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伊予市誌

三〇、宝珠寺の建立 (上吾川)

 伊予市の前山に、ひときわ高くそびえる谷上山にある宝珠寺は、伊予市では最も古い寺で、今から一、四〇〇年ほど前、聖徳太子の言いつけで造られたという。その後、今のような寺になったのは、天武天皇の御代の六七三年、伊予の国司(今の県知事)越智有興によって建てられてからだといわれる。
 本尊は千手観音で、これには、次のようないわれが伝えられている。そのころ、奥山の佐礼谷(中山町)寺野にあった寺に、インドから中国を経て伝えられてきたという一寸八分(約六㌢)の、黄金の千手観音像が祭られていた。ところが、この寺が焼けたとき、不思議なことに、この黄金の仏像が谷上山に飛んできて、谷上山の大木の梢で光り輝いていた。それを有興が夢に見たので、行ってみると、本当であることがわかった。そこで、すぐその仏像を梢から移して、今までの寺にあった千手観音像の首の中に納めて祭ったという。
 その後、その宝珠寺は今に至るまでに四回建て直されている。第二回目は、村上天皇の御代のことであった。九五二(天暦六)年八月のこと、九州筑紫(福岡県)の国司藤原国光が、船で都へ上がっていた途中、急に大雨風にあい、船は今にも転覆しそうになった。ところが不思議なことに、伊予の山の辺りから一筋の光がさしてきたかと思うと、大雨風がぴたりとやんだ。これは世にも有難いことだと感激した国光は、船をその光ってくる辺りに向けて走らせた。すると、米湊の海岸に着いた。見ると、光は白い布を敷いたように谷上山の頂まで達していた。そこで、国光はその布のような光を伝って谷上山に登ったというが、この光の布にちなんで名がついたのであろう、今も谷上山へ登る麓には、布部という部落がある。
 さて、谷上山に登った国光は、大きくて立派な寺が建っているのに驚いた。しかし、もう古びてしまって、こわれかけているところもある。それで、命を救っていただいたお礼のためにと、五間(約九㍍)四方の本堂・宝塔・仁王門などを改築することにした。国光は急いで九州に帰ると、すぐによい木の多い豊後の国(大分県)で、必要な木材をそろえ、浜に集めておいたところ、その夜、大時化(海が大荒れになる。)になって、木材はことごとく、どこへともなく流れてしまった。ところが、それが不思議なことに、みな米湊の浜に流れついていた。米湊の村人たちは、不思議に思いながら、これを拾い上げて、一か所に高く積み上げて置いた。それから、この辺りを拾い上げと呼ぶようになったのだという。
 国光は、やがて、あの流れてしまった木材が、全部米湊の浜に流れついていたことを聞いて、度重なる不思議な有難さに驚きながら急ぎやってきて、これらの木材を谷上山に運び上げ、もとに勝るとも劣らないように宝珠寺を改築し、感謝の心をこめて盛大に祭ったと伝えられている。