データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予市誌

二、現在の寺院

 現在、伊予市にある寺院を宗派別にみると、第195表のようになる。 
 また、現在における市内寺院の現況を一覧表で表すと、第196表のとおりである。
 各寺院別に寺号・本尊・沿革・由緒・建物・行事・檀家・寺宝などについて判明していることを、記述すると次のようである。

 善正寺
 伊予市大平白木谷甲五三一番地にあり、住職は生田芳宣、山号は法林山、真言宗智山派、京都智積院の末寺、本尊は正観音である。開山の年代や開基者は一切不明であるが、江戸時代嵯峨大覚寺の末寺であったのが、明治時代になってから現在の如く智積院の末寺となったものである。一九六〇(昭和三五)年に上唐川にあった真成寺を当寺に合併しか。毎年三月一〇日には、地区内戦没者の慰霊祭を行う。建造物には本堂(木造破風付瓦葺)・地蔵堂(木造瓦葺)・庫裡(木造破風付瓦葺)のほか馬頭観音堂・鎮守天満宮がある。境内は民家から一〇〇㍍以上も離れた幽邃の地にあり、樹齢三〇〇年といわれる大松が数本そびえていたが、一九七八年松喰虫の被害を受け枯死して伐り倒された。寺宝という程のものはないが、本堂と山門は内子の名工長尾高野進の作と言われている。檀家は真成寺を合併したので、大平地区のほか下唐川・上唐川の全域と鵜崎の大半(一部は砥部町永代寺の檀家になった)で、戸数は約三二〇戸である。

 西願寺
 伊予市三秋二六八番地にあり、住職は玉井祥敬、山号は大原山と称し、本山は曹洞宗永平等で法華寺の末寺、本尊は釈迦如来である。当寺は一五八九(天正一七)年仏照禅師によって開山されてから、一四、五代の住職までに名僧が相ついで出て、七堂伽藍の大寺を維持していたが、長宗我部の乱のとき、寺の上の川を隔て双方に陣小屋を建てて戦ったため、堂院はことごとく焼かれて文字どおり焼野が原となった。その後、檀家の者が小院を造ったが、明治初年再度火災に遭って、古い記録も焼けたため、寺の詳しい由緒は不明である。寺の行事としては毎年一月五日に般若祈祷、二月一五日に涅槃会、三月一八日に彼岸会、八月一五日に盂蘭盆会、九月二〇日に彼岸会、一二月八日に浄土会を行う。建造物には本堂・庫裡・歓喜堂・鐘楼・山門・鎮守堂がある。鐘楼の大釣鐘は戦時中国策に沿って政府に献納したが、一九七一(昭和四六)年檀家の寄進によって、再度鋳造して献納されたものである。檀家は三秋地区以外にも多数あり、総戸数は約二五〇戸である。寺宝には大般若経が六〇〇巻ある。また、境内の大蘇鉄は実に見事で樹勢もよく、天然記念物として伊予市教育委員会から市の文化財の指定を受けており県の準文化財としても指定されている。

 法寿院
 伊予市中村四九四番地にあり、住職は生田芳宣兼務、山号は鹿島山、真言宗智山派で京都智積院の末寺、本尊は千手観音である。当寺の開山については年月日が明らかでないが、文化年間の初期、鹿島城主で前国守左近衛中将藤原佐安(寺の背後にその墓が現存している)の菩提寺として開基されたもので、その後祈祷寺として付近の信仰を集めてきた。祈祷部落は明治時代初期まで三秋・市場・三島・尾崎・本郡・森・中村の七部落であったが、その後三秋・市場・三島が離れて現在は残り四部落となっている。
 『大洲秘録』には古跡鹿島城のことなどが次のように書かれている。

「中村の地に鹿島の城という城跡あり。東西北に横四間余り、深さ三間ばかりのから堀あり。南に天守の跡と見えて高き所あり。城主は前左近衛中将佐安という。鹿島山法寿院に位牌あり。法名を法寿院殿玄清居士という。寺は城山の麓にあり。右鹿島城の辰己に当りて矢の窪という所あり。此所に昔より矢の根多くありしという。」

 また、『豫州大洲領御替地古今集』には次のように記録されている。

「中村の檀寺は鹿島山法寿院明音寺にして、本寺は谷上山なり。古城主開寺すと言う。仮位牌に「法寿院殿前国頭左近衛中将藤原助安法養元盛大居士」と書御座候。並に五輪の塔見え四尺ばかり堀り候処、立ちて御座候え共文字無く分り申さず候。外にも堀り候え共五輪御座候趣、寺までも洪水に流れ其の後建立、東は田地も押流し近年追々起し地治渉り候事と存じ奉り候。」

 寺の行事としては、毎年二回にわたり森・本郡・尾崎・中村の四部落で、厄除けのために大般若法要を営んでいる。建造物には本堂・庫裡・山門などがある。寺は県道伊予長浜線から約二〇〇㍍はなれた、鹿島山麓にあり静かである。境内に銀杏の大樹がある。檀家は中村・尾崎・本郡・森で多くは農家である。寺宝や文化財といわれるほどのものはない。

 常願寺
 伊予市稲荷客八四九番地にあり、住職は松田英文、山号は稲荷山、真言宗智山派、京都智積院の末寺で本尊は聖観音である。寺の由緒などは一切不明であるが、一六七三(寛文一三)年の開山であることが、古記録によって明らかである。また、第一世の法印は権大僧都鏡看和尚であったという。建物には一九八〇(昭和五五)年改築された本堂・庫裡、一九八一(昭和五六)年鋳造された鐘楼があり、一九八一(昭和五六)年には弘法大師の一一五〇年大遠忌を記念して境内に大師像が建立された。境内は山麓の小高い所にあって、老松数本と有名な藤の古木があり、その開花時には観客の訪れも多い。

 宝珠寺
 伊予市上吾川一四一九番地にあり、住職は松田戒教、山号は谷上山慈悲院といい、真言宗智山派、京都智積院の末寺で本尊は千手観音(毘首羯磨の作という)である。当寺は天武天皇の御代、六七三(白鳳二)年に国司散位太夫従五位上越智宿禰有興が創建してから、今日まで四回の造営をしてきた。すなわち、第二回造営は九五二(天暦六)年太宰大貳藤原朝臣国光が、京都からの帰途大暴 風に遭い船がまさに転覆しようとしたとき、闇夜に当山頂から光を放っていた。この光は正観音の慈悲によるもので、これによって身を守られ一命を救われたということで当寺の堂宇を再建し、香資を収めた。第三回は一二〇八(承元二)年国守河野伊豫守通信と同冠者四郎太夫通俊の父子が伽藍を再建したうえ寺領として山林吾川郷一円と水田三二町を献納した。第四回は一六七六(延宝四)年、大洲藩主加藤遠江守泰経が造営したという。その後、文政年間に火災に遭い、宝物や古文書はことごとく焼失し、五度目に造営されたものが、今の精舎であって地方屈指の名刹である。文政の火災によって焼失した主なものは、知証大師の不動尊の絵、弘法大師の十六善神、行基作の多聞天、祐天和尚の六字名号、根来寺興教大師の不動五大尊、両曼荼羅と唐筆の涅槃像、雪村の楊柳観音、加藤泰興の千手観音及び元弘・建武年間の勅書綸旨、その他暦応年間から天正年間に至るまでの河野家以下各郡地頭からの文書二七通など、寺宝として秘蔵されていた多数のものであった。焼けた古文書の一部を示すと次のようなものがある(原文を読みやすくした)。

  伊豫国宝珠寺の当知行の事をきこしめされ、僧衆みなその旨を存じおり、天皇のご気分は至極よい。以上
    元弘三年十月十日              皇太后宮権遠判

  伊豫国宝珠寺の当知行地の事については、綸旨を厳密に伝え、その要旨を存じておるありさまは決していつわりではない。
    建武元年三月廿九日               左ヱ門尉判
   宝珠寺僧衆等御中

  伊豫国吾川郷谷上寺の寺務職の仕事は相伝えて、当知行が行われるべきところについては決して間違いはない。
    暦応二年正月十日                 頼有 判
   近藤辰丈殿

            禁  制
  宝珠寺の廻りの竹木の事本明谷屋敷廻りの竹木の事について、右のものを伐りとることを止めるものである。この旨に違犯をする者はかたく厳罰に処することはいうまでもない。
    永禄六年六月廿四日           平岡大和守房実 判

 当寺に金品地所を寄進した人名などは『伊豫温古録』にくわしく記録されているが、永和・文明・永正・大文・弘治・永禄・天正の各年代を通じ、約二〇〇年の間に田二〇余町、畑八町余にも及んでいる。
 また、『伊豫温古録』によると当寺の末寺は次第に減少して次の一五か寺になったようである。光明寺・伝宗寺・長泉寺・真成寺・入仏寺・理正院・宗通寺・正円寺・常願寺・法寿院・善正寺・永代寺・地蔵寺・本願寺・稱名寺谷上山宝珠寺の末寺から減じた寺
 吾川村では、観仏寺、道円寺、浄瑠璃寺、東明寺、西明寺、教観房、恵鏡庵、浄楽庵、辻房、栄保寺
 黒田村では、真光寺
 三谷村では、地徳庵、法福寺、円城寺、阿しゃく寺、林光寺、多喜寺、万福寺、正伝寺、保田寺、覚王寺、大城寺、道中寺、地慶寺、法蓮寺、普賢寺、久殊寺、光明寺
 上野村では、安養寺、医光寺
 宮下村では、今岡寺、安養寺、法音寺、円満寺、富尾寺、円福寺
 麻生村では、蓮台寺、長泉寺、本願寺、三角寺、長福寺、保泉寺、八蔵寺
 砥部村では、六角寺、霊恩寺、正場寺、長泉寺、満野長楽寺、覚真寺
 中村では、教音寺、道古寺、称名庵
 大平村では、蔵周寺、円福寺、慶林坊、法蔵寺、吉定坊、法護寺、安養寺、蓮迎寺
 唐川村では、大和寺、上福寺、正法寺
 寺の行事としては、毎年三月の第一日曜日を縁日と定め、春季大法要を執行している。以前は旧暦の二月一日にこれを行っていた。二月入りの谷上山大縁日といって、遠近から参詣する人が非常に多く、さしもの山道にこの日だけは、長蛇の列をつくった。終戦後はむかしほどではないが、ハイキングを兼ねて参拝する人がかなり多くなってきた。
 寺の境内には本堂(唐破風つき縋破風様式で入母屋造り八・九㍍四方)をはじめ薬師堂・絵馬堂・茶堂・通夜堂・護摩堂・庫裡・地蔵堂・鐘楼・一の門・二の門・仁王門・鎮守堂その他合計二八六・二坪の建物がある。境内は実に一、一六五坪の広大さをもち、その中に一九七五(昭和五〇)年には、水子地蔵像が建立された。その周囲は寺持ちの山林で取り囲まれ、杉・松・櫟・樫などの老樹がうっそうと天空にむかい、森嚴幽邃そのものである。谷上山の山並み一帯は、最近自然公園として開発され、二か所の展望台・休憩所・その他の観光施設が順次整えられている(本誌観光参照)。
 元来、当寺は谷上観音と称せられ無病息災、水子供養、雨乞いなどの祈願所であり、信徒寺であったため檀家は極めて少なく、現在わずか二〇戸余りの農家をもつだけである。
 寺宝には四社明神の古画像・河野家奉納の八祖大師古画像・嵯峨宮御真筆・行基遺物の錫杖・空海遺品の古面・狩野永勝の白毛馬絵・得能通綱の佩刀で賢正坊定秀の作という剣などがあったと、『郡中村郷土誌』にのっているがほとんどが散逸して、現在は絵馬の額・甲冑などが残っているに過ぎない。ただ、本尊の千手観音の仏像と本堂は文化財として伊予市教育委員会の指定を受け保護されている。

 稱名寺
 伊予市上吾川にあって、住職は大森真也、臨江山遍照院稱名寺といい、真言宗智山派、京都智積院の末寺で本尊は阿弥陀如来(春日基光作)である。当寺は今を去る一、一五四年前、仁明天皇の時代、八五〇(嘉祥三年宗貞によって開基された古刹である。当初は吾川郷松本にあり、伊予丘八幡宮の別当寺であったので、現在も当時の御祈祷勤行式目が伝わっている。以後平安朝末期から鎌倉時代にかけては、盛大な寺となり、万般の設備が整い、宝物古文書なども多くあったが、今は古文書数通が残っているにすぎない。その中の一つで、一二八七(弘安一〇)年正月一一日伊予守護職の置文を見ると、当時いかに隆盛であったかがうかがわれる。戦国時代になり、寺は兵火に遭い仮建てをして一時を過ごしていたが、江戸時代になって、一七七〇(明和七)年現在地に移り、本堂・庫裡などが建立された。時は中興六世宥定の時代であった。そのころから別当を離れ、滅罪の寺となった。一八二七(文政一〇)年に当寺から提出した起立書の写し(上吾川宮内家所蔵)によると、当時の寺の状況を想像することができる。開基は快真和尚、本寺は宝珠寺で当時の寺の建物には本堂・太子堂・両祖大師堂・山門・庫裡客殿・鐘楼堂・鎮守三部権現堂・土蔵などがあった。年貢地として境内地のほか田畑二町一反あり檀家は三〇〇軒であった。時の住職は宥清、世寿五〇歳、智積院留学二七か年、法臈四二年とある。
 『大洲旧記』によると、人皇第八二代後鳥羽天皇のとき、一一八九(文治五)年に蒲冠者源朝臣範頼の菩提のため再建したとある。また、『伊豫俚諺集』によると、当寺は一二三二(貞永元)年蒲冠者範頼を葬った所で、麓の池の上に五輪の塔があり、また一寸八分の黄金の毘沙門天があって、寺内のえのきを伐ったとき、その毘沙門天が出たとのことである。古蹟誌にも、当寺に範頼を葬り、持っていた毘沙門天を安置したとある。いずれも真偽のほどはわからないが、後になって鎌倉神社を当寺の東北に建てて範頼を祭り、俗に「鎌倉さん」といって世人の崇敬を集めている。
 寺の主な行事は、毎年元旦に新年祝祷会、五月三日に灌仏法要(花まつり)、八月第一日曜日に大施餓鬼法要、八月末に灯ろう流し、大晦日に除夜の鐘などを行っている。
 建造物には本堂・客殿・庫裡(二〇〇五年完成)・太子堂・両祖大師堂・山門・鐘楼堂・その他境内地に四国八十八ケ所ミニ霊場がある。境内は谷上山の麓の小高い所にあり、四季の眺望も絶景である。寺宝には御用札(江戸時代)や稱名寺文書(伊予市文化財)がある。
 また当寺は、一九八九(平成元)年に開創された四国曼荼羅霊場四八番札所として県内外より多くの参拝者が訪れている。

 福田寺
 伊予市上吾川八七八番地にあって、住職は森本泰隆、山号は興徳山、臨済宗妙心寺派、京都妙心寺の末寺で、本尊は釈迦牟尼仏である。
 一六六七(寛文七)年法雲律師・向井某らが相図り福田古寺(元は東福寺派に属し、上吾川市の坪にあり、東福開山聖一国師開創といわれるが、記録はない)を今の地に移した。大洲如法寺の開山盤珪禅師を迎えて、福田寺第一祖開山とした。大洲城主加藤出羽守泰興は山林や荘田を寄進し、泰興の臣渡辺源太左衛門に命じて一六七五(延宝三)年堂宇を創建した。その後、一七八五(天明五)年に至って第八世梅岫和尚の再建したものが、現在の本堂や庫裡・山門等である。工匠は与平治であるという。本尊の釈迦牟尼仏の両脇に、開山盤珪禅師と開基月窓公(加藤泰興)の像がある。祠堂には慈覚大師の作といわれる観世音菩薩像が安置されている。
 寺の行事としては、毎年二月一五日に釈迦牟尼仏涅槃忌、四月八日に仏誕会、九月三日に開山忌、一二月八日に釈尊成道会などを行う。寺の建造物は建築以来、既に二〇〇年以上たっているが、一見して禅寺であることが想像されるほど、調和のとれた方丈式建造物である。中でも山門は天明年間の作で総欅造りである。山門の奥に太子堂があり、その前庭にある槇の古木の枝振りは格別である。本堂の前庭は京都龍安寺の石庭を参考にしたものである。境内は東に基地、西は大楠・藪椿の林に囲まれ、庭には山桜・吉野桜・枝垂れ桜・椿・つつじなどの花木が多く春の花、初夏の新緑、秋の紅葉と四季とりどりの美しさを添え、木々の間には絶え間なく野鳥の声がして真に幽寂の境である。寺院は、昔は大洲藩主加藤家の祈願所であった。毎月一日と一五日には必ず祝聖と称して聖寿万歳を祈願し、毎朝の勤経には国家安泰と万民和楽並びに五穀豊穣を祈念し、有縁無縁の亡霊には追善回向を行っている。当時の寺訓には「死に事うること生に事うる如くせよ」とある。寺宝には盤珪禅師の墨跡、白隠禅師の書画、狩野派上田永朴の傑作、龍虎の襖絵などがある。
 なお、境内の一画にある茅葺きの通玄庵は第六世寒厳のとき宝暦年間(一七五一~一七六四)某所より移築寄進されたもので、近世住宅の遡源的な形式が注目され付け書院や明かり障子は銀閣寺の東求堂にも通じ、地方の隠れた建築文化財である。

 海雲寺
 伊予市米湊九二六番地にあり、住職は天野晃玄、山号は金林山、真言宗醍醐派、京都醍醐寺の末寺で本尊は薬師如来である。
 記録によると、本寺の開山は一五七〇(元亀元)年室町時代末期である。あるとき、海岸から放つ一条の光があり、それによって海難を救われた。その光を発する所には一体の石仏があった。その石仏を拾い上げて祭ったのがこの寺の初めであるといわれている。今も寺の近くに「ひろいあげ」という地名が残っている。寺は、はじめ仲之町にあって、金龍院と称していた。一七四八(寛延元)年に、現在の所に本堂を建てて移ったものといわれている。本堂ば一七七七(安永六)大風のため大破して修理、一八五四(安政元)年地震でまた大破再建したが一九二八(昭和三)年には老朽のため住職天野しげ文によって大修理をした。それ以来、近郷の信徒衆の尊崇が篤くなった。人々は「お薬師さん」といって、病気平癒や雨乞いの祈祷を願い、その霊験があらたかであったのに驚いた。寺では毎年一月に本郷・西野・桜町の各部落で大般若祈祷を、毎月一二日には薬師祭りをしている。しかし、最近、老朽が甚だしいので、解体大修理を行った。境内には約一〇基の五輪の塔がある。戦国時代末期の無名武士のものであろうという。
 当寺は元来信徒寺で檀家はない。大般若経の表紙裏の寄進者(信者)住所の記録によると、信徒の範囲は現在の伊予市内だけでなく、遠くは上灘(現双海町)方面にも多くあったことがわかる。寺宝には十六善神及び不動尊の古画・古仏像(十三尊仏)のほか、世にも珍しい香時計がある。

 法昌寺
 伊予市灘町三一二番地にあり、住職は福見浚宗、山号は福見山、真言宗醍醐派、醍醐寺の末寺で本尊は青面金剛である。寺は一五六〇(永禄三)年に快忍阿闍梨が海岸に法昌寺として開山し堂宇を建立した。その後、火災に遭って寺は一時衰えたが、一六八〇(延宝八)年に至って快性阿闍梨は、大願主宮内六右衛門や代官滝野権之助尉とともに、大工立花徳左衛門に命じて再建させた。一九一五(大正四)年法昌寺一五代の時、福見山観音寺(四国五十一番石手寺の奥の院)六八代大僧都宗忍法師は、観音寺・文珠院並びに観喜坊を合併して自ら福見山法昌寺と号した。俗に庚申堂とも呼ばれている。
 寺の行事として以前は、庚申祭・金比羅祭・大師祭・地蔵祭・節分会・土用祈祷・胡瓜加持など多くの法要や祈祷を行っていたが、第二次大戦の後現在節分会や胡瓜加持を行っている。建造物は本堂兼庫裡のほかに、境内には金比羅社・大師堂があるが、一九八一(昭和五六)年金比羅社屋根の葺替え、一九八九(平成元)年大師堂解体修理を行い、T九九〇(平成二)年本堂兼庫裡を再建した。境内も昔は、現在の灘町渡辺薬店の裏(天神屋敷という)から海岸に沿って広大な面積であったというが、今は約五二〇坪余となっている。本寺は昭和時代初期まで、伊予郡全域の祈祷所であったので、雨乞祈念の千人踊りがたびたび行われていた。現在も諸病平癒・交通安全・盗難よけなどの祈祷所として信者の参詣する者が多い。檀家は極めて少なくわずか数戸に過ぎない。寺宝には青面金剛・十一面観音・不動尊・文殊菩薩など二〇体余りの尊像がある。

 光明寺
 伊予市灘町二五六番地にあって、住職は坪内一乗、山号は冨泊山、浄土真宗本願寺派、京都西本願寺の末寺で本尊は阿弥陀如来である。
 一五七五(天正三)年に加藤嘉明の弟、加藤唯明か当寺を創建し、正善法師に命じて開基させたので、初めは正善院と号していた。その後、一六〇六(慶長一一)年に西本願寺一二世の准如上人から長福寺という寺号を賜った。次いで、一七一六(享保元)年に光明寺と改号した。それ以来、堂宇はたびたび火災に遭い、縁起類も皆焼けて寺は次第に衰えた。一七九九(寛政一一)年になって本堂を再建したが現在、新築中である。
 寺の行事としては、報恩講法要・春秋の彼岸会・宗祖降誕会・盂蘭盆会・永代経法要・定例布教・臨時布教などを行っている。建造物には本堂(瓦葺二六坪)・庫裡(瓦葺四二坪)・山門(瓦葺三坪)などがある。また、境内には七〇坪余りの墓地があるが、境外の五色浜にも寺有の墓地三五〇坪余りがある。檀家は灘町と湊町を中心に市内各地に散在して合計約一九〇戸ある。寺宝には本尊阿弥陀如来の木像や親鸞上人の御影・円山応挙の猿図などがある。

 栄養寺
 伊予市灘町五二番地にあって、住職は高橋宏文である。泰昌山安楽院栄養寺と称し、浄土宗、京都知恩院の末寺で本尊は阿弥陀如来である。
 豊臣秀頼の子国松丸は一六一五(元和元)年大坂落城の後、一族郎党に守られて戦乱の大坂を逃がれ、伊予の国に来て各地を転々とした。数年の後、山崎の庄中村の里(今の伊予市中村)ナゴサコ山のふもとに、明音寺を建て、自ら出家して苦厭上人と称し、豊臣家の菩提と衆生済度に精進した。明音寺は妙音寺とも書き、今は寺はないが付近の地名を現在「ミョウジ」と呼んでいる。今から約三五〇年前の一六三七(寛永一四)年二世伝誉上人のとき、郡中灘町の人宮内清兵衛正重が開基となり、衆人に図って本尊本堂を灘町に移転した。これが今の栄養寺である。開山以来、当代まで一八世に及んでいる。一九二四(大正一三)年総工費一万円余りで伽藍を大改修した。
 寺の行事としては、毎年正月二五日に御忌会、五月一七日に観音祭、三月と九月に彼岸会、八月に地蔵祭、八月二六日に大施餓鬼会、正月・五月・九月に百万遍念仏講を行っている。
 総面積一、三八三坪(内六九二坪は墓地)の広大な境内に、本堂・庫裡と方丈庭園がある。また、火防地蔵菩薩の石像・薬師如来堂・西国三三体観世音菩薩御堂・鐘楼・山門などがある。鐘楼の梵鐘は太平洋戦争の時政府に献納したが、終戦後の一九六〇(昭和三五)年五月に再鋳造された。なお、境内の墓地には郡中出身の有名人の墓が多く見られる。
 檀家は灘町を中心に湊町・森・中村・本郡などにあって総戸数は四〇〇以上ある。寺宝には江戸末期に建立された欅造りの立派な山門のほか、三尊来迎仏(筆者、恵心僧都)・観経曼陀羅(筆者不詳)・涅槃像(同上)・名号(筆者祐天僧正及び苦厭上人)・豊臣秀頼の真筆による摩利子尊天・学信和尚の書数点などがある。

 上行寺
 伊予市灘町一四七番地にあって、住職は川井正嘉、山号は顕本山、日蓮宗、身延山久遠寺の末寺で本尊は釈迦牟尼仏である。当寺は一六七三(延宝元)年四月八日に実正院日了上人によって開山し、妙光山法眼院と号した。その後、藩主の命を受けて大洲城下から郡中灘町へ移転建立し、顕本峰上行庵と称して、もっぱら海上安全の祈願を行った。一八六九(明治二)年九月上旬に、火災のため伽藍はことごとく焼失したが、ちょうど王政復古の折であったので、再建ができず一時廃寺となった。のち、顕本山上行寺と改称し、京都本法寺の末寺として再起した。一八九三(明治二六)年第一四世省心院日秀上人の代に至って堂宇を改築した。
 寺の行事としては、毎年二月に節分会星祭、三月(旧暦初午の日)に初午祭、旧暦二月一五日に涅槃会、五月二四日に清正公祭、七月八日に鬼子母神大祭、八月一六日に盂蘭盆会大施餓鬼法要、旧暦一〇月一三日に日蓮上人御会式を行っている。建造物には本堂(三四坪)、稲荷堂(一七坪)、庫裡(一七坪)、山門(一坪)がある。境内は灘町本通りから、わずかに入り込み人家に囲まれた所にある。檀家は市内の各地域に散在していて約一二〇戸あるが、そのほかにも双海町・中山町・砥部町・松前町及び松山市や県外にもあって合計約六〇戸ある。

 増福寺
 伊予市湊町三九四番地にあり、住職は清水宏典である。山号は護国山、臨済宗妙心寺派、京都妙心寺の末寺で、本尊は如意輪観世音菩薩である。当寺の開基は旧大洲藩主である。当時、藩主加藤家の菩提所であった龍護山曹渓院の第七世の住持桂峯宜益大禅師(幼名桂丸)が住持職を退く際、第六代藩主加藤泰れいは禅師に参禅し、深く帰依せられた。そして一七四七(延享四)年の秋七月に、郡中小川町北辺(現在の伊予市湊町)の潮音の松の下にある観音堂のそばに、禅師の隠寮を建立した。その名を潮音堂といって禅師の長養の地にした。禅師はここに安居すること九年、一七五五(宝暦五)年七八歳で没しか。法嗣の玖岩慧隆和尚(上須戒村の人)は、禅師の遺命を受けて翌一七五六(宝暦六)年の秋、泰れいの許しを得て寮を改めて寺とした。これを護国山増福寺といって禅師をこの寺の開祖とした。代々の住職は開祖の法嗣が相続することになっていたので、龍護山の徒弟の内から当寺へ来ていた。泰れいは一七八四(天明四)年に五七歳で病死し、法号を寛厚院殿前加州剌史仁叟道儀大居士と称した。泰れいは当寺の開基である。それで、藩主累代の霊牌を本尊の坐範に安置してある。藩政時代の檀家は郡中代官諸役人と大洲から来た龍護山派の藩士だけであったが、明治時代以後になって町内から檀家に加わる者ができて、その数が次第に増加している。寺の境外に大きな墓地があり、そこに大洲藩士岡文四郎の石碑もある。岡は郡中港を築いた人で一八三一(天保二)年に没し法号を功岩自徳居士という。石碑の三面にその略歴が刻まれている。

 豊円寺
 伊予市下吾川一九六三番地にあり、住職は村上秀禎、山号は龍天山、浄土真宗本願寺
派、京都西本願寺の末寺で本尊は阿弥陀如来である。
 本寺は初め一九〇六(明治三九)年松山市相向寺の住職谷川湛然が、布教上の便宜のため設立し、一九〇九(明治四二)年には本願寺派の地蔵町説教所として認可された。初代の説教所管理者として中須豊円か任命され、二代中須実乗、三代村上祐乗へと引き継がれた。祐乗は一九四八(昭和二三)年寺院規則を変更して、龍天山豊円寺と公称することを認可された。一九五七(昭和三二)年には本堂を鉄筋コンクリート造りに新築した。次いで、一九六三(昭和三八)年には庫裡として白石春樹から旧宅を寄進された。寺の行事としては、毎年一月に宗祖親鸞聖人報恩講法要、三月に彼岸会・永代経法要、五月に宗祖降誕会、七月に盂蘭盆会(歓喜会)納骨者追悼会、九月に秋彼岸会法要・戦没者追悼法要を行っている。建造物には本堂(鉄筋コンクリート造り、四二坪)・法中部屋(木造瓦葺平屋建一二坪)・庫裡(同上四五坪)などがある。檀家は伊予市松前の全域に散在していて合計三〇〇戸余りある。寺宝は本尊の阿弥陀如来像である。

 入仏寺
 伊予市八倉六一六番地にあって、住職は山田晃照、林光山蓮花院と称し、真言宗智山派、京都智積院の末寺で、本尊は阿弥陀如来である。当寺は八倉八社の別当であって、弘法大師の開基といわれている。弘仁の初年、峠の谷に毎夜光る物があった。人々はこれを怪しんでそこへ行って見ると、正月というのに谷の小池に蓮の花が咲いて光を放っていた。不審に思って地下三尺を掘ってみると、銅や金でつくられた三尊の阿弥陀仏像が出てきた。そこで一宇を建立して、これを安置して入仏寺と称した。けじめ林の中で光を放ったことから林光山といい、蓮の花が咲いていたので蓮花院と称し、この谷を蓮花谷と名づけた。その後、文脱という回国の僧がこの谷で死んだとき、弥陀の御来迎があったので、伊予一国の人が死ぬると、この谷に葬られることを願った。それで孝子たちは埋葬をこの谷へすることは高野山の大谷に葬られるようであるといった。この谷には石塔や五輪の塔が今もたくさんあるが、当時寺の下手には大きな門があったということである。のち、寛永年間に寺は一時衰えたが、一六一六(元和二)年に谷上山の住職大阿闇梨宥実大和尚が中興した。河野氏は代々当寺を崇敬し、祭典料や田地を多く寄進した。
 寺の行事としては、毎年二月三日星まつり、三月二一日に彼岸会、四月八日に花まつり、八月二四日に施餓鬼、九月二三日に彼岸会、その他に祈願法要・追善法要・年忌法要などの儀式を随時行っている。建造物には本堂(平屋建瓦葺三五坪一九九五(平成七)年建立)・庫裡(平屋建瓦葺三八坪一九七三(昭和四八)年改築)・地蔵堂二堂(一坪一九九五(平成七)年改築)(一坪一九九五(平成七)年改築)・供養塔二基がある。境内は山のふもとの林の中にあって、民家と約三〇〇㍍離れている。松や杉の老木がおい茂っていたが、近年これが伐採されたのが惜しまれている。寺宝には本尊の阿弥陀如来の仏像のほか、観世音菩薩・勢至菩薩・弘法大師・興教大師・青面金剛などの仏像や大般若経二〇〇巻・十六善神一幅などがある。檀家は八倉一円にわたっている。

 長泉寺
 伊予市宮下一五六三番地にあって、住職は友澤良謙で医王山瑠璃光院と称し真言宗智山派、京都智積院の末寺で本尊は十一面観音(行基の作という)である。本寺は昔戦火にかかり古文書などを焼失したため、開基や開創などが不明であるが、口碑によると、後藤又兵衛基次が、大坂落城後一六一五(元和元)年河内の国小松山で戦死し、家臣吉村武兵衛が遺命を受けてその首を当地に持ち帰り、基次の伯父に当たる住職に託してこの地に葬ったとある。現在は当寺の近くの大塚和夫の屋敷内に後藤又兵衛の墓と称する五輪の塔がある。この事がら本寺の開基は、今から三〇〇年以上も前であろうという。境内にあった一本の松の老木が一九八三(昭和五八)年に枯れた、年輪は数百あったことからも、古刹であることが推察される。又兵衛の死後はその菩提寺として、今も当地方で有名である。
 なお、境内の一角に伊予市指定有形文化財である層塔がある。この層塔は一二六五(文永二)年願主日運(通)によって造立されたもので、正面の雄渾な薬研彫の胎蔵界、大日如来の種子梵字や蓮華座の手法、鎌倉時代の技法を表している。
 寺の行事としては、毎年八月一五日に盂蘭盆会、五月六日に後藤大明神祭を行うほか、臨時布教・家庭布教・臨時法要などを随時行っている。建造物としては本堂(破風付瓦葺一三坪)と庫裡(平屋建瓦葺四二坪)がある。また境内には後藤又兵衛の記念碑が建っている(又兵衛の第一七代目の子孫、後藤進が現在四国中央市農人町に、武兵衛の子孫(永井と改姓)が現在大阪市に住み、この両家に系図や記録が残っている)。寺宝は本尊の十一面観世音の立像、薬師如来座像(室町時代の勝常式一木刻)である。檀家は宮下地区一円で、戸数にして約一七〇戸である。

 本願寺
 伊予市上野二七五四番地にあって、住職は城戸俊章、無量寿院安養山と称し、真言宗智山派、京都智積院の末寺で本尊は阿弥陀如来(弥防春日の作という)である。本寺は人皇第四〇代天武天皇の時代、越智宿禰有興が創建し祈願所としたもので、はじめ三角山遊石寺と称していた。その後、九四八(天暦二)年に至って智円上人は、数寺を合わせて再建したが、一六九〇(元禄三)三月一五日に火災にかかり、堂宇も什器も古記録もみんな灰になってしまった。しかし、不思議なことに夜に入ってから、南方のやぶの中に光がさしているので行ってみると、本尊が飛んで来て住職憲隆の名を呼んでいた。そこで、再びその本尊を安置して安養山本願寺と称するに至ったという。
 寺の行事は毎年二月一五日の涅槃会、三月二一日の彼岸会、四月八日の仏生会、一二月一二日の報恩講などである。建造物には本堂(一二坪)・庫裡(七五坪)・山門(五坪)・物置(七坪)などがある。境内は行道山のふもとの小高い所にあって眺望がすこぶるよい。檀家は上野地区一円で、戸数にして約二〇〇戸である。寺宝には弁慶の書(馬を借りた借用証)があったというが現在は行方不明である。

 正円寺
 伊予市上三谷一一三一番地にあって、住職は佐野章雲兼務、無量院熊野山と称し、真言宗智山派、京都智積院の末寺で本尊は阿弥陀如来である。上三谷の道中にあるので昔は道中寺ともいい、正円寺を正延寺とも書かれた(『大洲秘録』)。開山は一一九〇(建久元)年、住職は権大僧都快源で若皇大神社の別当寺であった。元弘のころ、河野伊豫守通村と同備前守通綱の父子が堂宇を再建した。一三七三(文中二)年吾川城主高市図書允は、河野伊豫守通定に従って吉野御所を守護していたとき、北朝勢と戦って大和十津川で、大敗し、紀州の熊野山中へ逃げこみ、熊野権現に祈って守護を受けたので、本国に帰って熊野権現を勧請し、ここ(現在の正円寺境内)に熊野社を建て本寺を別当寺とした。その後、一八一五(文化一二)年住職智宥和尚のとき、庫裡(七八・八坪)が改築され、一八三八(天保九)年住職実諄和尚のとき、本堂(一五坪)が改築された。その後、庫裡は一九九六(平成八)年、本堂は二〇〇一(平成一三)年に前住職友澤正憲によって改築された。
 寺の行事としては、毎年正月三日間大般若会、二月節分の日に星供養、三月二一日に春彼岸法要、八月一六日に施餓鬼法要、一二月一二日に報恩会を行っている。建造物には、本堂(平屋建)・庫裡(木造瓦葺)のほか、鎮守堂・山門・物置などがあり、境内(五八〇坪)には老松が二本あり、いずれも樹齢は四〇〇年以上といわれ、快晴の日は遠く松山城から望まれ、枝の風雅さもまた格別であったが、二本とも惜しくも松喰虫の被害に遭い、一九七八(昭和五三)年枯れて、伐り倒された。檀家は上三谷全域にわたって約二〇〇戸ある。本尊の阿弥陀如来像と弘法大師・興教大師両大師像及び子安観音像は本寺の宝物である。一九八四(昭和五九)年弘法大師御遠忌一一五〇年記念事業として、大師の修行尊像を境内に建立した。

 嶺昌寺
 伊予市上三谷三二六八番地にあって、住職は華厳寺西谷高容師、法興山嶺昌寺(昔は霊沼寺とも書いた)といい、臨済宗妙心寺派で京都妙心寺の末寺、本尊は阿弥陀仏である。当寺の縁起によると、古えは現在地から一、三〇〇㍍ばかり北に嶺昌寺の古寺があった。年を経て寺の壊れがいちじるしく、わずかにかやぶきの小堂を作って、本尊の阿弥陀仏を安置していた。この尊像は霊験あらたかで祈れば立ちどころに、その効験があらわれたということであった。あるとき、これを盗みとろうとした者があったが、持ち去ることができなかった。こんなことが数回あったという。そこで村民は深く崇敬し、ついに寛文末年、藤右衛の母は吉右衛門・次右衛門らとともに、弥陀堂を今の所に建てて本尊を移した。その後、盤珪禅師がここに来られ、房盧を築かせ、古寺の号によって、嶺昌寺といい法興山と名付けた。次いで加藤出羽守泰常は寺の境内を広め、村人の須知加伊次郎左衛門らは田を寄進して僧の糧食の資とした。一六九七(元禄一〇)年になって泰常は池沼を築き、田を開いて堂宇を再建した。昭和の代になり白蟻にむしばまれて、その堂宇が自然崩壊したため、前住職の手によって今の小庵を建造した。

 傳宗寺
 伊予市下三谷八六〇番地にあって、住職は大森真弘、山号は天瑞山、真言宗智山派で八六六(貞観八)年宝住上人の開基である。隣接する薬師堂は、昔この付近に宝福寺と称する広大な寺があって、その塔頭の一部と伝えられており、当寺がこれを管理している。このお堂は唐様(昔の中国風)で、屋根は四つの三角形の面で構成された方形(宝形)造り、本瓦ぶきで、扉やたるきなどすべて唐様の典型であり、巧ちを極めた美しい建物である。一八九四(明治二七)年谷上山宝珠寺の本堂修復で名高い下三谷の大工川中夏吉の作で、一九六〇(昭和三五)年市指定の文化財となった。
 同じく市指定の文化財大般若経六〇〇巻は、室町時代の一三九四(応永元)年に造られた木版刷である。当寺近江(今の滋賀県)の国司佐々木崇永が、佐々木八幡社に奉納したのだが、備後(今の広島県)鞆ノ浦の安国寺に移り、後に傳宗寺に納められたものである『御替地古今集』によれば、傳宗寺に竜宮から上がったという鐘が、夜々安国寺へ帰るといって鳴ったので、鐘と般若経を取りかえたのだと伝えられている。当寺ではこの縁起により毎月一回写経会を開催し、大勢の人々が参加している。

 華嚴寺
 伊予市下三谷一六六〇番地にあって、住職は西谷高容、高照山華厳寺と称し、臨済宗妙心寺派、京都妙心寺の末社で本尊は華厳釈迦如来である。本寺は今から約一、〇〇〇年前の創立(年代不詳)で、関翁和尚大禅師(一一八四年・元暦元年没)が開山し、その後元禄年間に至るまで、出祐山清持寺と称していた古刹である。それまでの宗派は不明である。一六九三(元禄六)年に至って禅宗の臨済宗妙心寺派に属し、一七五九(宝暦九)年華嚴寺と改称した。本尊は釈迦が華厳のことを説かれたときの姿で華厳釈迦如来という。本寺は正徳年間に火災にかかり、仏像・堂宇・過去帳・宝物などことごとく焼失の悲運にあったため、旧記がないので由緒を詳細に知ることができない。
 寺の行事には毎年正月三日間の大般若会、二月一五日の涅槃会、四月八日の誕生会、八月一三~一五日の盂蘭盆会、八月二四日の地蔵祭、一〇月五日の達磨忌、一〇月一二日の大本山開山忌と花園法皇忌などのほか春秋の彼岸会、春秋の布教や成道会、一〇月六日の先住忌がある。建造物としては本堂・庫裡(昭和五一年改築)・六地蔵堂・荒神堂・地蔵堂・山門などで合計約九〇坪の建物がある。県内は下三谷北組の平坦地にあって、面積は約一四三坪ある。檀家は下三谷の仲組・北組を主体にして、遠くは県外にまで散在し、戸数二〇〇戸ばかりである。寺宝には新蔵経がある。

 善覚寺
 伊予市上三谷二五七七番地にあって、住職は田崎信澄、真法山善覚寺と称し、日蓮正宗総本山大石寺の末寺で、本尊は総本山第六七世日顕上人の大曼荼羅である。一九八一(昭和五六)年の宗祖日蓮大聖人第七〇〇遠忌の記念事業の一環として、現在地に創建された寺である。開基は日蓮正宗総本山第六七世日顕上人で、一九八一(昭和五六)年一二月二六日に落慶入仏法要が奉修され、初代住職に田中証道が就任した。
 寺の年中行事は、一月一日の元旦勤行会、二月三日の節分会、同月七日の第二祖日興上人会、同月一六日の宗祖御誕生会、三月二一日の春季彼岸会、四月二八日の宗旨建立会、八月一五日の盂蘭盆会、九月一二日の宗祖御難会、同月二三日の秋季彼岸会、一〇月に御会式、一一月一五日の第三祖日目上人会などがあり、月例行事としては、一日に先祖供養の御経日、第一日曜日に広布唱題会、第二日曜日に宗祖日蓮大聖人御報恩御講などが執り行われる。
 総面積一、〇四九平方㍍の境内に、本堂・庫裏その他を合わせて約三八〇平方㍍の建物がある。檀家は伊予市内を中心に、松山市南部、松前町、砥部町、東温市、久万高原町などに散在している。重宝として日顕上人の常住御本尊・導師御本尊などがある。

 大門寺
 伊予市森九六〇番地にある。海霊山大門寺と号し、臨済宗妙心寺派で大洲如法寺の末寺であった。一九一〇(明治四三)年の『北山崎村郷土誌』によると、本寺は元、大洲如法寺の開祖大法正眼国師が一六九二(元禄五)年に創設し、村僧の宗純・了心・嘉左衛門らが村人と建立した寺で一八七二(明治五)年に政府から廃寺とせられた。一八七八(明治一一)年に至って如法寺の前住職南海長老は私財を投じて堂宇並びに敷地を政府から買い戻して寺を再建した。その跡は無檀家の禅寺としてその風格を維持して来たが、太平洋戦争の後、住職が不在となっている。

第195表 伊予市に於ける宗派別寺院数

第195表 伊予市に於ける宗派別寺院数


第196表 伊予市内、寺院・庵一覧表

第196表 伊予市内、寺院・庵一覧表