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伊予市誌

六、森山城主 森山伊賀守 (大平)

 森山城は天神ヶ森城ともいい、大平の曽根の裏山にあって、森山伊賀守代々の居城であった。
 伊賀守は、伊予の豪族(地方で勢いのあった一族)河野氏の家臣であった。今から六二〇年ほど前は、南朝と北朝との争いが、ここ伊予の国でも激しかった。このころ、南朝方であった道後の湯築城主河野通朝は、北朝方の足利尊氏の武将細川顕之に激しく攻め込まれて、ついに城は落ち、通朝も戦死してしまった。そこで、伊賀守は、河野家の復活をはかって、他の河野一族とともに兵を挙げ、北条にある高縄山城に立てこもって、大いに気勢をあげたが、これもまた、細川軍に攻め落とされ、伊賀守は討死し、森山城も細川軍の手に落ちてしまった。
 ところが、ちょうどこのとき、通朝の子通直が南朝方の征西将軍懐良親王にお目にかがるために九州に行っていたので、この知らせを受けると、急ぎ帰って、たちまち細川軍を討ち退け、ふたたび伊予の国を取り返した。そして、生き残っていた伊賀守の子を森山城に帰らせ、その子孫をいつまでも長く森山城主森山伊賀守として居城するようにさせたのである。
 今も、この森山城のあった山の麓には、森山氏一族の墓と森山氏の祖先が建てた供養塔(先祖代々の仏を祭るための塔)と伝えられる石造層塔(愛媛県指定文化財)がある。墓は別に下唐川にもある。
 森山城のある森山と谷をへだてて西に、向かい合っている山が鹿島山で、ここには鹿島山城があり、これと並んで、その西の山々には、山崎城・森城などがあった。
 この鹿島山城の城主は、都から来たという藤原右近掾道有(一説では、前近衛中将助安)であった。この道有と森山伊賀守とは、隣同士でありながら、たいへん仲が悪く、勢力を争って戦いをくり返した。たびたび、両方が山の上の城から谷をへだてて矢を射かけ合ったりした。その矢が空中で衝突したなどという話も残っている。今も、この下の谷辺りには、矢が落ちてたまった所として、「矢の窪」という地名が残っている。
 ある年の元旦のことであった。鹿島山城の道有は、元旦なのに、森山城に不意討ちをかけた。このとき、森山城の伊賀守は、くつろいで雑煮餅を食べていたが、あまりの思いがけないことに驚いてしまって、食べかけていた餅をのどにひっかけてしまい、防ぐ指図も出来ないままに、城を攻め破られ、ついに捕らえられて殺されてしまった。
 それ以来、曽根では、この殿様のくやしさを思いやって、正月には雑煮餅を食べないという風習になった。また、頭の働きの悪い人は、三年間元旦に雑煮餅を食べぬと誓って、それを守ると、頭の働きがよくなるとも言われていた。
 さて、この後も森山城は続いていて、城主の名も代々森山伊賀守と呼ばれていたところからみると、森山家の子たちがその後間もなく、河野家などの助けを借りて、城を取りもどしたのであろう。
 その後ずっと年月がたって、今から四二〇年ほど前の一五八三(天正一一)年六月、土佐の国の豪族長曽我部元親が大軍をもって、南予の諸城を落としながら、この森山城へも攻め寄せてきた。その勢いはたいへんなものだったので、伊賀守は普通では守りきれないと考えて、家来たちに竹の皮をいっぱい集めさせた。そして、これを山の麓から城の下まで一面に敷きつめさせ、長曽我部軍が城までの山坂を攻め上がろうとしても、すべって進んでこれないようにした。しかし、敵もさる者、麓から竹の皮に火をつけたので、全山は火の海となり、伊賀守の計画も空しく、森山城は、たちまちのうちに攻め落とされてしまった。この後間もなく、主家の湯築城主河野通直も長曽我部軍に降参してしまったので、ここに一五八五(天正一三)年春、長曽我部元親は、四国統一を成し遂げた。
 当時、伊予市にあった一〇余りの城も、このときにはほとんどなくなったという。今、この森山城の跡には、わずかに井戸やえんしょう(火薬)倉の跡が残っているだけである。