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伊予市誌

二、村(部落)の自治

 村では五人組が部落の最下部組織で何につけても連帯責任を負わねばならず、組の中では逃散や離村を防いだり、共同警備にあたったり、浮浪人やキリシタン信徒の取り締まりをしたり、道路や橋の管理、農村では配水まで、組の共同の連帯の責任ということになっていた。一八世紀の終わりころから一九世紀の初めにかけて藩は経済的に困窮してきた。そこで百姓・町人の中から献金して藩の財政を助ける者があると、その人には感謝状が下って、名字や帯刀を許され、あるいは峠着用を許されたりした。この人々は仲間から格別な尊敬を受けた。特に藩の財政面に功労のあった者は庄屋格とか、町年寄の身分を与えられた。このような人が組から現れると、組全体が肩身の広い思いをした。これに反して、罪をおかした者や御法度にふれた者は、お仕置(懲罰)を受けたり、村払い(追放)されることもあった。こうなると、組織の残りの者はもちろん、組頭から庄屋にいたるまで責任を問われた。
 一八九〇(明治二三)年に町村制の施行で庄屋を中心とした旧村は大字と呼ばれ、村役としては、区長一人・総代数人・評議員数人・於中(二人)などが村の自治にあたっていた。その他池世話といって樋をぬく時期に井出掃除や補修の役を決める者や池番(うわ番)はよけあげや水を入れる役割、田に水を引く水ひき、お地蔵さんの世話、寺総代(世話)、宮総代(世話)、こばしりなどの世話人が村の総寄りで選ばれた。
 次に、組は大字を構成する村落生活の基盤で相互扶助の関係をもっていた。組の単位は「念仏講」であった。念仏講組は農作業・村役はもとより祭礼・婚礼・出生・建て前・葬儀をはじめ、あらゆる機会に協力し合う関係にあり、そのことを「つきあい」と呼んでいた。
 こうした「つきあい」ごとは、家関係の親疎の程度や時代による変遷、各組の任意の申し合わせで一様でなかった。
 昔は押しかけて行くのが普通であった。今日は先方の案内とか承諾のある場合によって行くようになった。しかし、葬式は、白米二升と包み金をもって夫婦で手伝いに行くのが普通であった。白米を持参するのは、昔はやぐらで白米にしていたので、急に人が寄る場合に先方に白米の用意があるとは限らないため、配慮していたのである。