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伊予市誌

四、俳句

 俳諧の語彙は、元来中国から伝来したもので「誹諧」とも書き「滑稽」とか「諧謔」とかの意である。中国の『唐書』にも「鄭綮本善クス(レ点)詩ヲ。語多シ(二点)誹諧(一点)」(鄭綮伝)とある。日本では『古今集』巻第十九「雑体」の中に「誹諧歌」という部立があるのに始まる。これは『万葉集』(第一六巻)の戯歌の系統を引いたものである。俳諧の始祖といわれる山崎宗鑑(一四六五~一五五三)編『犬筑波集』には「はいかいとてみだりにわらはせんと斗はいかん」と滑稽と自由に限界を与えようとしたが荒木田守武(一四七三~一五四九)の『守武千句』などは優美で和歌的な、いわゆる堂上文学であった「有心連歌」から「無心連歌」(地下連歌)へ引きもどし滑稽連歌として庶民の間に浸透させようとした。
 俳諧を連歌に近づけ、上品なものにしようとしたのが松永貞徳(一五七一~一六五三)の率いる貞門派であり、その硬直性を打破して自由さをとりもどそうとしたのが、西山宗因(一六〇五~一六八二)の談林派である。しかし、これらもやがて一日一夜に二万三、五〇〇句を独吟するという伊原西鶴(一六四三~一六九三)らの「大矢数」におちていった。次いで松尾芭蕉(一六四四~一六九四)が出て俳諧を「道」として確固たるものにした。
 郡中及びその周辺においても全国の俳壇の動向につれ、庶民の文芸として俳諧が徐々に普及してきた。一六七二(寛文一二)年宇和島の貞門派、桑折宗臣(秀宗四男、一六三四~一六八六)が『大海集』七巻七冊を刊行した。作者三九か国、八三二人、五、〇二七句に及ぶ伊予最初の俳諧集であるが、当地からは一句採録された。

  掃除せよむさ草花の坪の内   座頭多賀都

 当地区に俳句熱を急速に盛り上げたのは、やはり一六八二(天和二)年伊予に来遊した談林派の岡西惟中(一六三九~一七一一)であろう。惟中は松山の法泉寺・浄蓮寺で俳句・連歌・漢詩・源氏物語などを講じた。郡中へ立ち寄ることはなかったが「金蓮寺といふ旧蹟、蒲の御曹司葬し稱名寺くわしく見まほしかりし」(『白木郎子記行』)とあるように貪欲なまでの知識欲と博学、俳諧に寄せる情熱、平易な話術、それらは藩をこえ、身分の差別をこえて当時の語り草となった。一七五一(宝暦元)年久万に霜夜塚建立の功労者満口寿風(一六八六~一七五一)が没したので、久万の連衆が追善句会を催し、同年一〇月一〇日『俳諧十夜の霜』を刊行した。当地からの投句は三人三句である。

  替地・郡中可興  木枯や障子の破れの物答
  同止隅      初霜や茎の力にかかる時
  同吾柳      煙たつ水の崩れや初氷

 可興(一七一六~一七九七)は本名村山四郎右衛門直道で「蚊狂子」・「蝶々庵」・「白馬軒」と号した。松木淡々系の雄、京都の風状(一七一三~一七六四)と『豫蘆箔』(寛延三年一七五〇刊)に歌仙を巻いている。一七四〇(元文五)年大阪の清得舎富天編『押花宴』によると、京都の羅人・湖照・竿杖ら淡々系の指導者及び県下では入野の関ト・三津の含芽・吉田の狸兄・定雄らと親交を結び、郡中地区に淡々系俳風の浸透興隆の基盤をつくっている。また一七九〇(寛政二)年には選者となって稲荷神社に永額を奉納した。
 一七七二(明和九)年早苗月(五月)宮内涓江が建部涼岱(涼袋。本名、喜多村金吾久域。一七一九~一七七四)著の『蕉門頭陀物語』(別名『芭蕉翁頭陀物語』寛延四年・一七五一刊)を筆写している。同書は、芭蕉の逸話七編、門人その他俳人の逸話二六編を物語的に書いたもので、興味深く一般向きで、正風の風貌をより印象づけるものとして注目されてきた。涓江は更に『三冊子』・『奥の細道菅菰抄』(安永七年=一七七八年刊)を読破研究し、芭蕉の奥義に迫ろうとしている。当地に徐々に貞門、談林の奇想天外、奇を好しとする俳風、あるいは淡々系に飽き足らないとする傾向が、芽生えてきたものとして注目したい。
 寛政以降に活躍した当地俳人に次の人々がいる。
  貫時 替地灘町宮内才右衛門 本名を保如
  武仙 替地灘町和泉屋喜兵衛 別号を古仙
  文亀 替地灘町灘屋源兵衛 鈴木泰重
  二霄  替地湊町 紺田屋喜七

  鴬は訛らぬ在所育かな     貫時
  八朔や田にも溢る稲の波    武仙
  浮そふな形りには見へぬ瓢船  文亀
  夕顔や風呂も源氏の垣隣    二霄 

 天明・寛政期は栗田樗堂(一七四九~一八一四)がその俳名を全国にとどろかせた時代である。貫時らが樗堂と直接関係があったかどうかは不明である。しかし一八七九(明治一二)年樗堂六六遠忌に『西木集』が刊行されたが、郡中の宮内木きゅう(宮内小三郎一八四〇~一九一五)の句が採録されている。『西木集』は、樗堂の句三〇四句を収録した『萍窓集』から九九句とり、これに全国応募の秀句を加えて編さんしたもので、伊予人の投句は三九句である。はん(さんずいに半)水園花の本芹舎(一八〇五~一八九〇)門木きゅうの俳名は既に高かったのであろう。また郡中土佐屋二郎兵衛の次男武井大甫(孫右衛門正住、一七九五~一八三〇)が二畳庵二世武井嘯雲の養子となっているのも注目に価する。

  鵜のかがりここまでとどく極かな  『西木秀』木きゅう

 一八〇二(享和二)年一〇月、丹原の一得斎埋蛇(高階正勝)が川之江から宇和島にわたる「巧拙を論ぜず 只風流に世を翫び此道に心を入るの深き人の句」二一一句を選んで『豫陽俳諧友千鳥』を刊行した。

    易地社中
  うっかりと出た顔もせず初桜   貫時
  短夜やされども宵の雲はなし   百文
  笠の緒のしまり過ぎたる暑さ哉  都江
  毛毬栗や甘みを見せぬ錬気者   僧無極
  冬枯や何して伊勢の宮雀     里嶋
  鎧脱て御代太平やさくら狩    八重
  名月や 華には免す枝ながら   桂里
  稲妻や 兀たる山の天窓かな   洗耳

 文化文政期に入ると大阪の花屋庵奇淵(一七六五~一八三四)、あづまの万外らが相次いで来て、中予地域を精力的に指導し、芭蕉への志向はいよいよ高まってきた。
 天保期に入ると俳諧は爛熟期ともいうほど盛況になって、各地に芭蕉塚が建立されるようになり、当地の俳諧も急に活気を呈し、社寺などへの奉納永額も盛んに掲げられるようになった。
 一八三五(天保六)八月、松山川原町の葵笠が田川鳳朗(一七六二~一八四五)の序文を得て『川掃除』を刊行した。

  おきおきの眼ぢからまさる木槿かな  郡中蓼村
  大藪をはづれて月のきぬた哉     郡中桂谷
  さし汐に衝立あてる夜寒かな     郡中聴雨

 仲田蓼村 
 一七九四(寛政六)年四月二七日郡中灘町で種油・鬢付製造業「辻屋」に生まれた。通称を和助と呼び、諱は真武、俳号は蓼村・一炉庵と称した。一八三四(天保五)年四一歳で家業を養子に譲り、京都の花守岱年(?~一八五二)・桜井梅室(一七六九~一八五二)に師事し、また多くの文人墨容と交わり風雅の道を究めた。一八三五(天保六)年には田川鳳朗が蓼村宅に投宿して句会を催しており、蓼村の俳名は早くから知れわたっていた。天保初期、宇和島から出された『反古籠』に蓼村の句がある。

  夜に咲て昼見るけしの盛哉    蓼村
  引出し色でさびしい青田哉    同

 蓼村は、また連句にも秀でており、岱年・千崖・茂椎・鳳朗・黙翁・柿遊・二鶴・木きゅうらと巻いた歌仙がある。蓼村の句が採録された句集は『川掃除』・『知那美久佐』・『子の日の松』・『伊予寿多礼』・『雪のあけぼの』・『黙々集』・『逐波集』・『朝田鶴』・『小不尽集』等で、選をした「巻」・「奉納永額」も多い。また和歌・紀行文にも優れ、梅室・岱年を訪ねて京都へ旅した『漂泊記』は名文である。
 一八三八(天保九)年六月「いまだ四国一円の句集なきを(中略)石走る淡海(淡路)の国人椎亭のあるじ、いとわりなきまめごころから同じ好人の句を拾ひ(中略)小本五冊に綴り四国類題集と名づけ(万丼序文)『俳諧四国集』が編さん刊行された。四国とは阿波・讃岐・淡路・伊予で、春夏秋冬四巻と雑一巻で郡中地区からは嘉扇・芦英・松涛・紫陀・近思・蓼村・東里・寿永・耀月・秋森・遊之・吾好・自楽ら一四人が全編四七四人、伊予二八八人の中に入っている。

 陶惟貞(一七九九~一八七三)
 天保以降、蓼村と並んで俳諧の指導者として重視すべき人である。惟貞は、その才能は何をやっても出来ないものはない人で、俳諧はもちろん漢詩・和歌・書画などに秀で、当地の文運興隆に偉大な貢献をした人といえる。「うつりゆくはじめもはてもしらぬひのあやしきものはこころなりけり」と詠み、「人の此の世に生まれける、一人として天地の子にあらざるはなし(中略)人はただ誠をおもふべし(中略)内に誠あれば外にあらわるることも是あるなり。学問とてひろく書を読みてものしりになることにあらず」と述べ人間の根本は誠にあることを強調している(「漢学・漢詩文」の項参照)。
 弘化期に入ると天保の三大俳人、梅室・蒼きゅう・鳳朗が伊予に来遊して指導があった。その上に、蓼村・惟貞らの指導によって郡中地域の俳壇は、百花撩乱、すぐれた俳人が続出して互いに競い合った。
 一八四五(弘化二)年正月、松山魚町の播磨屋吉永半兵衛こと蛸壷烏鴨が『知那美久佐』を刊行した。大三島・瀧ノ宮・出石寺・宮島に奉納するため七万句を集め、その中から秀句百句を選び各寺社へ「百吟奉納」を行った。

     鴫立や山田の稲の苅残り            上三谷塘 蝸牛
     こそこそともの押やりの巨燧かな        郡中山崎屋隠居 嘉扇
     岩越る浪の艶よき荒尾草哉           同三嶋町村崎屋 一松
     炭次に出て御寝酒の相手かな          同稲荷西岡氏 柿遊
     ゆく秋の音がするなり竹の奥          同森油屋 桂路
     朝がお(白にハ)や眼をすりすりも蔓の世話   同辻屋 蓼村

 同年秋、牛渕の庄屋相原喜兵衛こと蛙庵二頌の古稀を祝して古稀賀集『子の日の松』が奥平鴬居の序文を得門弟の手によって刊行された。郡中地区からは四人が祝句を贈った。

     潜るたび千と世重る茅の輪哉  鴬朝
     松植て齢を祝ふ子の日哉    一松
     袴着の手引や老の神諧     柿遊
     萬代の旭をうけて霜の松    蓼村

 一八四七(弘化四)年大洲二名の竹田旦泉の遷暦を祝し、長谷部映門(一七八二~一八四八小松藩家老)の序文を得て『一帰賀集』が出された。祝句など二八八句で、漢詩・和歌を寄せた人もいた。

  旅人の若葉みめぐる御室哉     蓼村
  午時の鐘聞や窓から風薫る     角丸
  たまになる楽しみ探し桃の花    嘉扇
  黄鳥の声進みゆく朝野かな     温古
  としどしに祝ふ木ぶりや松花    八千代
  これからもかはらぬ梅の勾ひ哉   睦国
  としどしにかはらぬ空や梅の花   梅柳
  枝まして年々満る芽立かな     壮年
  鴬や筆とりてまつ次の声      玉扇
  灑ぎりで呼ばるる空や啼くくひな  松屋
  借り風呂や祈祷心に焚も例     壮年
  松植て齢を祝ふ子の日かな     一松
  大船も忘れてもどる団扇哉     柿遊(イナリ)
  乳にすがる子にもおしへる御慶哉  月好(アガワ)
  釣てある籠なまぐさき若葉哉    花井(中村)
  松に鶴えみや若やぐ六十の春    松涛(大平)
  芋のつる昼はつかれの枕もと    聴雨
  若柳にわが歳かくす二月哉     蝸牛(ミタニ)

 一八四八(嘉永元)年三月、広田満穂の庄屋日野林樵柯(一七七三~一八四九)が旦泉・中山の溪山・明神白圭・原町の古錦の協力を得て四三八句の秀句をまとめ『伊豫簾』を編さんした。郡中地域からは蓼村・角丸・柿遊ら二九人の三三句が入っている。

  蝶のとぶ野が庭となる小家かな   蓼村(郡中)
  畑打のひとりの音や垣の下     玉扇(郡中)
  川越に見るが柳のおもてかな    角丸(郡中)
  鵲の橋の崩れや朝からす      嘉扇(郡中)
  買て来た馬の首から木槿哉     〃
  門に出て扇拾ひぬ今朝の秋     花井(郡中)
  掃よせて雪にしだるる柳かな    錦石(郡中)
  萬歳の烏帽子落鳬 鳶の声     美松(ヤクラ)
  腹へしに出れば日のある柳哉    其松(ミタニ)
  梅を見ておくや小春の苔の道    稲村(ミタニ)
  高飛もせぬかと松や庭の蝶     柿遊(イナリ)
  長閑さや今朝のところに今朝の雪  二鳥(ナカムラ)
  月更て亀の出て啼く夏野哉     一樵(郡中)
  咲かわりかわりし芥子の夕かな   月好(アガワ)
  行過て海道問ひぬ夏木立      柿遊(イナリ)
  よい風の一日吹くや辻ヶ華     〃
  タ立の来ぬ川筋も濁りけり     玉光(ヤクラ)
  濡足で京へ出でたり菖蒲売     里灯(ヤクラ)
  風を見て迷ひ直すや渡り鶴     嶺外(アガワ)
  雪のちる若葉の奥や鳩の声     双樹(ヤクラ)
  野の掾の昔聞きたし女郎花     双村(ヤクラ)
  白菊の勾ひこぼるる小雨かな    一巴(ヤクラ)
  寝馴たる一階余波や雁の声     柿遊(イナリ)
  鴫立て松風残るばかりなり     遊石(ウエノ)
  乗掛のふとんに霧のしめりかな   四孝(ウエノ)
  虹消し濡た日のさす紫苑かな    有推(ナカムラ)
  鶉鳴く上を尾花の風そよぐ     恰々(ヤクラ)
  時雨ねば済まぬ夜すがら鳴千鳥   文友(郡中)
  つむ雪に音聞へけり水車      駒白(郡中)
  暮かかる向ふにのとつ雪の山    晴居(郡中)
  撞放す鐘にふり込む木の葉哉    素琴(ウエノ)
  旅はうしと合点した夜や初時雨   三津木(ウエノ)
  いささかな風も嬉しく雪の竹    夏人(ミタニ)

 一八五二(嘉永五)年竹内旦泉が願主となり象頭山・菅生山へ奉納のため『伊豫一国集』が出された。四万五、〇〇〇句から秀句を選び、象頭山一〇〇句、菅生山ヘ一〇〇句奉納したものと、員外勝句三四句を集録したものである。松山川原町中屋為治朗の板行として注目される。郡中地区からは蓼村ら一四人一六句が採録された。
 同年冬、出作(現松前町出作)の弓立木長(一七九一~一八九六)が『雪のあけぼの』を編さんして宇和島の和霊神社に奉納した。

  見えぬ灯の水に影さす茂かな     枝丈(郡中)
  腥き風のふくなり若葉陰       花井
  うち水や木にもどりたる鳥四五羽   春永
  池ほどに海もみへすく茂かな     角丸
  花に日のさして雨ふる卯木哉     松涛(大ヒラ)
  先に来た男来直す御慶かな      枝丈
  紅梅やけふもさかり時過ぬ色     柿遊(イナリ)
  米搗て春まつまでの山家哉      雲椎
  水の外おとなき雪の裾野哉      〃
  里はまだ見ぬに梅ちる小島哉     角丸(郡中)
  出て後に友の酔けり月の舟      雲椎(郡中)
  夜髪結ぶ海士が子達や暮の月     只仙(郡中)
  柴垣の見込みもふかし菊の花     半可(郡中)
  鞦韆や皮のむけたる杉の枝      技丈(郡中)
  蕗の薹 市をはなれて花になる    蝸牛(上三谷)
  灯籠の外に火もなき野守かな     雪樹(上三谷)
  此のうへの哀はしらずねはん縁    枝丈(上三谷)
  枝そよぎのこる夜明やほととぎす   松涛
  きくの客来るまでのぞく戸口かな   里灯(ヤクラ)
  冠にはらりと梅の香かな       一貫(下三谷)
  炭の香に夜のふけわたる一間哉    角丸(郡中)
  酒の座を迯て柳にふかれけり     枝丈
  頓て出る日のかがやきや雲の峰    雲椎
  雪岑や一むれづつにもどる鳥     扇丸
  牛の背に乗て梅をる子供かな     春永
  いひぶんのなきも淋しや月の宵    蓼村
  鴬の鳴や隙とて人の来る       春永
  うぐひすや啼ほど軽き枝うつり    一眠
  うぐひすやおのが谺を伽にして    枝丈
  さしたのもまけず芽をふく柳哉    〃
  一むらは皆紙漉や朝の霜       巡南
  蛤の口を明たり春の雨        柿遊
  傘にたたみ込みたり雨のてふ     蝸牛(上三谷)
  小雨せし夕べを菊の分根哉      只仙
  なの花や一すぢみゆる長つつみ    一眠
  似た夜明 似た黄昏やはなの中    松涛
  山吹や朝雨はれて日の匂ひ      春月(モリ)
  散るけしの障りて芥子の散にけり   雲椎
  雨の香の日にも捨らぬ茂哉      松涛
  ぼちぼちと雫の落る茂哉       雲椎
  ぼちぼちと雨の降りけり柿の花    川南
  明やすき夜を寝余やかゞり舟     〃
  塩はゆき飯の進むや青あらし     一眠
  父母の無事もきこへしはつ茄子    月好(吾川)
  ゆふ暮やほたるあかりをさす小舟   角丸
  落合の水音高し飛ほたる       蕉亭
  降中に日あしも透くや夏の雨     枝丈
  すずしさや枕の下に水の音      花月(宮ノ下)
  うまく寝し片へら町や盆の月     温古
  宿とりて瀬田見にゆくや月の昼    松涛
  鴫立てゆふ月残る沢辺哉       三木(上ノ)
  稲刈たあとに寝て居るかかし哉    花月
  初しほや藻葉うち掛る岡の松     一清(宮ノ下)
  ゆふ暮や雨の紅葉に来る小島     川南
  底澄のして秋のたつ流哉       雲椎
  塩がまのけぶりもくるし秋の暮    〃
  呼かけた人に用なし秋の暮      枝丈
  音のみを毎夜しぐるる大河哉     角丸
  時雨るや早暮れかかる山なだれ    〃
  思ふより日和続くや神の留主     川南
  うらおもて見せてちらちら散る木の葉 雲椎
  掃くあとへ風の来て待つ落葉哉    春月(モリ)
  御達者といはれて過る頭巾哉     枝丈
  大霜や片山里の朝ぼらけ       聞岱(下三谷)
  里ありとみゆる煙や雪の山      雲椎
  寒月や釣瓶ふり込む井の谺      一眠
  転さうな家の軒ばに梅の花      温古
  角力とりになる子と誉て印池打    蝸牛
  風の道すこし声よき雲雀哉      枝丈
  須磨明石大としの灯の往来哉     嘉扇
  鴬の里へ出て来る天気哉       雲椎
  親子して凧揚て居る在所哉      〃
  船に積む俵揃ふて百ちどり      扇丸
  よき株に折へして有野梅哉      雲椎
  きじの鳴谷や 暖い日寒い風     杖丈
  梅さくや古御祓をかけし枝      蓼村
  散る花も一ひら宛の真昼哉      枝丈
  きくの花子は赤いのを望みけり    〃
  朝の間にけしの散あふ日和哉     蝸牛
  初松魚医者の門口這入たり      角丸
  散てある桜は鯛の鱗かな       扇丸
  木下闇 梟の啼真昼哉        蝸牛
  古井戸や草の中なる燕子花      其祥(下三谷)
  舟の灯に袖をかざせる寒さ哉       涼志(ヤクラ)
  花に啼く鳥拝るるあさ日哉        雲椎
  千鳥啼く夜はぬけたりとおぼろ月     蓼村
  増すやうに思ふ日もある残暑哉      柿遊
  汲むほどの鮎を肴や瓢酒         蝸牛
  尼寺の案内よぼふて水鶏きく       温古
  よき景の雨にあひけり椎ひらひ      月好
  暑き日や水際にまで下る蛙        蝸牛
  旅人に道ををしへて 山桜        麦遊(宮野下)
  朝がお(白にハ)や月も幽かに花のうへ  枝丈
  大空の澄きる桐のさかり哉        月海
  漁多き浦のさはぎや霞む中        技丈
  方角のしれぬ木の間や閑古鳥       〃
  芝土手やひらく弁当も花吹雪       蓼村

 『雪のあけぼの』の序文は聴雨(陶惟貞)、選は一爐庵(仲田蓼村)であり、伊予地区全域の俳人及び俳界の当時の状況をうかがう重要句集である。このころの蓼村・角丸ら郡中地区俳人の活躍は目ざましく各地の句会に参加し、寺社奉納俳句運座に加わり、『窓明集』(月坡編、嘉永元年=一八四八年)、『よひの夢』(雲平序、風阿還暦賀集)など各地から刊行される俳書に採録されるようになった。
 一八六〇(万延元)年三津の四時園大原其戎(一八一三~一八九九)が芭蕉の「しぐるや田のあら株のくろむほど」を立句とし、京阪の俳人に依頼して「脇起」の連句一順を請い、内海淡節(一八一〇~一八七四)の序文を得て、伊予及び諸国俳人の句を集め『あら株集』を出した。当地からも多くの俳人が参加した。

  乞食等も元日めかすけぶり哉      芦勘 郡中
  元日や軒の雀も賑はしき        烏雪 同(うせつ)
  はつ空を鳴わたりけり余所鴉      梅居 同
  野に山に人声みちる子の日哉      寿交 ウエノ
  梅の花鈴の緒かへて手折りけり     吐翠 郡中
  若艸や日ごとにふえる鳥の影      寿水 ミタニ
  のどかさや思はず袖に鶴の糞      角丸 郡中
  矢中の尻声長し夕がすみ        一楽 同
  帆にはらむ風さらになし夕霞      一蕉 同
  さし足で聞鴬や垣の外         馬扇 同
  おしわけて出舟見送る柳哉       波笑 同
  川明の触いさましやきしの声      柿遊 イナリ
  聞ずてにならぬ噂やはつ桜       玉川 大平
  濡色のよき山吹や朝の雨        梅里 ミタニ
  あはせ着て歩行てくるや一縄手     一雅 上ノ
  野は晴れてあけぼのうつる牡丹哉    笠谷 イナリ 
  著莪咲くや下手にいたる石の陰 我   烏暁 ウエノ(うぎょう)
  まだ残る花もありけりほととぎす    一蕉 郡中
  一声は余所の空なりほととぎす     玉川 大平
  画心もあるか牡丹に長居する      馬翁 郡中
  立枯の木のさびしさよ閑古鳥      梅里 ミタニ
  藪かげや見えぬ鵜舟の火の移り     蓼勘 郡中
  植てのく田にはやわたるあらし哉    寿水 ミタニ
  まがるたび薫る風あり九折       柿遊 イナリ
  工夫する芦の柴舟や夕納涼       一楽 郡中
  寝過して拝む日あしや雲の峰      吐翠 同
  明て行空に声あり不二詣        梅居 同
  潮の干るあとへ流るる清水哉      角丸 同 
  掌に苔の香のこる清水哉        烏雪 同
  暮たれば秋のさま也御祓川       波笑 同
  初秋やこころみに掘る芋の出来     玉川 大平
  底澄のして秋の立流れ哉        一蕉 郡中
  月影を持て落るや桐ひとは       一楽 同
  艸の露軽くのぼりてこぼれけり     寿水 ミタニ
  寝るまでもわすれぬ秋の夕哉      花暁 ウエノ
  鐘の音も消るやう也薄吹        吐翠 郡中
  鹿鳴やつれて来た子の去いそぎ     芦勘 同
  意入て門掃く寺や秋の暮        馬扇 同
  鳴に出る道も山なり朝の鹿       笠谷 イナリ
  吹くほどの風の音なしいと薄      梅居 郡中
  藪に夜を残して立や稲すずめ      柿遊 イナリ
  灯の見ゆる家に更行砧かな       烏遊 郡中(うせつ)
  こぼれ籾拾ふも天の明りかな      角丸 同
  朝がお(白に八)もたしなくなりぬ露時雨  梅里 ミタニ
  軒庭もふところ広し冬牡丹       同
  飼鳩の別れてもどる時雨哉       一楽 郡中
  岬の灯のさびしくみゆる時雨哉     一蕉 同
  しぐるるや軒につりたる種茄子     玉川 大平
  鍋洗ふ音いさましき時雨哉       芦勘 郡中
  旭のさせばうごくやう也雲の山     寿水 ミタニ
  背のびして猫の出て行炬燵哉      柿遊 イナリ
  風に散るばかりでもなき木の葉哉    馬扇 郡中
  落葉にも風のはなれぬ山路哉      其鶴 イナリ
  腰のして城も見きりつ大根曳      吐翠 郡中
  掃仕舞あとや落葉のひとしきり     波笑 同
  住居してみたき小島や鳴子鳥      馬扇 郡中
  打かへす波にもとしの名残哉      梅居 同
  垣結ふて春をとなりの浅茅哉      角丸 同

 一八六一(文久元)年五月、波同が再度刊行した『逐波集』(上下二巻)に次の句がある。

  掃除して人なき家や梅の花       木きゅう
  きじなくや雨にもならず消る雲     柿遊
  腰をして休むに清き落葉哉       蓼村
  白蓮にむけて居るや朝の膳       木きゅう

 明治時代初期、伊予俳壇は奥平鴬居・大原其戒らの指導と蓼村没後の角丸・木きゅう・惟貞らの先達を中心に隆盛を極め、各地に頻繁に句座がもたれた。また、「俳句相撲」なども行われて一般庶民に広く浸透した。
 一八七二(明治五)年陶惟貞が、小冊子『壬申発句嚢』に四季おりおりの感懐を詠んでいる(伊豫史談会蔵)。

    こくこくと黄昏やすし春の陰
    余念なく居るうの花に入日哉
    ねむたくて寝る気にならず雛の前
    此雨に何処を行衛ぞ子規
    山吹にほどよし藪のかげり雨
    よく見へてかぞへるほどやちる牡丹
    友一人ふたり沙汰して後の月
  十三夜
    又鰯とれるさわきやのちの月
    山畑や梅のおそ咲見て通る
    おとといもけふも出てあり雲の峰
    目に見ゆるもの皆すずし雨上り
    打水や木ことに葉風つくりけり

 一八八〇(明治一三)年其戎が「明栄社」を創立し、一月一二日全国俳誌の嚆矢ともいうべき「真砂のしらべ」を創刊した。次いで翌一八八一(明治一四)年『おいまつ集』(其戎古稀賀集)を出した。山下清風(武知五友)は「ことのはのみちもよはひもいにしへにまれなるきみにいまもまれなる」と祝歌を贈った。『おいまつ集』の中にも市内の俳人の句が多く載っている。

  帆を丸う請てしづかや春の風    桃翠(吾川)
  うぐひすや朝な朝なの面白さ    角丸(郡中)
  仙人のすみ家たづねん桃の花    二遊(イナリ)
  鶴かめの齢ひ久しや松のうち    湖鳥(本郡)
  明栄や老ても矢張わかゑびす    茂松(本郡)
  葉の色に知銀杏の実いりかな    亀石(尾崎)
  永き日に朝よ(夜)さの苦を忘れけり 有楽(三谷)
  連理なす玉藻のうへに浮巣哉    政芳(郡中)
  蓬来の松にも千代のみどり哉    亀泉(三島)
  舞鶴を亀の見揚る小はるかな    雪久(同)
  唐崎の松さへ殊にわかみどり    鴬桜(上野)

 一八八一(明治一四)年六月一八日、奥平鴬居が「愛比売新報附録」『俳諧花の曙』を創刊した。伊予地区からも多数の俳人が参加した。木きゅう、桃夭、角丸が当地から選者補助に選ばれた。俳句を嗜む人は益々多くなり、松前・砥部・中山地方との俳人の交流も盛んに行われ、郡中及びその周辺の俳壇は一層充実し興隆した。
 一八八二(明治一五)年宮内木きゅうは、『郡中八景御歌集』の中に郡中八景を次のように詠んでいる。

  南山積雪   つみたして年をむかふや峯の雪
  米湊鳴蛙   老たれば宵々うれし啼く蛙
  谷上午鐘   鐘の声まだ見ぬ花のにおいかな
  稲荷翠嵐   拍手をうつやそよそよ青あらし
  紫海夕照   とび魚のささ浪たてて暮すずし
  万安夜泊   笛の音はいづれの里ぞ月今宵
  湊浦漁戸   誘引出るふねつらなりて秋の風
  住吉松雨   すみよしの松養ふや初時雨

 豊川渉(号を歩水という)も郡中八景を次のように詠んでいる。

  南山積雪   日のさしてすかすかしさよ雪の山
  米湊鳴蛙   雨あめと鳴くや水田の群蛙
  谷上午鐘   あの鐘ははや入相か花の宴
  稲荷翠嵐   青田吹く嵐に露のちりにけり
  紫海夕陽   日は入りて空のかがやく秋の海
  万安夜泊   明月やつなぐ船にもすすき見ゆ
  湊浦漁戸   秋風や浦家まちかくいわしよる
  住吉松雨   神苑や松をななめに時雨けり

 矯風会
 森田雷死久が唐川本谷の真成寺にいたとき、地域の人々に俳句を指導した。この集まりを矯風会と呼称した。一九〇一(明治三四)年当時の会員は第197表のとおりである(下唐川兼岡久一蔵)。
 このほかに、楠香・大根・長谷・破舟郎・松月・花月庵らがいた。
 第二四回矯風会俳句の中からひろってみると、次のとおりである。

    深草に青梅落ちて雨しとど    零 子
    青梅や小家の裏の通り路     唐 村
    豆畑に桐の花ちる朝の雨     両 谷
    青梅の落ちてころがる石畳    白點口
  人 巣立する鶯の子や梅黄ばむ    唐 陽
  地 桐さくや古き古塀も長者ぶり   唐 陽
  天 鉢植の梅の一つが黄ばみけり   鈍斧子(柳月の別名)

 このときの選者雷死久の句は次のとおりである。

  衣更へてその夜八幡のほととぎす

 一九〇〇(明治三三)年旧八月一一日の矯風会第二一回句会は俳句相撲を行った。これはおもしろい試みであった。これには雷死久が一つ一つ評を加えている。

    先生の葬式の家や菊の花   唐 溪
  天 柿おおき家四五軒の在所かな 柳 月
  前句わけもわからず、後句山家の実景写して妙なり、後句勝ち。
  地 寺に隣る小さき家や鳴子引く 盗 臍
    柿かつぎ小家にもどる男かな 馬 人
  後句何の意味もなし、前句欠点なしなかなかの上出来なり。前句勝ち。
   処処に太鼓はるなり里まつり 唐 陽
   隣村の太鼓聞ゆる里まつり  砥宮生
  処処がよろしからず「村村に太鼓なるなる秋まつり」とすべし。後句隣
 村とは大いに動あり、終わりの五字を「祭かな」とすべし。双方大小のき
 ずはあれど、先ず上出来の方なり、勝は比較して後句にあり。

 なお、唐川には矯風会のほかにもう一つ長楽社という俳句の会があった。森田鶯痴(雷死久の別号)が選評した。会員は矯風会の人々が多かった。次に先に掲げた以外の人を載せる。

    ふすぼれた顔のならびて榾火かな   石 原
    父親の来りて手伝ふや雪まるめ    梅 遊
    里に出て狐のなくや冬の月      鳳 月
    大空に白けて高し冬の月       月 庵
    雪こかすたびに来てなく雀かな    花月庵
  天 番兵の営内守るや冬の月       砥宮生
  地 百年も消へぬつもりの雪まるめ    鳳 月
  人 布団干して動かす山家の榾火かな   春 日
  副章 やぶ打った人とも見えぬ榾の主   鶯 痴

 山田十雨 
 通称は藤治郎、十雨と号した。一八八二(明治一五)年一一月、伊予市上吾川向井原に生まれ栄町で理容業を営んだ。少年時代向学心に燃え、一六歳のとき俳句に感銘して、こつこつと俳道に励んだ。二六歳のとき道後の花の本豊臣庵水下静楽を師として俳句を学び、五穀豊じょうにあやかって五風庵十雨と号した。六〇歳のとき日本俳句宗家観音寺市の一夜庵中興二世自然窟座右宗匠の門下に加えられ、立机を許された。
 一九三七(昭和一二)年八月、稲荷神社の拝殿に、十雨が選者となって「五風庵十雨宗匠立机記念句輯」の奉納額をあげている。一九四二(昭和一七)年に四国八十八か所巡拝の際、雲辺寺で詠んだ「雷鳥や下界は人の住む処」が、句碑に刻まれて五色浜公園にある。次に十雨の句を掲げてみる。

  肩に手に鳩平和なり神の春
  一系の君やこの国このさくら
  温めつぬくめつ雪の親子鳥
  静かさや残る一葉に風さそふ

 七四歳病気で倒れるまでに一万句を詠んでいる。一九六〇(昭和三五)年一月七八歳で没した。
 江戸時代末期から明治時代中期ころまで盛んであった俳句も、正岡子規が俳諧の革新をはかって、いわゆる新しい俳句が唱えられるようになってから、伊予市の俳句は段々衰えていったようである。

 近代における俳人 
 大正時代中期ころまで伊予市における俳諧は振るわなかったが、大正時代末期から再び盛んになって、句会が開かれるようになった。

 篠崎活東 
 本名を梶三郎といい、一八九八(明治三一)年一月二一日、伊予郡松前町横田に生まれた。活東の父は出生前に既にこの世にはなかった。母と姉二人の四人家族で満たされない幼時をすごした。のちに母の生家に近い郡中村上吾川に転居して、松本小学校を卒業した。郡中村役場に勤め、一九四〇(昭和一五)年に郡中町と合併してからは、郡中町役場に引き続き勤務した。一九五八(昭和三三)年一月一三日に亡くなった。
 俳歴としては、当初は暁光と号して大正八、九年ころから、地元の句会に出席したり、各地を散策して句作に精進した。
 残された記録によって句作の道をたどってみると、先ず初めは「初蛙」選者は水陰で、

  天 月を後ろに人歩み居る枯野かな
  地 草の根に魚の卵や春の水
  人 子守唄泣きやまぬ児に雪となる

 一九二〇(大正九)年一二月「判者」選者は明鏡で一位をとった句、

  贈位ある志士の碑石や帰り花

 一九二二(大正一一)年熊野山石手寺永代奉納俳句会において、選者は野間叟柳であった。

  天 篝火焚いて花に酒くむ法師かな

 一九二三(大正一二)年ころから「雲母」へ投句し始めて飯田蛇笏に師事するようになった。このころから、号を「活東」と称し、一九三四(昭和九)年にこれまでの発表句から、六八句を自選して今治の広瀬霜平の厚意により、句集「真葛」を出した。
 一九四三(昭和一八)年ころまで「雲母」同人として精進してきたが、このころから調子が出なくなったのか記録がない。
 戦後、一九四九(昭和二四)年ころから、山口誓子の「天狼」にうつって、同志とともに「光炎」発行にあたった。「天狼」「炎昼」に数多くの句を出しているが、一九五八(昭和三三)年三月一日発行の「炎昼」3に「篠崎活東追悼号」と題して活東の作品抄が載せられている。そのうちの代表句を、いくつか掲げてみる。

  虎杖の酸滝水のしろと落つ(天狼)
  父の硝子写真春昼にも暗し(天狼)
  田を植え女体を濡らしつづくなり(天狼)
  水田あり水田あり夜のゆききなし(天狼)

 松尾晴雄 
 一九〇七(明治四〇)年灘町二丁目に生まれた。旅館業を営んでいたが、松山商業高等学校を卒業後郡中信用金庫に勤め、早くから俳句に親しんでいた。
 一九四六(昭和二一)年六月三〇日、篠崎活東ら郡中の俳句同人会で、俳誌「光炎」の創刊号を出してから、一九五四(昭和二九)年四月、光炎第六七号で終わりを告げるまで、松尾晴雄がガリ版刷りで小冊子にまとめ、全員に配布していた。この冊子は全巻今も藤井健夫が所蔵している。この句集には次の人々の句が載っている。
 藤井健三 徳本英一 本田和美 川田勇 高橋葩城 浪花花浪 向井麦生 黒田玄鳥  松井聚星 丸田南天朗 水野勝 宮内甲一路 鈴木俳月 宮内明日人 黒木糸柳 谷崎弘章 北村諄吉 神東朴星 河野晴子 影浦浩星 近藤律子 合田きよし 上西翠黛 渡辺昌洪 高須賀清一 宮脇信路 川吾まさる 松岡春林 藤谷紫鳥 大元天岳 森岡青湖 松田一紅 田中春草女 原田常清 和田阿由 松田隆 大西秀峰 向井昇雨 松尾晴雄(昭和二三年まで以下略)
 発足当時はわずか一四人ばかりであったが、回を重ねるごとに会員が増して盛況であった。「光炎」時代の松尾晴雄は四〇〇句を出している。その中から数句をひろってみる。
 光炎の第一号に次の句がある。

  夜の雨や新樹はるりとなりまさる

 以下は代表的なものを掲げる。

  松影を砂丘にふみし春の昼
  寒柝のひびきは手もてひびかする
  太白の花咲くずれ雨そそぐ
  雪嶺がそばだち潮ざいやむことなし

 松尾晴雄は、やがて玉貫寛(松山市の医師)らの出している「炎昼」に席を移すことになった。篠崎活東とともにここでも編集や雑務一切を引き受けた。松尾は平素糖尿病と高血圧をわずらっていたが、遂に脳卒中で倒れた。一九六六(昭和四一)年一〇月号の「炎昼」は松尾晴雄の追悼号として、平素親交のあった藤井未萌が、「松尾晴雄句集」を掲載している。

   遺  稿
  疾風雲泰山木は花かかげ
  陸ふかく潮入りくる地蔵盆
  夜行車の天井扇の振りそろはず
  手を挙げて晩夏の別れ人の流れ

 天野しげ(のぎへんに農)文
 一八九六(明治二九)年一一月に生まれ一九六七(昭和四二)年一月三〇日七一歳で没した。一九三七(昭和一二)年ころまで伊予郡内の小学校で教員をしたのち、京都醍醐寺の執事となり、二〇年の僧院生活をしていたが、晩年郷里に帰って没した。
 しげ文は号を玄空といい、教員生活の間にも句作に熱中し、市内の同人と集まっては研さんに余念がなかった。篠崎活東のすすめによって、句集「雲母」に投句するようになった。一九五九(昭和三四)年一月号をもって、五〇〇号記念にあたるので、誌友として二五年以上の経歴をもつ人々の中から、俳句業績その他の点を考えて、三五人を表彰している。その表彰三五作家の句集「郭公」の中に玄空の句が四七載っている。そのうちから五句を次に掲げる。

  麦苗やかくて少年老いやすく
  ひるは日影夜は月の影青芭蕉
  まつかぜのひびくばかりの寺障子
  あさかぜに夕かぜに芒枯れにけり
  霊の湯をでて寒日のおもはゆく

 この句集に、もうひとりの銀杏通りの本田一美の句が四七載っている。

 門田一貴 
 名は一で一貴は俳号である。一九〇九(明治四二)年二月二二日に砥部町原町に生まれ、一九六八(昭和四三)年七月二七日に五九歳で病没した。一九五五(昭和三〇)年に伊予市に移って、父の経営する石油販売会社を継いだ。一九三四(昭和九)年ころから原町俳壇の中心として活躍していた。一貴は多芸の人で浄るり・舞踊・魚釣りなど、くろうとはだしの達者なものであった。晩年は狸に興味をもち、百態の陶狸の収集をしたり、自らも陶狸の製作をし、百二、三〇個に及んだ。また、俳画もよくした。
 一貴は「糸瓜」同人として、森薫花壇に師事した(一九六八(昭和四三)年一一月一日発行「糸瓜」)。
 一貴の遺作集に「待宵草」「蓼の花」「無題」「俳画」がある(灘町門田家蔵)。
 「蓼の花」には、一九五三(昭和二八)年一月から富安風生選松の花雑詠並びに森薫花壇選の松の花集の選句の内一〇〇句を選んでまとめたと前書きをしている。その中から五句を掲げる。

  句碑刻む庭をのぞかれあたたかし
  一匹の春蚊を憎み病みにけり
  梅雨寒の舟宿暗き灯をともす
  河鹿きく夜ぎりに髪をぬらしけり
  秋風の吹けばかなしき母の咳

 なお、一貴の句碑として次のものがある。

  市内銀杏通りの銀杏の木の下に   狸名はおさんと呼ばれ月おぼろ
  稲荷神社荷内の藤棚の下に     神代なる樹齢をいまに藤芽ぶく
  市内灘町の自宅内に        秋風や昨日のごとくひとりいて

 藤井健三 
 一九一二(大正元)年菊間町林家に生まれ、一九四八(昭和二三)年藤井内科医院を継いだ。一九七八(昭和五三)年五月一〇日病気のため死去、六七歳であった。
 一九四九(昭和二四)年未萌と号し、俳句をこころざし、一九五五(昭和三〇)年「炎昼」の編集をはじめて一九七一(昭和四六年迄、夜なべ仕事として熱心に従事した。また俳句仲間と深夜まで討論することもしばしばであった。一九六一(昭和三六)年伊予市民俳句の指導者となり一九七七(昭和五二)年末まで続け、市内老若の人たちに山口誓子俳句を広げる努力を惜しまなかった。一九六二(昭和三七)年には「天狼」同人となり、一九六三(昭和三八)年愛媛新聞俳壇選者となり、一九六七(昭和四二)年までその責任を果たした。一九七七(昭和五二)年冬天狼の会に出席し、帰途脚を骨折して闘病生活にはいった。その間俳論「現代俳句の観照」「続現代俳句の観照」を刊行したり、中央・地方の俳句の大会には講演をするなど、現代俳句振興のため活躍した。
 旅が好きで玉貫寛とよく旅に出た。県内にはもちろん京都・奈良・飛騨など各地を訪ねて作句している。

  百済仏千年伸べし手は涼し
  天に立つ鉾神々の雲の峰
  雲の峰無数の拳せり上げる
  手を振って枯野にバスをひき止める
  飛騨の溪碧き水溜め紅葉溜め
  林檎とり尽して去るを日照らす
  花吹雪外面女菩薩酔ひ給へ
  流木に松葉を添えて浜焚火
  金魚眠るいのち一途の去年今年
  生きて立つ西に真向う真正面

 稲荷神社の俳句奉納額 
 伊予市稲荷の稲荷神社には次のような数多くの俳句奉納額があがっている。
 一七九〇(寛政二)年九月、蝶蝶庵を選者とし錦江、其暁、巴山、和扇、百文らが世話人となっている。中殿の西の間にあり、一番古いものである。
 一八三四(天保五)年のものは全く字がよめない。拝殿にある。
 一八四六(弘化三)年のは宗匠無事庵岱年と肩をならべて蓼村が追吟しているもので、一芭・松涛・嘉扇らが世話したものである。蓼村の句「しら露や横の方より野の日の出」というのがある。拝殿の天井にかかっている。
 一八五六(安政三)年二月の奉納額は絵馬殿にかかげてある。
 一八五七(安政四)年九月の奉納額は、蓼村が選者となっている。句がはっきりとわからないのは残念である。
 一八六〇(万延元)年九月の殿町社中の奉納額に蓼村の句「此のあたり鳥も見かけず花すすき」がある。
 一八八一(明治一四)年一〇月のものは、四時園其戎の選になるもので拝殿の東天井にかかっている。
 一九一四(大正三)年四月のものは、梅守庵水月の選になるもので拝殿にかかっている。
 一九二一(大正一〇)年六月のものは大蕉庵十湖の選で、西岡清山、長尾守屋、西村一山が世話人として中殿の西の間にかかっている。これはただ一つの紙に書いた奉納額である。
 一九三七(昭和一二)年八月のものは、山田十雨の選による「五風庵十雨宗匠立机記念輯」の奉納額で、拝殿階段下のさい銭箱の上に掲げてある。
 これらの奉納額のどれにも、当時の伊予市内の人々の俳句がたくさん載っていて、時代の変遷と俳句の関係がわかり、興味をそそられる。

第197表 矯風会名簿

第197表 矯風会名簿