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伊予市誌

二五、吾川の武術の達人たち (下吾川)

 江戸時代、吾川には、武術にかけてかなり心得のある人がたくさんいた。
 今から二二〇年ほど前のことである。上吾川の宮前に庄蔵と呼ぶ人がいた。刀術・柔術をはじめ、いろいろな武術に優れていた。
 ある日、港町の番所のある浜で相撲の興業があった。有名な相撲取りがたくさん来ていた。庄蔵も見物に行った。しかし、庄蔵の目から見ると、相撲の取り方がなっていないので、思わず、
「なんだ、しっかりやらんか。」
と、つい口走ってしまった。相撲取りたちは腹を立てた。そして、ひとりの強そうな大男の相撲取りが顔を真赤にして庄蔵の所へとんできた。
「へらず口をたたく奴じゃ。こっちへ来い。」
と、なぎ(石を積み上げた波よけ)の所へ引っぱって行った。そして、
「あやまれ、あやまらなけりゃこの海へほうりこむぞ。覚悟しろ。潮のからさを教えてやろか。」
と、いきまいた。すると庄蔵は、
「わしはところのもんじゃけん、ここの潮味はよう知っとる。貴様こそよそもんじゃけんわからんじゃろ。」
と、この相撲取りの首筋に手をかけたと見るや、その体をかるがると持ち上げて海へ投げこんだ。心配して集まってきた見物人は、鳩が豆鉄砲を食ったように見ていた。
 あるとき、伊予岡八幡神社の社殿に、きたないなりをした乞食が、何日も何日も長居をしていたことがあった。どこかへ行けといっても知らん顔をしている。社殿がよごれても困るし、火事でも起こされては大変だと、神主さんや氏子たちが心配して、その立ちのきを庄蔵に頼んだ。そこで、庄蔵は神社へ出かけていって、
「どこかへ行ってくれ。」
といった。しかし、前と同じで知らん顔をして、いっこうに動くようすではない。庄蔵はすっかり腹が立った。こんな奴にはこうしておどすよりほかにないと、刀を抜いて斬りつけてみた。すると、思いがけなくもこのとき早く、この乞食は、そばの湯沸でぱっと刀を受けとめたではないか。
「うわさに聞く貴殿(あなた)の腕前を見たいため、今日までこの姿で待っていた。これでわしの目的は達したわい。もう用はない。」
と、いいすてると、社殿を後にいずくともなく姿を消した。
 庄蔵が年寄りとなってからのこと、乞食みたいなふうで港町の造り酒屋へはいりこみ、徳利を敷居の所へ置いたまま、店の中をうろうろしていた。これは、酒をねだりに来たにちがいないと思った店の者が、外へ追い出そうとしたが出て行かない。たまたま庄蔵と同じ村の力自慢の善喜がこの店に来ていたので、その善喜がいきなり庄蔵につかみかかった。すると、
「こら、善喜、お前はわしを忘れたか。この恩知らずめ。」
と、庄蔵がどなりつけたので、善喜ははっと気がついて飛びのいた。庄蔵は、
「こら善喜、わしが今、肋骨の三本目を折ってやったぞ。もう、お前の命は三年じゃ。」
と、いいすてて帰って行った。庄蔵のす早さは目にもとまらなかったのである。
 この当時、下吾川の本村に、上城戸六郎左衛門という棒術の達人がいた。ある日の晩、本村の農家へ強盗がはいり、刀でおどして物をとって逃げた。近所の六郎左衛門は、それを聞くやいなや、そこにあったさす(両方に荷物をかけてかついで行く棒)を手にとって、一目散に追いかけた。鳥の木と南黒田との境にある。二つ橋のところで追いつめた。強盗は、腕に自信があったのだろう、いきなり刀を抜いて斬りかかってきた。六郎左衛門はす早くさすで受け止めた。しかし、刀がすべって六郎左衛門は額に向こう傷を受けた。けれども、屈せずさすで荒くれ強盗を取り押さえた。この勇気と棒術で彼はいよいよ有名になった。藩役所では、これを聞いてほうびとして年貢(今の税金にあたる)を納めなくてもよいということにしてくれた。
 また、下吾川の田中寅右衛門という人も、棒術の達人であった。若いときから、上吾川の六反の棒術家、佐伯寅蔵という人の弟子になって、熱心に学んだのでその名が知れ渡り、二四歳の時に大洲藩士、小林兵次に召しかかえられた。
 まもなく梁瀬山で、大洲の殿様が巻狩り(けものを四方から追いつめて捕る)をした。このときは、棒の代わりに手鎌を持って行き、追いつめられて荒れ狂う猪を、ものの見事に一打で仕止めた。昔、加藤清正という武将は、槍で虎を突き殺したというが、手鎌一打で猪を仕止めたとは、珍しいことであるというので大変評判になった。
 また、上吾川の布部にも、篠崎正雄氏の祖先で棒術の達人がいた。この人は、毎夜、どんな雨風でも谷上山の宝珠寺へ出向いて、ひとり修業を怠らなかった。夜道を谷上山へ登り降りするだけでも、大変な苦労と時間がかかるものだが、日が経つにつれて短い時間で登り降りできるようになったので、まるで天狗の生まれ代わりのようだったという。これにつれて棒の早業も格段に上達した。あるとき、彼は八畳の部屋を立てきって、血気にはやる五、六人の若者たちに棒をとらせて、一斉に打ちこませたが、誰ひとり打ちこむことができなかったということである。