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伊予市誌

一、観光資源の現状

 伊予市八景の選定 
 伊予市は、輝く古い歴史に育まれ、山あり、川あり、平野あり、海ありと豊かな自然に恵まれて、多くの景勝地を持っている。
 明治時代の初期、伊予の漢学者として有名な武知五友は、五色浜の「郡中巷衢創業原誌」の碑文で次のように述べている。

  念ふに、伊予郡の地は、広袤数里地勢平遠にして稲田もっとも多くして、土壌衍沃なり、けだし伊予一州の美は伊予郡にあつまり、伊予一郡の美は、今日の郡中にあつまるなり。

 更に、中国の洞庭湖八景に倣って、郡中八景(南山積雪、米湊鳴蛙、谷上午鐘、稲荷翠嵐、紫海夕照、万安夜泊、湊浦魚戸、住吉松雨)を選び、先人たちは、この八景を題材として、漢詩、和歌、俳句を作って楽しんだ。また、ほぼ同じ時代に、吾川の人たちが吾川十二景を作った。
 そのような先人の志を受け継いで、一九九五(平成七)年に伊予市制四〇周年記念事業として、市民の公募により伊予市八景が選定された。

 五色浜 
 伊予港の西南に続く海辺にあり、瀬戸内海の美しい海景を臨んで青々とした松林の中に、各種の遊具を備えた公園をはじめ、野球場、海水プール、相撲場、彩浜館、五色浜神社などがある。
 ここの浜辺は、赤・緑・黄・黒・白の五色の小石があることで有名なことから「五色浜」と呼ばれている。五色の石については、源平の昔語りにまつわる五人の姫君の哀しい伝説が残っている(伝説の章参照)。
 公園の北端の港に面して建っている灯台は、一八七○(明治三)年に旧郡中港入り口に築造され、一九一二(大正元)年に現在地へ移されたものである。今も、明治時代初期の簡素な姿を立派に残している。筑造した石に刻まれた碑文には、世話方・寄付者の名と「港口改築之為移転築台、大正元年十月廿五日、町長藤谷豊城」「石工今岡仲次郎」の名が記されているほか、海流が激しいため出入りの船が夜間大変難儀したが、この灯台が毎夜灯光を放ってくれるので破船の恐れがなくなったこと、昔は木造であったものを熊野芳雄が有志と相談して石造にしたことなどが刻まれている。
 公園の松林の中には、芭蕉の句碑をはじめ、陶惟貞・鷲野南村の頌徳碑と藤谷豊城の胸像、郡中巷衢創業原誌の碑、伊予港竣功記念碑、萬安港創建岡重道の碑、藤谷豊城の歌碑「魚付林」、山田十雨の句碑が建っており、散策には格好の場所である。
 彩浜館は、一八九四(明治二七)年一月、宮内治三郎らが発起人となり町民から浄財を集めて新築落成したものである。現在の建物は、老朽化が著しく危険な状態であったため、昭和六三年度に建て替えられた。ここには、明治時代末期から大正時代初期の間、各地から文人墨客が数多く訪れその作品を残している。なかでも、伊藤博文が一九〇九(明治四二)年三月、彩浜館に来訪したときに書いた「五色濱神社」「稲荷神社」の額面二枚と、旧高鍋藩主(宮崎県)秋月種樹の「五色濱館」は逸品である。当館の北の庭には、らせん状の石組み井戸で一八一二(文化九)年にできたという「さざえ堀」がある。海水の干満を示すものとされたが、後には鯛などの生けすに使っていたことがあった。なお、一九〇四(明治三七)年九月にはロシア兵捕虜将校が訪れた。また、グラウンドの西にある小高い松林の丘を粥食山という。嘉永年間から一八七〇(明治三)年ころまで、冬季仕事がなく暮らしている人々二、三〇〇人に港の砂掘り作業をさせ、昼食には粥をふるまって砂を積み上げさせた(『塩屋記録』)。そうしてできた砂丘なので、この名が付いたという。
 隣接する五色姫海浜公園は、白砂の美しい海水浴場であり、毎年シーズンになると海水浴を楽しむ人々で賑わう。

 伊豫岡八幡神社 
 美しい伊豫岡にあり、愛媛県の文化財として有名な約一〇基の古墳群の上に建てられている。この古墳群は、古墳時代後期(六世紀から七世紀初頭)のもので、当時のこの地方の豪族や子孫の墓であろうと言われている。清和天皇の八五九(貞観元)年、宇佐八幡宮の神を山城の国(京都)に迎える途中、伊豫岡のまわりが明るくなったのが沖から見られた。これは神のお告げであるとして、神の分身を祀るため社殿を建てたのが始まりと言われている。主な建物は、一八四九(喜永二)年に建てられた楼門、一六九四(元禄七)年の拝殿、古建築様式の本殿で、ほかに上川神社・五穀神社を合祀している。また、日露戦争から帰還した氏子らによって奉納された日本画「征露凱旋記念奉納絵馬」が納められている。厳しい戦争の画面の中に赤十字の腕章を付けた救済兵たちがロシアの傷者を看護する姿が描かれており、その人類愛に感激した当時の在大阪ソビエト総領事のアレクセイエフ氏によって、一九九一(平成三)年一二月一五日、日ソ親善を進める国際行事として境内にカラマツ二本が植樹された。その後、多くの人の寄進により、この絵馬は一九九六(平成八)年、立派に修復された。

 大谷池と森林公園 
 一九三二(昭和七)年、当時の南伊予村の村長であった武智惣五郎が、年々歳々に渡る干ばつと時々起こる大谷川下流の水害を憂い、その対策として大谷池の築造を思い立った。以後工事を続行して一四年の歳月を費やし、幾多の難関を乗り越え、ついに一九四五(昭和二〇)年三月に完工した。これは、山峡をせき止めて造った堰堤式の農業用溜池で、水面九三・四二〇平方m、堤防の高さ三五・五m、堤防の長さ二〇〇m、水深二五・五m、水害防止面積五二四ヘクタール、灌漑受益面積四四四ヘクタールという全国屈指の溜池である。池は美しい森林に囲まれ、秋から冬にかけては数千羽の鴨が泳ぐ姿を見ることができる。
 隣接するえひめ森林公園は、愛媛県が五か年計画で進め、総工費四億六、〇〇〇万円を費やし、一九八四(昭和五九)年に完成した。公園内の管理棟は森林学習展示館となっており、森にはフィールドアスレチック、キャンプ場、自然観察道などが設置されている。

 谷上山 
 谷上山(四五五・五m)は皿ヶ嶺連峰県立自然公園の一部をなしている。公園としては、皿ヶ嶺を中心として東西約一六㎞にわたる連峰と山麓の一部を含む地域で、皿ヶ嶺連峰の山岳・森林景観と、渓谷美、人造湖、瀑布、岸壁などにおいて特に優れており、谷上山はその西端にあたる。一九六七(昭和四二)年に県立自然公園に指定され、一九八六(昭和六一)年、大谷池と合わせて四国の自然百選に選ばれている。この山の頂上からの眺望は特にすばらしく、青く澄んだ伊予灘の海、そこに浮かぶ大小の島々を眼下に見下ろし、はるか向こうに中国地方の山々が見え、北東には一面に広がる道後平野を望み、緑の中に松山城がくっきりと浮かぶ。正に眺望千里の感がある。山は四季折々に美しく、春は桜・ツツジが咲き競い、うぐいす・めじろが鳴き渡り、夏の深緑、秋の紅葉など、いつでも訪れる人の目を楽しませ、ハイキングコースとしても最適の地である。
 頂上から五〇mほど下に宝珠寺がある。聖徳太子の開基と言われる古刹で、昔、大洲・松山両藩の祈願所として、また農業の守り仏として広く信仰を集めた。今も、五穀豊穣・家内安全などのお守札を授けてくれる。第一山門の右手に鐘楼があり、大釣鐘が信徒一同の寄進によって奉納されている。この釣鐘は、戦時中に国策に沿って政府に献納されており、今の釣鐘は、終戦後の一九四八(昭和二三)年に再度奉納されたものである。直径一・五mの大釣鐘は、ここに参拝する人たちに言い知れぬ心の安らぎと古刹独特の霊感を覚えさせるとともに、その豪壮な音は遠く伊予市の市街地までも伝わってくる。また、庫裏の一室に、狸の研究家で知られた道後の富田狸通が襖や白壁に様々な狸の絵をいっぱい描いている部屋があり、実に見事である。寺では、ここを「狸の間」と呼んでいる。寺宝としては大森彦七が奉納したという甲冑がある。本尊の千手観音像の仏像は、伊予市の文化財に指定されている。

 稲荷神社と西権現山 
 伊豫稲荷神社は昔、山城の国から稲荷明神を勧請し、近郷の総鎮守として創建された古社である。社殿や楼門は伊予の左甚五郎と言われた名匠治部の作と伝えられている。楼門は一九六九(昭和四四)年三月三日、文化財として愛媛県の指定を受けている。また、境内の藤は、天然記念物として伊予市から文化財の指定を受けており、開花時期には見物客が多い。社の背後の小山は、老桧の緑深く力強い樹幹の美しさと、小鳥の声に閑寂な環境を織りなし、神苑を半周する池水に樹木の影を宿し、幽寂の境地を醸し出している。市民の憩いの場として、家族団らんの場としてふさわしい場所である。
 また、稲荷神社の背でなだらかな山容を見せる西権現山は、森林の景観と眺望に富んでいる。

 鵜の崎峠と障子山 
 鵜の崎峠は、伊予市と砥部町との境に位置している。鵜の崎は、植物の分布状況の変化に富み、四季折々の美しい花を見ることができる。
 障子山(八八四・九m)は、砥部町・中山町・伊予市の境にある山で、四方を深い山に囲まれた中にそびえている。砥部町から見た景観は山が突き立っているようだと言われ、江戸時代の大洲藩侯が大戸と呼んだことから「大戸山」という別称がある。また、伊予市から見た景観はなだらかで雄大な山容で、頂上近くには平坦面も見られる。天候によっては山の色が変わり、趣深い伊予市の奥座敷として期待されている。

 三秋の大池と明神山 
 この池は姥が谷大池とも言われ、一六四七(正保四)年の改修により、堤の高さ一六・四m、長さ一一五m、貯水量三八万立方mとなった。堤からの景観はすばらしく、大池は常に清水をたたえ女性的な柔らかさと美しさを持っている。その背後にある男性的な明神山(六三四・三m)を三秋の大池の堤から望む眺めは、すばらしい感動を与えてくれる。

 森の海岸としおさい公園 
 森の大谷海岸は、約一、八〇〇mにわたり地質学上第三紀に属する粘土質岩が露出し、断崖をなしている。この地層から多くの埋もれ木が出土しており、これを「扶桑木」と呼んでいる。これは、数百万年前のメタセコイヤ・トガサワラ・オオバラモミなどの古代植物が長期間土中にあって炭化したものである。昔、巨大な扶桑木が茂り、その梢が大空を覆い隠し、西の国の人たちは朝日を見たことがなかったという伝説が残っている。また、シジミやタニシなどの貝の化石も発見され、第三紀層研究の貴重な資料となっている。海は青く、景色も良く、地引き網やヨットなどで若者に親しまれている。
 しおさい公園は、海と山に囲まれた、スポーツと憩いの場を兼ね備えた総合公園で、伊予市の観光拠点として定着している。