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伊予市誌

一、平岡城の千人がくれ (平岡)

 今から四〇〇年ほど前の天正年間(一五七三~一五九二)のころ、平岡に山城があった。このころは戦国時代といわれた。伊予の国でも、ほうぼうに豪族がいて、しきりに戦いがくり返されていた。そこで、いくさに負けないために山などを大石でかこんで、そこに大きな木材で組み立てた城を築いた。攻め亡ぼされないように、この城に立てこもって守るためであった。そして折をみては、敵の豪族たちを不意に攻め破って、自分かちの勢力を広げていった。平岡城もそうした山城の一つであった。城主は平岡左衛門尉といい、一族と家来合わせてかなりの人数がこの平岡あたりに住んでいて、いざという場合には、この城にたてこもる構えをしていた。
 ちょうどそのころ、土佐の国(高知県)に長曽我部元親という武将がいて、なかなか勢いが強く、四国全部を自分の領地にしようとして、まず伊予の国に大軍をひきいて攻めこみ、次々と南予の城を落としていった。そして、とうとう平岡城へも攻め寄せてきた。しかし、城は小さいながら守りは固かったので、簡単には落とせなかった。こんな小城ぐらいすぐにも落とせると攻めかかったが、長曽我部の軍勢はほとほと困ってしまった。
 このとき、僧がどこからともなくやってきて、
「この城を早く落としたいなら、その方法は一つしかない。城の裏側(今坊主ヶ滝という)が手薄ですぞ。」
と、教えてくれた。城の方でもそこが険しい崖になっているので、つい油断して守りを手薄にしていたため、ここを大軍で攻め立てられたからたまらない。たちまち城は打ち破られそうになった。
 こうなっては、もう仕方がない。城主平岡左衛門尉は、一族、家来、女、子供をみな引きつれて、急いで、もしものときにと用意していた千人がくれ(中山町の佐礼谷へ行く道から分かれて上へ、一〇〇㍍ほどいった所の頂上がくぼんだ岩山で、今も大岩が多く残っている)へ逃げて、ここに身をかくした。みんなここなら見つからない、大丈夫だろうと思っていたが、不幸にもいっしょにつれていた赤ん坊が急に大声で泣き出したので、たちまち敵に見つかってしまった。こうなっては、もうおしまいである。城を守っているのとちかって、こんな狭い所を大軍に十重二十重にとりかこまれては、勝ち目は万に一つもない。必死になってかこみの一方を打ち破り逃げ出そうとしたが、半分以上はここで討死してしまった。
 こうして散りじりに逃げのびた残りの平岡一族と家来たちは、山越えして松前などの方へ逃げていった。途中で歩けなくなった幼い子供たちは、敵に捕らえられてなぶり殺しにされるよりはと、親や兄弟に殺されて、こも包みにされ谷川に捨てられた。城主の左衛門尉も命からがら数人の家来をつれて、谷上山越えで松前へ出ようと唐川までたどりついたが、つかれが急に出たのか、病気になってとうとう亡くなったという。
 今もこの城主の墓は平岡の石山の大きい松の下にあり、村人に祭られている。この墓の下には財宝がかくされているのではないかと伝えられているが、はっきりしない。