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伊予市誌

二一、尼弘法 (湊町)

 今から二二〇年あまり前、下吾川の旧家、田中庄兵衛の家に二代にわたって仕えていた下女がいた。この下女は、もと大平の生まれで、珍しいほど真面目で、よく働き、信心深い女であった。
 田中家の下女として働くようになってからも、ますます信心深くなり、食事するときは、いつもまず、自分のご飯の一部を弘法大師に供え、拝んだ後でないと食物を口にしなかった。そして、よく働いたので、主人の庄兵衛は、ひどく感心して、あるとき、四国八十八か所を順拝させた。
 下女は、日頃の望みがかなったので、非常に喜んで、数十日かけて四国の山を越え、谷を渡って、弘法大師が開いたという八十八の寺々にお参りした。下女には、弘法大師の有り難さが身にしみたことであろう。帰ってから数日たったある夜、夢に弘法大師が現れて、
「高浜海岸の海中に私の仏像がある。これを引きあげて祭ってくれたら、お前の日頃の望みは、必ずかなえられるだろう。」
と言った。それからは、同じ夢をたびたび見るので、湊町に住む漁師の叔父に相談に行って、さっそく、二人で舟をこいで高浜の海岸へ行ってみることにした。
 すると、夢の通り、海岸近くの海中にきらきら光るものがあった。二人は驚いて、海中をよくよく見ると、それは弘法大師の石像であった。そこですぐに、付近の漁師の手を借りて、石像に綱をかけて引きあげようとしたが、どんなに人数をぶやしても引き上げることができない。みんな困ってしまった。すると、この下女が、
「わたしがやってみましょう。」
と言って、海の中へ飛びこんだ。そして、不思議なことに軽々とこの石像を抱いて浮き上がってきた。
 これを舟にのせて、湊町の浜まで運び、それからは、下女が背負って大平まで持って帰ろうとしたが、湊町のある所まで来たとき、背中の石像が急に重くなって、もう一歩も歩けなくなった。そこで、この地がよいとおっしゃっているのだろうと思って、ここにお堂を作り、この弘法大師の石像をお祭りすることになった。これが今の湊町の大師堂である。
 今、龍宮城のような山門をはいると、正面のお堂に「高浜海中出現大師」の額がかかっていて、中に弘法大師の石像が祭られている。毎年四月二一日のご開帳(開いて拝ませること。)の日には、カキなどの貝がらのついているお大師様を拝むことができる。
 この下女は、これから後は、田中家を出て嫁入りもせず、尼となって一生ただひたすらお大師様にお仕えしたので、町の人々は尼弘法とよんで親しんだ。大師堂の左手には「妙円さま」という名で、この尼弘法が祭られていて、今も、お参りする人が絶えない。位牌には妙円信尼位とあり、一七六二(宝暦一二)年九月一日没(死)とある。