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伊予市誌

三、転廃寺

 『大洲秘録』や『豫州大洲領御替地古今集』によると、市内には次のように多数の転廃寺があったことが記録に残っている。

 惣持寺
 上三谷客にあった。豫州大洲領御替地古今集によると、「上三谷村の山伏持ちであった北面山吉祥院惣持寺西浄坊は、第一〇七代正親町天皇の御代、一五五八(永禄元)年の開基である。本尊は聖観音で脇士がある。定朝僧都の作で、御たけ三尺七寸の木像である。本寺は大和国内山永久寺である。代々石鉄山の先達で、檀家は下三谷・松山・横田・筒井・古泉にある。石鉄山の灯明料として田地と玄米少々の寄付があった。さて、金毘羅は第一一〇代明正天皇の時代、一六四〇(寛永一七)年三月一〇日、住職に夢の中で御託宣があり、現れたもので今は池になっている。これを南山相生の金毘羅といった。ここの松には時々宝冠阿毘羅尊の御来迎があったと言い伝えられている。一六四三(寛永二〇)年に堂の建立をお願いしたところ、御勤番高橋作兵衛はお聞届けになって、すぐおゆるし書きを出したので二間半四方の堂ができた。この堂の繕いは村ですることとなり、灯明料少々も寄付された。その後中御前の太夫から金毘羅の社付きの申し出があったので、双方をお聞きただしになり、吉祥院持ちと決定した。当時の御勤番で郡奉行をしていた永田権太夫から下し置かれた書面を所持している。毎年一〇月九日には本屋神楽を執行するほか、常に山中に入ることを停止するよう仰付けられている。」とある。現在客池の下に小堂があって西浄坊と呼んでいる。吉祥院惣持寺の跡であろう。

 真成寺
 上唐川本谷にあった。昔下唐川村から移転したものである。谷上山宝珠寺の末寺で、真言宗智山派に属し、唐川山真成寺(真浄寺又は真城寺とも書かれる)と号した。本尊は薬師如来であった。一九六〇(昭和三五)年大平の善正寺に合併せられた。その後境内は宅地となり、庫裡は民家となった。その民家の奥部屋の壁面に、かつて本寺の住職であった俳人森田雷死久の帰俗の辞「行く春を花にさきにけり蕗の薹」の墨跡が残っていたのを現在伊予市教育委員会に壁のまま保存している。

 西江寺(庵)
 伊予市森にある。元禄年中に宗純が建立した禅宗臨済宗の寺であったが、今はその跡も明確でない。

 最乗寺
 伊予市森にある。恵日山最乗寺といい黄檗宗で本寺は大洲菅田の正伝寺であった。元来は律宗であっだのが一六八四(貞享元)年に正伝寺の末寺となり、黄檗宗となったがいつのころからか廃寺となって、今は古文書にその名が残っているに過ぎない。

 行覚寺
 伊予市森にある。如意山理正院行覚寺と称し、真言律宗の寺である。開山は寛文年中(一六六一~七三)年で、吾川村の仏乗寺法霊比丘が建立したもので、紀州高野山の真別所円通寺の末寺であった。今は廃寺となっている。

 厳東寺
 伊予市森にある。本寺は黄檗宗で菅田の正伝寺の末寺であったと『大洲秘録』にある。今は廃寺となっている。

 観音堂
 伊予市三島町にある。『御替地古今集』の中に「三島町の中に町構えの観音堂御座候」とある。由緒などは一切不詳であるが、口伝によると、正観音を祭っていた。今は町の集会所に安置されている。人々はこの観音を子美観音と呼んでいる。

 大師堂
 伊予市湊町の本通りに面して広さ約二〇〇坪の境内の大師堂がある。一九一〇(明治四三)年の『郡中町郷土誌』によると、大師堂の由来を次のとおり述べている。

  「もと、南山崎村大平に生まれた一婦人がいて、深く仏道に帰依していた。かつて下吾川村の田中左兵衛の家の婢僕となって使われていたが、食事の際は必ず先に仏に供えて後に自分が食べたという。この婦人は夫に嫁せず終生尼となって一生を終わっだので後の人は尼弘法と称するようになった。ある時その尼が見た夢に、高浜の海中に仏像があり、これを引き揚げてお祭するとどんな祈願も成就させるだろうとのことであった。しかもその夢が毎夜のように続くので湊町の浜にいる尼の叔父に話し舟に棹さして高浜に行った。舟が高浜に着くと海中に光があるので一同は驚いて海中をうかがうと、大師の石像があった。すぐ付近の漁民を雇ってこれを引き揚げようとしたが、重くて容易に揚げることが出来ないので一同はたいへん苦しんだ。その時尼が「私が引き揚げたら揚げることが出来るでしょう。」といって揚げてみると易々と引き揚げることが出来た。尼はたいへん喜んでそれを湊町の海岸まで運び、海岸から尼一人で背負って現在の所まで運んで祭ったという。一説には尼が高浜から背負って帰ったが、尼にとっては極めて軽かったという話もある。尼の墓は大師堂の入口の左手にあり、妙円さんと称して参拝者が多く線香の煙が常に立ちのぼっている。」

 当時このお堂は太子堂といっていたが、後になって大師を稱名寺に併祀してから大師堂というようになったという。かつて明治時代の初め、神仏分離の令があったとき当時の湊町の町年寄岡井四郎兵衛はこれを私有にしようとして、鎌倉源吾に与えた。鎌倉は一五年ほどの間私有していたが称名寺の住職園田実伴がこれを鎌倉から買い戻したという。また、鎌倉は太子堂の地を寄進したという。大師像は石塊の上に坐って左足を前にし、右足を屈げている。台石と像とは同質の石で岩上に刻んだもののようである。横の長さ約二尺、高さ二尺余り、重量は少なくとも二〇貫(七五㌔㌘)以上と思われる。
 ちなみに、一九五八(昭和三三)年に妙円さんの二〇〇年祭を信徒一同で盛大に行った。
 なお、境内の入口の右手には聖天さんを祭る小堂があって毎年一月一六日にそのお祭りが行われている。また毎年四月と八月の二〇日・二一日はお大師さんの大祭でにぎわい、九月一日には妙円さんのお祭りがある。また、入口の楼門の中には珍しい江山焼の金剛力士の像がある(本誌美術工芸の項参照)。

 多喜寺
 上三谷にある。真言宗正円寺の末寺で、昔元暦のころ、平家に属して摂津の国生田の森で、鹿を射てその名をあげた高市武者所清義の代々の香花院であった。清義の死後、遺骨を彫刻して仏像を造り、この寺の本尊としたといわれている。今は墓地の一隅に小堂が残っているにすぎない。

 万福寺
 上三谷平松にある。真言宗正円寺の末寺で、阿弥陀如来を本尊とし、脇仏に薬師如来を祭る。開山の年代や由緒は不明であるが庫裡のそばに地蔵菩薩の石像がある。境内は上三谷平松部落の墓所として今も多数の墓石が建てられている。

 宝福寺
 下三谷近江にある。昔は大寺であったというが、今はその一部の薬師堂が残っているに過ぎない。この薬師堂は伊予市の文化財として指定を受けている。付近の地名を宝福寺といい、薬師堂はすぐ近くにある伝宗寺が管理している。

 耕雲庵
 伊予市市場にある。臨済宗西願寺(三秋)の末寺で本尊は観世音菩薩である。境内に地蔵堂があって地蔵菩薩を祭っている。

 薬師庵
 伊予市稲荷にある。真言宗常願寺の末寺である。本尊は薬師如来で、由緒は明らかでない。

 光正寺
 伊予市本郡にある。浄土宗栄養寺の末寺である。本尊は阿弥陀如来であるが由緒ははっきりしていない。

 薬師堂
 伊予市灘町にある。現在は栄養寺の境内にあるが、もとは郡中港の近くの金井家と北本家の中間裏手にあったという。初め観池庵と称していたが、明治初年ごろ廃庵となり、一八七八(明治一一)年信徒たちによって栄養寺境内の観音堂に合祀されたものである。

 観音堂
 伊予市灘町にある。栄養寺境内にあって、西国三三番の札所の写しの像三三体を安置している。

 仏乗寺
 伊予市上吾川一六八二番地にある。本尊は無量寿如来であったが、無住のため廃寺となり本尊は二〇〇三(平成一五)年越智郡朝倉村竹林寺に移され、現在は竹林寺の管理地となっている。