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伊予市誌

第三章 文化財

 文化財は、われわれ先祖の文化的遺産であり、長い歴史と自然の構成した記念物である。現在、伊予市内には県指定七点、市指定六五点の文化財があるが、これらは県及び市文化財保護条例により、特に重要なものとして指定され、保護されている。古い歴史をもつ伊予市には、この他にも未指定、未発見の文化的価値の高いものが数多くあると思われる。
 ここに掲げる伊予市の文化財は、現在までに指定されたものである(「伊豫市の文化財」伊予市教育委員会)。

 県指定 伊予岡古墳 
 伊予市上吾川のなだらかな扇状地の位する八幡神社社殿を中心に囲んで群在する古墳で、その数は社殿の周囲に八個あるが内一個は半壊している。それらのうち南西部を占めている二基は前方後円墳で、その一つは月陵と呼ばれる。このほかにも同型と思われるものもあるが、社殿建造などのために、原型をかなりくずしている。しかし、神社の境内にあるため一七五アールの本古墳群は第301図のように、よく茂った樹木におおわれて美観を呈している。
 一九四八(昭和二三)年一〇月二八日に史跡の県指定を受けた。

 大ソテツ 
 伊予市大平梶畑の畑地の中にあって、岡市勇の所有である。根回り九m・高さ一〇mに達する大小の樹幹二〇数本がいっしょになってはえている。樹勢は最近急に衰えを見せてきている。
 一九五〇(昭和二五)年一〇月一〇日、天然記念物の県指定を受けた。

 扶桑木 
 伊予市森大谷海岸約一、八〇〇mにわたり、地質学上第三紀層に属する粘土質岩が露出して断崖をしており、この地層には極めて多くの埋もれ木が見られる。これはメタセコイヤ・トガサワラ・オホバラモミなどの古代植物の遺体であってこれを古来扶桑木と呼んでいる。一九五六(昭和三一)年一一月三日、天然記念物の県指定を受けた。

 石造層塔 
 伊予市大平曾根にあって、玉井ミチルの所有である。一九五五(昭和三〇)年一一月四日、有形文化財の県指定を受けた。詳しいことは本誌の「美術・工芸」の項に記載している。

 経筒 
 伊予市大平小野の児玉秀男が所蔵している。一一五〇(久安六)年のもので、伊予出土在銘のものとしては最古のものである(美術・工芸編参照)。
 一九六五(昭和四〇)年四月二〇日、考古学資料の県指定を受けた。

 かわらがはなかま跡 
 伊予市市場向井原にあり、小西晴義所有である。第303図~第305図のようにかまは自然の傾斜地を利用したのぼりがまで、全長約七m、燃焼室と焼成室、煙道部とからなり、燃焼室の奥行は一五〇㎝・幅一三二㎝・天井までの高さ一五〇㎝である。焼成室は四二~四八度の傾斜に八~一三段の段階がつけられ、段の長さは一号がまで一段目が一五五㎝、八段目が七五㎝で隧道型をしており、かまの内部の高さは八〇㎝がでかまじりにゆくにしたがって狭く八段目の内部の高さは五一㎝である。現在三つのかま跡が発掘されているが、この並びに一三か所のかま跡らしいものがある。出土遺物は八世紀中ごろと思われる重弧文の軒瓦が多く出土している。
 一九六八(昭和四三)年三月八日、史跡の県指定を受けた。

 稲荷神社楼門 
 伊予市稲荷地中にある。
 伊予市誌「美術・工芸」編に記述している。
 一九六九(昭和四四)年二月一二日、建造物の県指定を受けた。

 市指定 ソテツ 
 伊予市三秋西願寺にある。根回り五m・高さ五・五mのものが、山門前に二株・境内に六株合わせて八株の群生雌株である。樹齢は五〇〇~六〇〇年といわれ、群生しているものでは他に類を見ない。これらは老成しているが、なお樹勢は盛んである。
 一九六〇(昭和三五)年八月一日、天然記念物の市指定を受けた。

 フジ 
 伊豫稲荷神社の境内にあって、第306図に見るように根回りは一・九mのものが最大で、次は根回り一・二mで、根のところから三本に分かれている。三本がよく手入れされ地上二m余りのところから五〇平方mの広さに広がっている。いずれも枝は右まきしているので「ノダフジ」である。満開時には参拝客の眼を楽しませている。
 このノダフジは約二七〇年前、徳川家宣のとき、一七一五(正徳五)年に神官高市盛正が京から由緒ある藤を持ち帰って植えた。
 その後一七二八(享保一三)年初めて神事として藤市が行われ、それから年々盛んになったことが、「稲荷神社藤市請引覚」(第307図)で知ることができる。「二月二七日より、稲荷社藤御神事市御願申上げ、人形芝居晴天七日御免仰せ付けられ、御検使方諸入用蝋燭云云」と記されている。このように藤市の開かれた七日間には、歌舞伎・相撲・人形芝居などが盛大に興行され、多くの見物客でにぎわった。一七九五(寛政七)年ころの藤の大きさは、三間(五・四m)に一八間(三二・四m」社地内にあると、社改帳に記載されていることから、現在のものより更に大きく見事であった。その後火災で焼却した絵馬殿の再建のとき、一部切除されて、現在のようになったという。明治時代以降茶会などが催されて、人々に親しまれた。俳人前田伍健の「藤の下人美しき茶会かな」の句は有名である。
 一九六〇(昭和三五)年八月一日、天然記念物の市指定を受けた。

 ツバキ 
 伊予市唐川馬場の旧街道の道端にあって、徳野恵志所有である。根回り二m・高さ八m余りの巨樹である。主幹が地上三mのところで切られ、大きな枝が五、六本出て盆栽のようでおもしろい。昔、松前方面の人たちが草刈りやたきぎ取りに来て、ここをツバキ坂と呼んでいた。花の盛りは美観を呈している。
 一九六〇(昭和三五)年八月一日、天然記念物として市指定を受けた。

 藤三ツバキ
 上唐川長崎谷にあって、吉澤藤三郎所有である。根回り一・二m、高さ八mある。花は花弁一〇枚の半八重咲きで、花径一一㎝の大輪である。淡紅色の地に自覆輪の花が最も多い。他の枝に紅のしぼり・金紅色・紅の唐子花と四通りの花が咲く。四月下旬が見ごろである。樹齢は約三〇〇年といわれている。一九七七(昭和五二)年二月一九日、天然記念物の市指定を受けた。

 シュテンドウジ 
 上記藤三ツバキのすぐ西側にあって、根回り一・七m、高さ一〇mに達する大樹である。花は花弁二三枚の八重咲きで花径一五㎝の大輪で、紅色一色のれんげ咲きである。
 一九七七(昭和五二)年二月一九日、天然記念物の市指定を受けた(第308図)。

 ナギ 
 伊予市上吾川六反の庵寺にあって、直径六五㎝、高さ九m余り、樹勢はますます盛んである。木はマキ科の植物で、葉は多数の平行脈があり、脈の方向に引っぱったのでは切れないので、チカラシバまたはベンケイナカセの別名がある。
 一九六五(昭和四〇)年四月一日、天然記念物の市指定を受けた。

 古墳 
 伊予市尾崎天神下にあって、県指定の伊豫岡古墳と同じ形で横穴式石室をもつ円墳である。
 大正年間、土を採取するために外形が削られ、高さ二・六五m、さしわたし九mの封土を持つに過ぎないが、内部はほぼ完全な形で残されている。入口は南西に向き奥壁まで約二mで、直径一〇㎝位のくり石で壁面をつくり、天井は安山岩の柱状石で造られている。出土品は散失しているが祝部式土器が二個あったという。
 一九六〇(昭和三五)年八月一日、史跡として市指定を受けた。

 猪の窪古墳 
 宮下にあって、一九八〇(昭和五五)年八月に発掘した円墳である。高さ一二m、直径一八mの墳丘には、大小の緑色片岩で作られた縦一・七m、横と深さ〇・五mの石棺があり、竪穴式古墳である。四~五世紀ごろの古墳と推定される。石棺内には、朱を施した完全に近い男性の人骨二体が横たわり、一体は大人、他の一体は少年らしく追葬された形であった。横には両刃鉄剣と小刀があった。そのほか棺の外からは、鍬・鎌・鉄斧・鉄鏃・ピンセット様の鉄器類が副葬品として出土した。
 一九八四(昭和五九)年一二月二六日、史跡として市指定を受けた。

 馬場五輪塔 
 下唐川馬場にあって、大森フデ子所有である。鎌倉時代中期以前の作品といわれるが、銘はない。地元では森山大膳の供養塔であると言い伝えている。高さ二・一四mで、雅味のある堂々とした姿をしている。石質はこの地方の安山岩である。
 これと並んで第309図のように、高さ一・五mの宝筐印塔が一基ある。相輪七輪・露盤四段・格狭間三面の、美術的・歴史的にも価値の高いものである。
 一九八四(昭和五九)年一二月二六日、石造美術として伊予市文化財の指定を受けた。

 今岡御所 
 伊予市宮下伊曽能神社に合祀して吹上神社といっている。
 昔は茶臼山の丘の上にあって伊豫皇子の御陵と伝えられ、彦狭島命、大小市命を祭る今岡神社があった。
 大洲旧記によると、伊予の豪族河野氏の遠祖孝霊天皇の皇子彦狭島命(伊予親王)が居住され、その崩御の地といわれている。ここは弥生時代の住居地で土器片・石包丁・石斧など多くの出土品を見ることができる。一九六三(昭和三八)年改池小路によって全壊してしまった(第310図)。
 一九六〇(昭和三五)年八月一日、史跡として市の指定を受けた。

 庄屋文書 
 伊予市上野玉井達夫の家には江戸時代に大洲藩領であった当時の庄屋文書が多数保存されている。これらの文書は当時の農村の状況を知るうえにも、また庶民史を研究するためにも貴重な史料である。
 一九七二(昭和四七)年三月には、文部省史料館に所蔵されることになった約二、〇〇〇点の「伊予国伊予郡上野村玉井家文書目録」がつくられた。これを見ると、次のように分類されている。

  支  配 幕法・触書―郡中法度・御請書・回状・布告など
  土  地 検地・高書上・荒地・新開・池床改林野・移動
  貢  祖 免定・検見・減免・割付・取立・年貢納入・過未進・蔵米・年貢勘定・諸夫役・地租改正
    村  村政・村入用―年行司座入用・替地入用・村家入用・銀米入用・祈祷入用
  戸  口 家数と人数・五人組・宗門改・戸籍移動―宗門送手形留・宗門請合手形・村送り手形・宗門請取証文
  治  安 治安・変化
  災  害 風水害・地震・出火
  救  恤 御囲籾―(割付、取立、貸付帳)・難渋者―(書上・御救銀米)
  土木普請 御普請・川普請・用水・池普請・作事―(家普請・橋)
  金融貸借 頼母子講・拝借銀米・拝借種子―(籾・麦)
  産  物 植付取調べ・蝋改め・すくす札
  寺  社 寺社改め・檀寺―(寺入用・普請入用)・氏神―(伊予神社・手間天神宮・その他)・勧化―(金毘羅山・高野山・嵯峨御所・太山寺・出雲大社・その他) 御初穂―(伊勢神宮・八幡宮)・遍路

 所蔵の主な古文書には次のようなものがある。

  一、上野村池之覚書  寛延四年(一七五一年)
  一、村村田畑古用帳  宝暦五年(一七五五年)
  一、入合山一件書写  天明三年(一七八三年)
  一、殿様御巡領諸控  寛政七年(一七九五年)
  一、殿様御巡領旅日記 安政七年(一八六〇年)
  一、保国隊諸控    慶応四年(一八六八年)
  一、里正順席帳    明治二年(一八六九年)

 そのほかに衣類御法度御触状写し、玉井家の家法、砥部騒動に関する一件記録などがある。一九六〇(昭和三五)年八月一日、古文書の市指定を受けた。

 赤坂泉文書 
 伊予市八倉赤坂泉総代が保管していたが、現在伊予市立図書館資料室で保管している。灌がい水利慣行に関するもので、この文書は一七九四(寛政六)年、八倉に赤坂泉を作った当時からの水の利用配分についての次のような諸記録や用水利用に関しての紛争面倒の一件記録などが保管されている。

   一、市井手諸控写        寛政年間
   一、定書御普請奉行       寛政一〇年(一七九八年)
   一、柳股水口面倒一件掛合日記  文政六年(一八二三年)
   一、柳股上り児井手並高関面倒帳 天保三年(一八三二年)
   一、市之井手番水日記      嘉永六年(一八五三年)
   一、市之井手番水掛合日記    慶応三年(一八六七年)
 一九六〇(昭和三五)年八月一日、古文書の市指定となる。

 庄屋文書 
 伊予市上吾川宮内政美の家に、大洲藩領であった当時の庄屋文書が数多く保管されている。主な文書としては次のようなものがある。

   一、検地帳   一、各種御触書写
   一、池掛り帳  一、宗門人別帳
   一、土免目録  一、村罰

 一九六〇(昭和三五)年八月一日、古文書の市指定を受けた。

 称名寺文書 
 伊予市上吾川称名寺に所蔵してある。この文書には、左馬助という人が山本入道と薬師寺左衛門尉に称名寺の寺僧や田畑に煩いごとのないように依頼した安堵状がある。これには一二八五(弘安八)年一一月一二日の日付がある。
 他の一つは称名寺に関する置文(現在並びに将来にわたって守らねばならぬことを定めた文書)で一二八七(弘安一〇)年正月一一日に制定したものである。このころ称名寺が隆盛を極めていたことがわかる。また、これらの文書は守護職から出されたもので、公文の職名が記されていることから、京都の石清水八幡宮の荘園として所領されていたことが知られる。また、鎌倉時代の伊豫岡八幡宮の諸規定及び一二九七(永仁五)年の勤修式目があり、いずれも重要な史料である。
 一九六〇(昭和三五)年八月一日、古文書の市指定になった。

 上野文書 
 伊予市上野の伊予市役所上野支所に保管してある。この文書は伊予市郡内の「おたくわえ」(共有物組合)、郡中貯関係の文書である。この制度は老中松平定信の寛政の治の一つであって、貯蓄法の奨励(囲い米の制)を各藩がその領内で実施したものである。大洲藩においても一七九三(寛政五)年、郡内・郡中に分けて備荒の制度を設けた。第311図に見るこの上野文書は郡中貯えに関するものである。
 一九六〇(昭和三五)年八月一日、古文書の市指定を受けた。

 大般若経 
 伊予市下三谷伝宗寺に所蔵されている。伝宗寺の大般若経六〇〇巻は応永年間に作られた経典で木版、表紙は黄褐色で紙質は日本紙である。古くから供養のときなどに使われていたもので、今でもその一部は祈祷の際使用している。
 この木版経典は近江の国司が佐々木八幡社に奉納したのが、備後の鞆浦の安国寺に移り、後に伝宗寺に納められたと伝えられている。当寺の大般若経は永山本といわれている。
 一九六〇(昭和三五)年八月一日、古文書の市指定を受けた。

 知行安堵状 
 稲荷神社の宝物になっている。これは一五六九(永禄一二)年一二月、平岡房実同通資親子が連署して伊予郡山崎の稲荷宮の知行分を星大夫、源大夫に安堵せしめた文書である。なお、平岡氏は河野家の重臣であった。特に房実は宝珠寺の禁制を定めたり(永禄六年)伊予郡や喜多郡における戦い(永禄八年と同一二年)にも参加している。
 一九六九(昭和四四)年四月一日、古文書の市指定を受けた。

 江山焼 
 伊予市殿町に住んでいた槇鹿蔵が庭に窯を築いて焼いたものである。その作品は楽焼に似て風雅な趣があり人々に珍重された。市立図書館保管の抹茶茶わん(伊藤博文が彩浜館に来遊したとき焼いたもの)と湊町の大師堂にある金剛力士像は一九六九(昭和四四)年四月一日、工芸品の市指定を受けた。

 錦手大形神酒瓶 
 稲荷神社に所蔵され、伊藤五松斉の作品である。五松斉は伊予市尾崎の庄屋の出身で、はじめ三島町で焼物をはじめたが、後に砥部に行って苦心研究し焼きあげたもので、砥部焼に錦手の手法を用いたものである。
 一九六九(昭和四四)年四月一日、工芸品の市指定を受けた。

 十錦神酒瓶 
 稲荷神社に所蔵され、郡中十錦という焼物で、小谷屋友九郎(乾斉又は坤斉と号す)作品中の逸品である。
 郡中十錦というのは、支那製上絵の十錦手を模したもので、磁器釉表に青・黄・緑・赤桃・褐・薄コバルト青・白盛・脂・臙黒・金彩の上絵具を厚く塗りその上に釘ぼりで唐草模様をかいて焼いたものである。
 一九六九(昭和四四)年四月一日、工芸品の市指定となった。

 弓具一式 
 稲荷神社に所蔵されている。市誌「美術・工芸」に記載している。
 一九六九(昭和四四)年四月一日、工芸品の市指定となった。

 薬師堂 
 伊予市下三谷近江伝宗寺の門前にある。この堂は唐様の建物で屋根は宝形造り本瓦ぶきで、扉をはじめすべて唐様の典型であり巧ちを極めた建造物である。造立は一八九四(明治二七)年、下三谷の大工川中夏吉の作である。一九六〇(昭和三五)年八月一日、建造物の市指定となった。

 山姥金時の絵 
 稲荷神社の宝物の一つである。岸駒の傑作といわれている。市誌「美術・工芸」に記述している。
 一九六〇(昭和三五)年八月一日、絵画の市指定となった。

 谷上山宝珠寺本堂 
 開基は寺伝によると、天武天皇の時、六七三(白鳳二)年国司越智宿弥有興が、霊夢によって寺院を建立したと伝えられている。江戸時代に火災で建造物を失い、現在では、本堂・護摩堂・仁王門・薬師堂・絵馬堂・鐘楼・庫裡などが再建されている。
 本堂(第312図参照)は、一九〇五(明治三八)年市内下三谷の宮大工川中夏吉の手で再建されたものである。屋根は入母屋造り詰組み、五手先本瓦葺の単層で、瓦には大洲藩加藤家の蛇の目紋がある。向棟は軒唐破風つき鎚破風様式の折衷様式であるが、平組みが詰組みのため唐様式が強い。五手先軒南には五本、普通部は四本尾種が突き出ており、肘木やたるき(木へんに垂)の曲線は実に美しい。
 一九八四(昭和五九)年一二月二六日、建築物の市指定を受けた。

 本尊千手観音像 
 上吾川谷上山宝珠寺の宝物である。第273図のように高さは一・七mの立像である。市誌「美術・工芸」に記述してある。
 一九六四(昭和三九)年六月一五日、彫刻の市指定を受けた。

 玉飾り 
 伊予市上野の玉井達夫と宮下の橘洋一が所蔵している。
 玉井の玉飾りは上野兎渡護古墳から出土したもので、第313図のようにくだ玉二四個、なつめ玉四個、丸玉六個、小玉五八個あり、水晶製のものや、ガラス製の紺色・濃紺など大小さまざまで、どれもビーズ玉のようなものである。
 橘の玉飾りは、くだ玉四個、まが玉一個、丸玉四個、小玉二五〇個などで水晶製のものやガラス製の紺色・濃紺など大小さまざまでどれをビーズ玉のようなものである。
 いずれも一九六五(昭和四〇)年四月一日、考古学資料の市指定を受けた。

 甕形土器 
 伊予市立図書館資料室に保管している。
 弥生後期のもので、器の高さ四四・一㎝、腹部のさしわかし三五・五㎝、口径一六・○㎝、頸部一三・五㎝の大形であり、平底で、外ぞりする簡単な口縁部をもっている。
 一九六九(昭和四四)年四月一日、考古学資料の市指定を受けた。

 銅鉾 
 伊予小学校に所蔵していたが、現在伊予市立図書館資料室に保管している。上野の向山東原から出土したもので全長八八㎝、元の幅は七・五㎝、先の幅は一〇㎝、中幅は八・五㎝、柄の長さ一九㎝の広いほこである。弥生中期のものと思われる。
 銅鉾はもともと水稲農家をその基とした素ぼくな農民の文化であったものだが、だんだん長大化して武器としてよりも、むしろ祭祀・呪術に使われ貴ばれていたようである。
 一九六九(昭和四四)年四月一日、考古学資料の市指定を受けた。

 人物埴輪 
 港南中学校に所蔵していたが、現在伊予市立図書館資料室に保管されている。はにわは後・中期古墳の特徴である。関西には人物はにわがほとんど見られないのに、伊予市米湊大角蔵出土の「踊るはにわ」は非常に特色のある珍しいものである。
 一九六九(昭和四四)年四月一日、考古学資料の市指定を受けた。
※ 伊予市の文化財については、二〇〇四(平成一六)年現在改訂中であり、近々改訂増補版が発行される予定である。

第198表 県・市指定文化財一覧表

第198表 県・市指定文化財一覧表


第305図 第1号窯跡実測図

第305図 第1号窯跡実測図