記録されている。上吾川宮内家に保存されている庄屋文書の中の「古寺古庵号帳」(天保一四年上吾川村庄屋から宗門改御役所へ提出したもの)を見ると、上吾川村地域にはずいぶん多くの古寺古庵があったことがわかる。おそらく上吾川以外の地域にも同じように多数の寺庵があったものと思われるが、残念ながらそれを知る資料がない。

第194表 大洲領寺院録(写)

第194表 大洲領寺院録(写)