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伊予市誌

三六、幡立神社と一宮神社跡 (上三谷)

 上三谷の平松西組の北西に、一宮神社跡と刻まれた石碑の建った神社跡がある。この宮跡あたりは、今から一、〇〇〇年ほど前には、小高い丘が二つあって、木がよく茂っていた。一つの丘に、天照大神を祭る一宮神社、もう一つには、天王様を祭る幡立神社があった。そして、毎年四月一日には一宮神社の祭、六月一五日には幡立神社の祭が、盛大に行われていたという。
 ずっと大昔には、この二つの神社のあった辺りから北西の方は、横田(松前町)から沢田にかけて、ずっと入江になっており、この丘の近くが港になっていて、船も着いていたといわれる。
 たまたま神功皇后が朝鮮との戦いで新羅・百済・高句麗の三国を従えて帰られるとき、波おだやかな伊予灘にはいって、船をこの港にとめられた。
 あの有名な玄海灘の荒波を突き切って、帰ってこられたわけだが、大勢の兵士の乗っていた船は、人の重みであまり揺れなかったけれども、皇后の乗っていた船は、人を多く乗せなかったためによく揺れた。この船の揺れを少なくするため、船底に青石をたくさん積んでいたが、波静かな瀬戸内海にはいれば、もうこの青石はいらない。そこで、この丘に立ち寄られて、幡立神社のある丘に、皇后旗を立てられ、しばらく休まれたとき、この青石を、一宮神社の丘に、移し置かれたという。
 そこで一宮神社では、この石を一つだけ御神体として祭ることにしたので、それからこの神社を、磯ノ神社とも呼ぶようになったという。また、他の石は、さらに宮下の伊曽能神社へ運ばれ、そこへ祭られたともいわれる。
 その後、一九〇九(明治四二)年の神社合祀(二つ以上の神社を一社にして祭る。)で、この二つの神社は、伊曽能神社へ、合わせ祭られることになって、今は神社跡ばかり残っている。