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伊予市誌

一八、金子の天神松 (米湊)

 金子の天神松は、米湊の七反にあって、幹のまわりが六㍍あまりもあった。幹は曲がりくねっていて、枝は四方に張り葉はよく茂り、ここら辺りでは、ついぞ見られないすばらしく大きな老松であった。樹齢は千年と伝えられていたが、一八九二(明治二五)年惜しくも枯れてしまった。
 この松のいわれは、今から千百年ほど前、醍醐天皇のとき、そのころ讃岐の国司(今野県知事)であった菅原道真が、勅使(天皇のお使い)となって、上野の伊予神社に来たとき、上野の手間神社のある所に立ち寄って、仮宮を建てたと言われるが、このとき、米湊の七反にも立ち寄った。そして、この地でしばらく休んだとき、ここから見える伊予灘の景色がたいへん気にいって、その記念に小松を手ずから植えたという。これが金子の天神松である。
 道真はやがて京都に帰って、しだいに出世し、右大臣にまでなったけれども、このころ勢力のあった左大臣藤原時平にねたまれて、無実の罪をきせられ、九州の筑紫の国(福岡県)大宰府に追いやられ、二年の後、都をしたいながら亡くなった。
 その道真の死後四〇年、七反にすくすく伸びている手植えの松を見るにつけても、立派な人であった道真のことが思い出されて、伊予の豪族河野氏が、道真を祭っている大宰府天満宮から神霊(神のみたま)を迎え、この松のある所に建てられたのが金子天神社である。そして、この松は、ずっと長く村人に親しまれてきた。
 その後、一八七八(明治一一)年になって、この天神社は、米湊本郷の湊神社に合わせ祭られたが、その後も天神社の境内は、そのまま残り、金子天神松の外に老松二本、老杉二本などもあったが、一八九二(明治二五)年、天神松が枯れた後、他の老松などもいつの間にか枯れてしまった。
 今、七反からわかれて発展した三島町にある金子天神社は、なくなった七反の天神社に親しんできた氏子たちが相談して新しく建てたものである。