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伊予市誌

八、鉄砲の名人 端の左衛門 (三秋)

 左衛門は、元禄時代(一六八八~一七〇四)ごろの人である。伊予市三秋の端という所に住んでいて、農業のかたわら、猟師をしていた。
 ある日、左衛門が松山の城下へ用事に行っての帰りであった。石手川の土手で、四、五人の武士が鉄砲で的撃ちのけいこをしていたが、なかなか当たらなかった。それを見ていた左衛門が思わず声に出して笑ってしまっだので、武士たちが怒りだした。百姓みたいな男に笑われたのだから、武士として、がまんができなかった。顔を怒りで真赤にした武士たちは、
「笑ったところをみると、お前には、あの的が撃てるんじゃろう。これで美事撃ち抜いてみい。」
と、鉄砲をつきつけながら、つめ寄ってきた。左衛門は、あわてて謝ったが、許されるはずもなかった。仕方なく武士の鉄砲を受け取ると、前の的へは撃だないで、横の方に立てていたむしろに向かって、九発の玉を次々と、す早くこめて、撃ちこんでいった。それを見ていた武士たちは、せせら笑って、
「何だ。あんな大きなむしろになら、誰にでも撃てるぞ。そんなことでは、すまさんぞ。」
と、なお怒り出したので、左衛門は静かに、
「あなたたちの撃っている的は、小さくても的、ここへ撃てという印です。むしろには、その印が何もございません。私か今撃った玉の跡は、きちんと九曜の紋(紋の名で、真中の丸を八つの小さな丸できちんとかこんだ形の紋)になっていますから、さしででも測ってみてください。形は一分一厘のちがいもなく、九曜の紋になっております。」
と言ったので、武士たちが測ってみると、左衛門の言った通りだったので、驚いて声も出なかった。左衛門は、一発の玉で空飛ぶ鳥を数羽撃ち落とすほどの腕前だったのである。
 こうした左衛門の評判は、またたく間に四方に広かって、ついに大洲の殿様の耳にもはいり、召し出されることになった。そして、殿様が狩りに行くときには、必ずお供するようになった。左衛門は、あるとき、ツルを撃って殿様に差し上げた。そのツルには、どこにも玉傷がない。殿様が不思議に思って、その訳を尋ねると、
「傷の見えるツルでは恐れ多うございますから、ツルが鳴いて口を開けたときに、その舌を撃ち切りました。」
と答えたという。
 これもあるときのこと、左衛門が殿様のカモ撃ちの供をして、ある沼のふちの草むらで、カモの下りてくるのを待っていた。やがて、一羽のカモが下りてきだした。そこで、殿様が急いで鉄砲をかまえると、左衛門は、
「まだ、まだ。」
と、殿様の肩をたたいで止めた。そのうち、二羽、三羽と下りてきだしたので、初めて左衛門は、
「もう、よし。」
と言った。この後、狩りから帰った殿様は、家老(殿様に仕える最高の家来)たちに、
「この度、余は人から生まれて初めて肩をたたかれた。その肩をたたいたのが、なんと、あの百姓の左衛門だ。それも、平気で余の肩をたたき居った。」
と言って笑ったという。
 ある日、左衛門は、明神山に住んでいた一匹の大きな山ネコを撃ちとめた。この山ネコはおすで、体中、松やにだらけのものすごい山ネコであった。あとに残っためすの山ネコは、仕返しに左衛門の妻を食い殺し、左衛門の妻になりすました。それを左衛門は、少しも気付かなかった。
 あるときのことである。松山の飛脚(昔、手紙などを運んだ人)が夜になってから急用で、松山を発って、大洲へ走った。途中の犬寄峠にさしかかったころは、もう夜中であった。この峠は、昔から昼は追いはぎ(道を通る人をおどして、持ち物や着物などを取ってしまう盗人)、夜はたくさんの山犬が出るというので、旅人からたいへん恐れられていた峠である。はたして、山犬たちが群がり、おそいかかってきた。飛脚は覚悟していたものの、こんなにおびただしい山犬の群れには驚きあわてた。すぐに、そばの大木によじ登って逃げはしたものの、山犬たちは、なおもこの木に飛びついて登ってこようとする。飛脚は、もうこれで自分も終わりだと思った。
 このとき、たまたま、その近くを左衛門が通りかかっていて、山犬のものすごいほえ声を聞いたので、急ぎ走り寄っていった。そして、じっと月明かりにすかして見ると、山犬たちが一本の大木に群がって、飛びかかっている。あの木の上に誰かが逃げているにちがいないと思った左衛門は、すぐに刀を抜いて山犬たちを追い払おうとしたが、こんなにおびただしい数ではどうしようもない。このとき、ふと左衛門は、自分の刀の目貫(刀のつかにつけた飾り金具)に彫られている鶏のことを思い出した。この彫り物の鶏には血の温みが伝わると、命を得て鳴くと聞いていたので、左衛門は、急いでそばにいた山犬に斬りつけ、その血を彫り物の鶏にこすりつけて、
「鶏よ、命あらば、美事鳴け。」
と、大声で叫んだ。すると、この彫り物の鶏は、声高らかに「コケコッコー、コケコッコー。」と鳴くではないか。その声が四方にひびき渡ると、群がっていた山犬たちは、びっくりして、「もう、朝が来た。」と思った。夜が明けたら、たいへんである。山犬たちは、ものすごいうなり声をあげて、大木のそばから散っていった。このとき、最後に引きあげようとした頭らしい山犬が、
「今夜、ここに左衛門の女房(妻)になっとる山ネコがいたら、失敗しなかったになあ。」
と、残念そうにつぶやいたのを、木の上でふるえていた飛脚は、確かに耳にしたと思った。
 危ないところで助かった飛脚のこの話は、たいへんなうわさとなり、うわさはうわさを生んで、大洲の殿様の耳にもはいった。そこで、殿様は、さっそく左衛門を呼び出し、
「その方の妻は、山ネコだというではないか。早く退治せよ。ぐずぐずして退治しないなら、こちらから軍勢をさし向けて退治する。」
と言い渡した。左衛門は、自分の今の妻が山ネコなどとは、どうしても信じられなくて困ってしまったが、殿様の言い付けなので、仕方なく「これで撃ちとめよ。」との南無八満大菩薩の名号(お名前)を刻んだ玉を一発いただいた。
 左衛門は、なおも迷ったけれども、とにかく山ネコであるかどうかを確かめようと、翌朝はいつものように猟へ行く支度をした。そして、いつものように妻から七発の玉をもらうと、出かけたと見せて引っ返し、そっと部屋にいる妻の様子を障子のすきまからのぞいた。すると、妻は、いろり(部屋の真中に作った火を燃やす所)にあたりながら、菜種油をぺろぺろなめているではないか。それを見とどけると、左衛門は覚悟を決めて、す早く七発の玉を次々と撃ちこんでいった。すると、妻は、いろりにかかっていた茶釜のふたを目にもとまらぬ早業で取ると、飛んでくる七発の玉をパシッ、パシッと払って、ぐっと左衛門の方をにらんだ。らんらんと光る恐ろしい目であった。妻は、まさしく山ネコであったのだ。ところが、大胆にも、この妻の山ネコは、もう七発の玉が飛んできたから、あとは大丈夫と髪をゆうゆう解き始めた。そのすきに、左衛門は、今度こそと殿様からいただいた玉をこめて撃ちこんだ。命中した。山ネコはギャッと叫んで倒れ、息絶えた。恐ろしく大きなめすの山ネコが血を流しながら、そこに横たわっていたのである。
 左衛門には、まだほかにいろいろな言い伝えがある。あるときは、大洲の神南山に住むヒヒ(大形のサルで、性質が荒い。マントヒヒ・マンドリルなどがいる)を退治して、殿様の危急(危険がせまること)を救った話なども、その一つである。そのほうびに、左衛門の住んでいた端の人たちの年貢(殿様が農民からとった税)が四分の一になったということである。