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伊予市誌

四、豫州大洲領御替地古今集 ②

    伊予郡下唐川村
一 伊予郡山崎庄下唐川村庄屋は文禄三年(一五九四)より与三左衛門、伊太郎、九左衛門、宗右衛門、勘左衛門、理兵衛苗字帯刀御免、菊沢九左衛門、菊沢与八、菊沢武右衛門、安五郎十二代相続くなり。
  但し以前庄屋の有無は存ぜず、文禄三年元祖与三左衛門へ松山御公辺より庄屋仰せ付けられ、右六代目惣(宗)右衛門下三谷庄屋に下し置かれ罷り越す。弟勘左衛門相続并びに当安五郎親菊沢武右衛門去る未の夏隠居を蒙る。同十二月八倉村庄屋被仰せ付けられ罷り越し候。
一 村方の氏神は中御前五社大明神なり。
  但し社人断絶仕まつり、稲荷大夫へ神用相頼み申し候。
一 檀寺は上唐川村真言宗真成寺、本寺は谷上山なり。
  但し古い寺号数御座候内に森山何某の大五輪二間四面の前堂御座候。文字御座無く候故分かり申さず候。
一 武知氏は清六・新九郎子孫相続仕まつり候。
一 庄屋家来三、四軒御座候。

    右同郡同断新谷御相地大平村
一 庄屋新兵衛寛延三年(一七五〇)仰せ付けられ、伜仙波新五兵衛御双方様より苗字帯刀・六人扶持代々仰せ付けらる。仙波新五郎、仙波忠五郎四代相続仕まつり候。
一 大鷦鷯大明神は稲荷の末社、下井手柏の水という。
  但し此の上往還の道岸に木の切り□のごとく石出ず、木石という。
一 檀寺は真言宗村善正寺、本寺は谷上山なり。
一 大地蔵堂、那須与市建立の古仏は如法寺へ召し上げられ、其の後これを石仏と相申し伝え候。
一 三秋村境に尼が古城跡あり、主相知り申さず候。
一 天神が森古城跡あり、城主は森山伊賀守と申し伝え候。
  但し麓に五尺位の五輪あり、文字相分かり申さず候。
一 大平屋敷と申し伝う、川より北を鍛治畑と言い源範頼の乗馬虎月毛を九門修理此所にて飼い終わる。寺の下手御所の川原へ畳二枚敷き捨て置きしに七日ぶり毛一本なく飛び去る。右畳を川へ引き捨てしという、程無く九門果てられ塚あり。何も祭る人これ無き故か馬病多しと申し触らし、いつの比哉庄屋は向かい蛇頭山の麓へ太夫に祭らさせ候。猶又近年馬の子落ち、寺内へ塚を築き、七月十七日から物入れし馬持ち参詣す。扨又大鷦鷯上の往還で夜更け通りの者、向かい川辺に馬の嘶き聞き候者多しという。
一 新田大明神は稲荷の末社なり。
  但し先年よりけわしき所に長短の柱にて二間半位の社御座候。然る所近年松山の御大臣上下度々不思議これ有る由にて、老若男女参詣多し。瓦葺拝殿を建立、守り御供えに山内の竹を所望し帰り候。

    右同郡同断三秋村
一 先きの庄屋存ぜず、当庄屋は延宝五、六年(一六七七~一六七八)頃より庄屋役市兵衛、喜平治、市兵衛苗字帯刀御免、越知喜平治苗字計り、得能六郎左衛門は五代なり。
一 氏神は稲荷大明神、村水の明神前社あり。
一 村方檀寺西願寺は根元大寺成り候趣、開山仏照禅師は文保二年(一三一八)に遷化(有徳の僧の死)し五百年に成る。是より十四、五代の住僧名書き揃い、絹地至って古き掛け物御座候。先年は七堂伽藍(七堂とは寺の山門・仏殿・法堂・厨僧堂・浴室・東司(便所)七堂の揃った寺)成りしとか、先年長曽我部乱の時寺の上川を隔てて双方に陣小屋を立て、相戦う紛れに堂院悉く焼き払い野原となれり。程経り檀家取り立て小院を造る、今の寺は先住の建立なり。
  但し仏階の下に大像の薬師十二神御座候。何卒世に拝し度く存じ奉り候。
一 村の高野川境、谷をはたと申し候。三、四代以前佐右衛門と申す百姓は鉄砲上手にて御先代様御機嫌に入り、毎度御連れ遊ばされ候。彼居り候谷は随分開き候わば免安く致し遣わさると仰せ出だされ候由、今以て別に免安く成り遣わさる、右子孫両人難渋に相続き居り申し候。谷内に古名離れ山と申す所は元四、五軒も百姓御座候処、追々亡び絶え仕まつり候故、御伺い申し上げ泉山と改め候えども漸く二間(軒)難渋に居り申し候。右佐右衛門は当方へ殿様御越しの度に火繩献上仕まつり来たり候。此の山峠を頸塚と申し伝え候森にて御座候。
一 当村姥が谷大池の事
  但し元は村用いし小池なり候処、中村・森・本郡水払底(底をつく欠乏する)御歎き申し上ぐ正保四丁未年(一六四七)重上げ大池に相成り候。水掛け引き和談致し、抜き残り候水等これ有り候。右三か村より三秋村へ池床米及び三石渡す、井手料を大平村へ六斗一升五合ずつ相渡し迷惑仕まつり候。

    右同郡同断新谷領市場村
一 当庄屋は貞享三年(一六八六)上吾川村より代米指し上げ忠右衛門罷り越す。苗字帯刀、佐伯忠右衛門、佐伯喜三右衛門、佐伯喜惣右衛門、喜八郎永々三人扶持苗字帯刀、佐伯忠左衛門は六代なり。
一 氏神は稲荷大明神
  但し村に宮領八幡社有り
一 庵一軒 耕雲堂御座候

    同郡同庄稲荷村
一 庄屋以前は相分からず、向居九兵衛、祐八、九兵衛なり。
一 氏神は稲荷大明神 山崎の庄十か村、三島町、灘町の氏社なり。新谷祈願所
  但し御替地の古社・大社以前御上の御祈願所という。御時合(問題・争いなど)御座候て吾川八幡宮御祈願仰せ付けられ候様に承り伝え候。社人間違い由来書出し申さず候故、相分かり申さず候。
一 檀寺は村常願寺 本寺は谷上山なり。

    右同郡同庄中村
一 庄屋は貞享四年(一六八七)大平庄屋より買券(割符手形)にて清右衛門罷り越す。十右衛門二字帯刀、武知政右衛門苗字帯刀・永々三人扶持、武知恒右衛門、武知政右衛門、武知時之進六代相続くなり。
一 右武知政右衛門は隠居別宅仕まつり候。二字・永々三人扶持は
 武知政右衛門・武知政右衛門三代相続くなり。
一 氏神は稲荷五社大明神併びに末社八幡宮あり。
一 檀寺は鹿島山法寿院、明音寺、本寺は谷上山なり。
一 古城主寺を開くという。仮り位牌に法寿院殿前周頭左近衛中将藤原助安法養元盛大居士と書き御座候。併びに五輪の頭と見え三、四尺計り堀り候処に立ちて御座候えども文字なく分かり申さず候。外にも堀り候えども五輪御座候趣、寺迄も洪水に流れ、其の後建立す、東付けの田地も押し流し近年追々起こし地治渉り候事に存じ奉り候。
一 鹿島山古城跡城主は左近衛中将藤原の助安と申し伝え候。
  但し此の城の山麓五、六丁の内に家中下屋敷・堀の内・奥屋敷と申す地名御座候。是れ又当村の根元中村と名付け候は地味立つ所に存じ奉り候所、近頃は出来あしく百姓衰え歎かわ敷く存じ奉り候。

    同郡同断森村
一 庄屋先祖の由来存ぜず、先祖市右衛門は尾崎村庄屋相勤め居り、森村へ宝永三丙戌年(一七〇六)仰せ付けられ罷り越す。市右衛門、永井勝助、次内庄助、永井房右衛門は五代なり。
一 氏神は稲荷五社大明神なり。
  但し村方に末社八、九か所、外に藪神等三十か所御座候。
一 檀寺は灘町栄養寺、浄土宗なり。
一 海雲山大門寺は如法寺の末寺なり。
  但し元禄五壬申年(一六九二)、村僧宗純・了心・嘉左衛門併びに村中建立にて御座候。
一 右同宗西江庵は元禄年中宗純の建立なり。
一 最乗寺は恵日山禅黄檗宗、本寺は菅田正伝寺なり。
  但し昔は律宗、故ありて貞享元年(一六八四)正伝寺末寺に成り相続くなり。
一 如意山理正院行覚寺は真言律宗
  但し開山は寛文年中(一六六一~一六七三)、吾川村仏乗寺の法雲比丘の建立、紀州高野山真別所円通寺の末寺なり。
一 山崎の城と申す古城跡は城主分かり申さず候。
一 村山に大谷と申す谷の田岸山くずれ候えば風与かつら出で申し候。浜海へも何町とも知れず出で居り候趣、是れは細工に成り申さざる由。
一 吉野氏平右衛門
  但し昔、松山浪人吉野吉左衛門と申す兵術の達人と承け伝え候。近村の庄屋次男等弟子数々御座候様承け伝え候。夫より平右衛門は五代末にて兵術書等焼失し、今は鑓一本所持仕まつり候。

    右同郡同庄本郡村
一 庄屋は苗字帯刀片岡丈平二字御免、片岡仙六は二代なり。
  但し先きの庄屋仁平次より請け取り元文五庚猿年(一七四〇)に罷り越し候。
一 氏神は稲荷大明神
  但し村に小社御座候。
一 檀寺は数々御座候。
一 塩浜の儀は御替地御勤役坪内甚五右衛門様・御代官小畑新兵衛様・高井助右衛門様御時代の安永三甲午年(一七七四)の春、片岡丈平、尾崎村久治御願い申し上げ御免、開発相続き申し候。
  但し土地は本郡分、畝一町二反二畝二十三歩・高六石五斗四升五合の処に存立開端の事。松山和気郡の才安と申す道心(仏道に入った人)福田寺へ出入りの僧なり。折節此の浜を通り福田寺へ参り、先住寒岩和尚へ咄す。親丈平へ才安塩浜に宜ろ敷き所と申す由にて、丈平尾崎へ来り噺し候所、早速同心兼ねて塩込み色々迷惑仕まつり居り申し候故、否(すぐに)得心致候由承り候。

    右同郡同断尾崎村
一 庄屋始め伊藤氏、十右衛門・久治・十郎右衛門・十右衛門の四代相続仕まつり候。
  但し尾崎村先きの庄屋本郡村仁平治預かり居り候処、買券にて元文五庚申年(一七四〇)より当庄屋先祖十右衛門勤役倅久治役中、上吾川村庄屋代わり相勤む。其の後殿様御代続き御悦び、惣代中喜び居り冨永彦三郎・柳沢茂平・久治三人出府仕まつり献上等首尾相調い、尚浅草大殿様へ御目見え仰せ付けられ献上指し出し御言葉掛かり冥加至極有り難く帰国仕まつり候。
一 安永三甲午年(一七七四)、本郡村塩浜御願い申し上げ、丈平・久治相持ちにて出来相続仕まつり候。
一 同九庚子年(一七八〇)より久治へ御米三石宛年々下し置かれ有り難く頂戴仕まつり候。
一 氏神は稲荷大明神なり。
一 村内天神社は慶安年中(一六四八~一六五二)に加祢古の天神氏所へ遷宮仕まつり、御先代様より由縁これ有り氏神と敬い奉る様仰せ出でられ、今に至り社の修覆・神楽料迄十か村より差し出し申し候。

    右同郡同断米湊村
一 庄屋の始めは久保幸助、要蔵、繁蔵、和左衛門、新五郎五代なり。
  但し先祖久保伊与守源高実は応永年中(一三九四~一四二八)雲州久保の城より当所黒山城へ移る。右伊与守より五代の孫縫之介好武石畳村に住み、嫡子助左衛門、喜左衛門嫡子弥三左衛門承応二巳(一六五三)石畳分郷に成り、下石畳村庄屋仰せ付けられ候。二は三左衛門、三は市兵衛其の次は久保幸助米湊村より下石畳村へ罷り越す。要蔵米湊村へ罷り越し庄屋相勤め申し候。双方にて八代なり。
一 氏神は新谷領稲荷村稲荷大明神なり。
一 七反畑天神は村構え稲荷社人主税控えなり。
  但し神殿は茅葺、修覆は村構え併びに廊下・拝殿は瓦葺三島町構え、社地二百四十四坪、氏子は米湊村内七反畑併びに三島町中
一 大松一本右天神景代(境内)にこれ有り候。
  但し世に名付けて加祢古といい、回り七かかえ半あり。
一 祇園社
  但し延享四年(一七四七)建て替え候節、古い中殿を神殿にいたし今に相用い候。住吉八幡宮等数々御座候。
一 真言宗志大山薬師寺は開山建長六寅年(一二五四)、同宗金林山海雲寺は開山元亀元庚午年(一五七〇)。
  但し蔵王権現社有り、庄内十か村建立、二間半に八間なりしが大破に及び安永六年(一七七七)二間半分除き置き申し候由来記寺にあり、其の外地蔵堂三か所御座候。
一 檀寺は真言宗祢名寺、其の外数々檀寺有り。
一 医者吉田幸順は今茂と申し候。去る卯年百祝い仕まつり当年百一歳丈夫に居り申し候。凡そ八十年鍼医、鯉釣り申し候。

    右同郡同断三島町
一 年寄(町村の長)の儀は祖父覚兵衛、親惣八、当役惣八迄三代相続す。
一 檀寺数々御座候。
  但し町構え観音堂御座候。
一 氏神は新谷領稲荷大明神
  但し町構え天神若宮の社御座候。
一 当地は以前笹原人家間散(すこし)有り、御替地に相成り月窓様(第二代大洲藩主加藤泰興は延宝二年(一六七四)二月二五日隠居し孫泰恒に家督を譲り月窓と号した。六七歳で歿す。)御鷹野の節天神大松の下で白鷺に御合わせ御鷹逸れて知らず、御代官高橋作兵衛様天神へ御祈誓あり、程無く御鷹御拳に戻り御満足遊ばさせられ御意なし、天神祭礼市を寛永十六己卯歳(一六三九)御赦免(おゆるし)遊ばされ、町形に相成り御免地・町号を三島町・商札九枚永代下し置かれる。内二枚は町並尾崎へ下し置かれる。是は御免地分なり。扨又寛政八丙辰年(一七九六)御城下に准じ候様仰せ付けられ御影を以てかくの如く町相続き仕まつり有り難く存じ奉り候。

    右同郡同断灘町
一 年寄の儀は御替地以後同家交々相勤め、親宮内文五右衛門御扶持家苗御免、同様宮内才右衛門迄都合六十年余相勤め相続仕まつり候。
  但し円明院様(第二代大洲藩主加藤泰興の法号)御替地に遊ばさせらる。私(宮内氏)先祖は上灘村に仮住まい仕まつり居り申し候九右衛門・清兵衛兄弟の者当所へ住居仕まつりたきに付き御屋舗より南を御願い申し上げ候処、高低御座候故北を遣わす可しと仰せ付けられ候処、高下は自分に直し住みたき段御聞き届けにて罷り越す。町住み相望み候難渋者えは竹木等世話し遣わし町並に相成る。其の後御城下へ召され永田権右衛門様・滝野権兵衛様より御替地は浜用心悪しき所、其の方ども働き人家を増し御満足に思し召し御称美下し置かれ候。灘町・灘屋御免仰せ付けられ有り難く追々家門相増し候。扨又当町市の儀寛永元年(一六二四)三島町市相止み申し候節御願い相叶い是迄相立ち申し候。将又(なおまた)寛政八庚辰年(一七九六)御城下町に准じ候様仰せ付けられ候。
一 宮内惣右衛門、宮内小三郎、宮内弥三右衛門は御扶持(禄米俸米)苗字御免、先祖の儀は年寄同様に御座候。
一 灘屋七郎の先祖の儀は同様に御座候。
一 渡辺喜右衛門御扶持、苗字御免。
一 村山四郎右衛門苗字御免。
一 氏神は新谷領稲荷大明神
  但し町に天満宮宝永六年(一七〇九)建立、其の外社地に和霊明神・恵美須・若宮・祇園御座候。
一 檀寺は栄養寺、浄土宗、本寺は長建寺、山越に有り。
  但し泰昌山安楽寺は寛永十四年(一六三七)に建立、寺内に弁財天・観音聖子・鐘堂御座候。
一 光明寺は一向宗、本山は京都西本願寺なり。
  但し松山加藤佐馬之佐様御時代に加藤冨伯公建立す。後故に冨伯山光明寺と号す。根元は長福寺といい慶長十一年(一六〇六)建立、中興は正善法師、其の後享保元年(一七一六)光明寺と改号す。堂院度々焼失し縁起(寺の由来)類御座無く候。小檀家八十位、極貧乏寺近辺に同宗御座無く、京本願寺使僧の宿坊を饗さざるに付き、同宗京都へ歎き呉れ、本寺より大洲御役人中様へ御頼み書状差し上げ御領分托鉢(僧が鉢をもって人家に米・銭をもらうこと)御免、一貫目余り御座候て年寄へ預け置き、彼是取り合わせ寺を立つ。去る未年本堂四間半に三間二尺に素立ちの次第、老僧昼夜其の艱難少なからずして見聞する人驚き入り候えども、一向戸仕回り仏階未だ出来不申さず当惑仕まつり居り申され候。
一 顕本山上行寺は法花(華)宗、御城下妙光寺の末寺なり。
  但し延宝元丑年(一六七三)に建立、開山は実正院日了上人、寺内に万社堂あり。
一 海岸山法昌寺は真言宗、江州岩本院末寺なり。
  但し延宝八申年(一六八〇)建立、寺内に金毘羅・住吉・大師堂有り。
一 地蔵堂は享保六丑年(一七二一)建立なり。

    同郡湊町
一 庄屋・代詰番・町老を兼帯(かけもち)見山勘兵衛(墓は増福寺山門を入る左側の墓地東の方にある。)
  但し先祖は吾川村百姓、御替え地に成り当町へ罷り出で、三代目見山勘兵衛苗字三人扶持下され年寄役を当てる。見山勘兵衛年々御合力米(ほどこし米)三石宛下し置かれ有り難く郡詰め・年寄兼帯相勤め五代なり。
一 同町年寄四郎左衛門の先祖は上灘村漁師、六代以前当地へ罷り越す。親四郎左衛門年寄役三十三年相勤め御祢美御目録下し置かれ、直ちに伜四郎左衛門年寄役仰せ付けられ二代なり。
一 檀寺数々あり、護国山増福寺は本寺御城下龍護山なり。
  但し外に大師堂・地蔵堂あり。
一 殿町円明院様御代に十人衆と御名付け御建て遊ばされ候。
一 氏社は上吾川村八幡宮、由来は社人より申上ぐ可く候。
  但し町内に住吉・天満宮・恵美須宮御座候。
一 当町の根元は吾川村竿先原・千町原・千丈原・戦場原・牛飼原色々定め申さず候。寛永十二乙亥年(一六三五)円明院様御替地遊ばされ初めて小川町と申し候処、火災繁く当年寄勘兵衛・親長右衛門御願い申し上げ湊町と改号す。定めて諸書には小川町とこれ有る可く候。将又寛政八丙辰年(一七九六)御城下町に准じ候様仰せ付けられ候。
一 当浜は円明院様の節、長浜より漁師八人遣わされ不漁にて両人に成る。年寄四郎左衛門先祖罷り越し御立浦に仰せ付けられ相続す。尤も両人の内助六と申す者名跡相続仕まつり候。
一 万治二己亥年(一六五九)松山(領)松前と当浜網代面倒、土佐守様御挨拶御取り扱い御和合相成り、土佐御家中山内下総様・片岡武右衛門様御証文写し所持す。本紙米湊村にあり、宛は米湊村・尾崎村・本郡村・森村右庄屋中と御座候。
一 上方瀬戸内通船は九艘、五十石・百二十石積み迄に御座候。
  但し漁船十八艘、鰡敷網一張、鯱巻網一張(鯱は乾魚にする魚)・地引き網一張・片寄せ網三張・鰯網九張御座候。
一 梶野重右衛門寸志差し上げ苗字・三人扶持永々頂戴仕まつり候。
一 唐川屋九左衛門・吾川屋四郎兵衛・三谷屋和助は大坂落城後吾川へ罷り越し居住す。岡井弥藤治様併びに宇和島後家中にもこれ有り中興迄は申し通し候由申し伝え候。
一 当町浜芝居御免の節は御勤番・御郡様・大目付様・御代官・御手代・郷目付御検使に御出浮くださせられ候古例に御座候。最早三十年も中絶す。天明三卯年(一七八三)灘町・三島町同様の市に仕成り候様御免蒙り居り申し候。

    右同郡上吾川村
一 庄屋曽根幸蔵より宝暦十三癸未年(一七六三)買い請け罷り越し、庄屋曽我部惣左衛門・伴右衛門二代なり。
  但し先祖は松山町家曽我部与市左衛門、大洲御先代様御出入りを蒙り明和四年(一七六七)五人扶持頂戴、安永四年(一七七五)御紋付・御上下、同五年(一七七六)御紋付・御小袖拝領仕まつり候。且又右庄屋惣左衛門宅へ天明四辰年(一七八四)十月殿様御出での節御腰床に掛けさせられ、唐布地柘榴に八声鳥(にわとりのこと)絵掛け物、筆は唐呂記御望みに付き差し上げ候。同十一月御城下へ御礼に出で候節、御台所にて塩見弥次兵衛様・中村与次兵衛様仰せ聞かされ候は御前より御掛け物下し置かる絵士(えかき)は周信(狩野派如川周信)太公望(中国周代の賢人呂尚の異称釣りをする人)釣りの所なり、有り難く頂戴仕まつり候。
一 氏神は村伊豫岡八幡宮、御祈願所なり。
  但し御託宣(神が人にのりうつって其の意をのべる)を以て当峯に御鎮座、貞観元年(八五九)七月なり。同八月京都石清水へ御鎮座ありしと先祖書き置き申し候。社に軒瓦箱棟・御幕・御提灯・御紋付御座候。
一 殿様御奉納貞享四丁卯年(一六八七)正月吉日、二尺五寸に横一尺八寸の鷹御絵御宝前(神さまの前ひろまえ)に掛け奉り、諸願成就藤原貞高と御座候。同元禄八亥年(一六九五)二月吉日、縦四尺五寸横一尺九寸松に鷹の御自筆御絵吾川八幡宮御宝前に掛け奉り、諸願成就遠江守藤原泰常(恒)(第三代目の大洲藩主)と御座候。同天明五(一七八五)八月朔日、五尺五寸横七尺五寸神功皇后誉田天皇(誉田別尊、応神天皇となる)御誕生と武内宿祢の御絵を御神前に掛け奉り、従五位下加藤遠江守藤原朝臣泰候(大洲第九代藩主)謹上の御印御座候。元文二乙(一七三七)八月、神殿造り替えの節、材木百本御奉納従五位下遠江守泰古公(大洲第五代藩主加藤泰温)御願いなりと棟札御座候。御城下社人兵頭式部存念致す書一巻奉納、所持仕まつり候。同郡北黒田村天神遷宮祭礼臨時神楽とも吾川村社人出勤昇殿し祝詞・奉幣勤め来たり候。尤も社預かりは松山(領)黒田の貴布祢社人にて御座候。先年郡内小田騒動の節、存じ寄りの静謐(静かになること)の御祈念執行御聴に達し御城下へ召され御銀頂戴仕まつり候。享保七年(一七二二)兵頭式部上京、若年に付き祖父武知周防儀同伴仰せ付けられ首尾相調い帰り候。御祢美させ御銀頂戴仕まつり候。
一 当社は今の鳥居より一丁南、木の元忙楼門御座候所、以前兵乱の時焼け絶え門瓦は取り出し神殿に所持仕まつり候。
一 元文五年(一七四〇)金ダビ、小太鼓御奉納の御連名箱の内に左の通り御座候。
  加藤太良左衛門之親 児玉清左衛門鎮元
  加藤伝左衛門賀光  長尾久右衛門勝容
  岡村亦左衛門道賢  徳川三左衛門成庸
  山下源兵衛武賢   江口庄右衛門智枝
  矢野佐右衛門長時  神山市良兵衛正直
  垂井三太夫昌隆   金子治郎右衛門親昌
  山田八郎右衛門正範 力石安太夫吉信
  森本弥七郎道矩   青木幸左衛門好枝
  高橋四郎左衛門正勝 東祐元直信
  野口勘内儀正    高橋与三左衛門正方
  山田源吾正恒    金子沢之助親之
  青木笹之助好満   湯尾彦右衛門直次
  志島助七実貴
 右御人数様御奉納、九月神事に御上御祈祷の節計りに相用い候えども大破に及び用立ち申さず神殿に所持仕まつり候。
一 檀寺は村真言宗称名寺、本寺は谷上山なり。
  但し延宝五年(一六七七)殿様御見分遊ばされ候趣にて寺山の御絵図御奥書文意併びに中村杢兵衛・友松伝左衛門書判(文書の自分の名の下に自筆で字形に書いた判)、吾川村正明寺御坊の御認め遣わさる表具巻物所持御座候。
  当時の北東に当たり、鎌倉範頼の廟所(おたまや)と申し伝え御座候。
  扨又出家身持禁制書一通、尤も本紙は谷上山に有りと御座候。
   弘安十年(一二八七)正月十一日これを定む 
           公 文 沙 弥 判
           前加賀守平朝臣 判
           僧  祐  室 判
  (沙弥とは出家してまだ修行が十分でなく僧になるまでのものをいう。)
一 福田寺は盤珪和尚の開基にて御座候。
一 仏乗寺は真言律宗、由来は相聞き申さず候。
一 百姓向井氏二、三軒住居仕まつり申し候。
  但し内に佐平次庄屋格式仰せ付けらる、色々申し伝え御座候えども不調法故用捨仕まつり候。
一 百姓佐伯氏の子孫居住仕まつり候。
一 地名布部に四辻堂社あり、大洲一木の城主一木太郎討死の廟社と申し伝える宮なり。地蔵堂前に大塚・臣下の塚成るべしと、所々の者信仰し折々神楽等執行仕まつり候。
一 地名太刀打ち場地蔵堂あり、度々はなばな敷く太刀打ち仕合いありし故に哉名付く。昔より七月に称名寺より法事致され候。
一 谷上山慈悲院宝珠寺は門中十五か寺の本寺なり。
  但し書写大般若経は松山(領)石井村椿森明神の御自筆と申し伝う、彼の辺より参詣の者拝したく望み申し候。弘法大師・祐天唐筆その外古筆の御綸旨(天皇のことば)・芸州御検地田畑畝高帳所持併びに本堂・厨子両方に狩野の馬の絵高さ三尺位横四、五尺位、時々此の馬以前谷(部落の字名)へ出で作を痛め候故、後に絵師繋ぎ候由申し伝え候。又円明院様御直筆・千手観音・御掛け物其の外大森氏の兜・木曽の刀色々御座候。附けたり、本尊は昔佐礼谷村地名寺野に御座成られ候処、春山を焼き候節、兎に火付き堂へ飛び込み焼失、夫れ故参詣の時兎を見候えば参らずと申し伝え候。

    同郡下吾川村
一 庄屋民右衛門より安永九庚子(一七八〇)買い請け罷り越すは庄屋日野儀右衛門なり。
  但し先祖は元弘(一三三一)の頃、日野資朝は土佐へ左遷(高い位から低い位におとされる)、其の末流と申し伝え候。時に下三谷の弟日野万五郎明和八(一七七一)上京の節、三位日野大納言資枝卿の家臣万五郎が荷札見付け候て資枝卿聞き給い、如何にも土州の縁覚(十二因縁の理をきわめてさとるという仏教のことばでなく、ゆかりくらいの意)ありとて懐しく思し召され系図とせよと
     御  歌
   鶴の子のまたやしゃら子の末までも
     ふるき例を我世とや見む
  右下し置かれ帰国し、神山市郎兵衛様御尋ね御覧遊ばさる。猶又系図に仕まつり候えと御巻物下し置かれ所持され仕まつり候。
一 氏神は伊豫岡八幡宮、上吾川村に有り。
一 右末社は宇佐八幡宮
  但しいかなる儀にて御鎮座の儀か相分かり申さず候。
一 同末社厳島大明神、祭礼は六月十七日
  但し御鎮座の始まり相分からず、回りは芸州宮島の如く、地名に宮田・窪田・元藤・長賤・沖辻・恵美須屋・みとの西あり、不思議なるは以前より毎年二、三月の頃宮島方より鹿渡り当社に着す。近年三匹病に付き御達し申し上げ候処、人蔘等遣わされ一匹は快気し、新川の辺より海に入り帰り候。二匹は死して埋め塚有り。鹿は参らず哉と尋ね候えども夜分参り直ちに帰り候趣、当所の鹿と違い恐れず町近く犬どもと御座候えども犬に取られ候儀は承り及び申さず候。
一 小野天満宮
  但し菅丞相 (執政の大臣)黒田に御逗留の節、御往来これ有り候処成る哉松・梅の古木御座候趣、尤も梅は枯れ御座無く候。
一 檀寺は真言宗上吾川村臨光山称名寺、本寺は谷上山なり。
一 紺屋嘉蔵の先祖は芸州(広島県)福島左衛門殿、大阪落城の後当所へ御出で有り改号して牧野泰玄と名乗る。御先代様親類方より御沙汰これ有り品能き浪人にて終わられ候子孫と申し伝う。系図は失ない尤も唐紙・巻物・刀目利書・一つは武芸の免、森村に以前善左衛門と申す浪人御座候、是れにてはと存ぜられ吉野善左衛門南無八幡大菩薩、寛文十三年(一六七三)と御座候。外に応神天皇唐より住吉の神刀にて御求め遊ばさる守りと見え、六枚中に丸を書き回り仏神名・梵字を朱丸に常全と書く妙なる物所持仕まつり候。
 
    同郡黒田村
一 先の庄屋六郎左衛門より買い請け、先祖彦八・斧右衛門苗字帯刀御免、鷲野為右衛門・梅三郎四代なり。
  但し先祖は松山(領)風早柳原に住む、元文三年(一七三八)に罷り越し候は彦八なり、新谷の内右為右衛門苗字帯刀御免、天明二年(一七八二)よんどころなく御替え村大洲領に相成り候に付き米十石下し置かれ候。時に寛政九巳年(一七九七)為右衛門休足仰せ付けられ、其の後忽那島・小浜・上怒和・下怒和世話仰付けらる。当梅三郎寛政九巳年(一七九七)より庄屋役仕まつり候。
一 氏神は天神社、名ある松の木四、五本御座候。
  但し醍醐天皇の御宇延喜元年(九〇一)菅丞相(菅原道真の呼称)筑紫太宰府へ左遷、海上荒れ此の地に御逗留す、その後御他領窪田へ御移り御逗留す、勅使参り今出より御出船ありしとて其の後有難く聞き当社を建立して氏社と敬い祭る。回り地名を宮田・西宮田・宮の前と申し候。
一 同貴布祢社松山黒田村にあり。
  但し諸入用受けず、尤も神輿修覆の節は少々勧化に付け申し候。
一 檀寺は御他領黒田村宗通寺、真言宗本寺は谷上山なり。
一 松山鶴吉村泉は黒田村を通り大谷川へ引き入れ用い来り候処、川高く成り延享二丑年(一七四五)三月御本分へ御頼み有り、砥部大庄屋田中権内・下唐川村菊沢九左衛門・新谷市場村佐伯喜三右衛門取扱う。彼の方も上への伺いかたがた毎々参会にて北里田村へ新井手出来、床米出すべしと。
一 当村浜手松原等下吾川村論が正徳元、二年(一七一一、一七一二)のころよく発る、併に享保十二丁未(一七二七)相論に及び大洲双方御役人様御立ち会い、絵図面を以て境分仰せ付けられ意趣書き分けがたく略す。時に寛延四辛年(一七五一)末境分立て仰付けられ候。亦候(またしても)双方百姓畑余り畝論これ有り候。
一 同医者住田玄碩の先祖由来は加藤散夕と申し候。森村地名住田に居る、其の後当村へ参り医行仕まつる。一子御座候。先きの庄屋六郎左衛門男子多く、右散夕跡の医行起こし候処、御名字恐れ多く先祖住み候意味を以て住田と名乗り相続仕まつり候。親話し候は大洲御城練り屏の御普請祖父へ仰せ付けられ成就仕まつり候由申し伝え候。
  但し病気その心痛は申し上げるに及ばず胸の痛みに大妙薬を披露仕まつり候。殿様御参りの節冥加のため差し上げ申し上げたく、かねがね御伺い申し上げたき存念に居り申し候練り薬を掛け目二匁半分ずつ二度用い候よし。
一 新谷分の時、当村原組に親へ孝行の者あり。与右衛門寛保三庚癸亥年(一七四三)四月、母へ孝心によって御米四斗下し置かれ候。時に所持田高一石一斗八升・畑高六斗五升一合、新谷より諸入用足役永代に御免仰せ付けられ候。
  但しその後天明二年(一七八二)大洲に相成り村諸入用役出し候様仰せ付けられ、米二石五斗つかわさる。その利にて入用調え候よう仰せ付けらる。母の死後右米回しおき候て鳥目(青銭のこと)百目寛延元辰年(一七四八)差上げ候。時に同年二月御上より麦三石下し置かれ候。その後宝暦十二壬午年(一七六二)以前所持の田畑入用御免、難渋も仕まつらず回し置き候故、冥加の為とて米十石差上げ候。同年御上よりとろめん(とろは梵語もめんのこと)袷・御羽織拝領仰せ付けらる。その子与右衛門相応に百姓相続仕まつり候。
一 此の黒田西往還を巻く小松原立ち出て、海原広く打ち見れば太山寺山・高浜瀬の船掛り、向かう左は後居島母居島今興居島と書き伊予の富士と号す名山あり。並びに引立つ二神島峯の妙見社、古来より所の庄屋二神何某祭り二日は麻上下・大小、両若徒(二人の若いとも)に道具を所持参詣す。その後島中の老若男女参詣す。下に釣島・百合・大みな瀬・小みな瀬・大洲(領)青島三里の船路長浜川尻遙かの間、西見れば硫黄が島・八島といい、かすみて向こう豊後という。聞捨て行けば松崎古城跡、川尻上は窪田村、昔延喜の御宇菅丞相筑紫へ配流の時滞留ありて御姿を刻む。ならびに鵜の硯とて海より上がる。鳥形の硯すり給えばおのずから出で墨となり、法華経七巻書き給うと。京より勅使頭の三位殿下向あり、勅使橋に向かい丞相見やり給うと頭の三位殿たちまち即死、寺内に塚あり、随臣残らず即死して百姓半左衛門の屋敷に塚あり、勅命故丞相は今出より出船仕まつり給う故に今出と書くと申すよし、程なく所へ小社を立て祭りし所焼失して、不思議なるかな御作の天神はるかの田の中へ飛び居り給いしこと領主へ聞こえて結構なる社普請有り。安楽寺は檀家建立、彼の鵜の硯少しいたみながらあり、御神体にふすも(ぼ)りあり大像を作り内を刳り修覆これあり候。御祈願所御信仰あり、参詣し下りて海面眺むれば御大名の登りくだり船うた・太鼓・笑の眉、走る千鳥と戯れてさし桃見やるくつわ崎、浪のさし引きわやゝと、日暮れの浜諸社の太鼓とんゝと入相の鐘ふり袖手折り世話もなく裾取りかかげ、泊まり鳥も女鳥と男鳥がやゝと帰りける。
  さてこの表船中より地方の山を詠むれば太山寺の形り天の逆鉾と見る、女肌はほんのりと見とる松山勝山の城、道後湯の山過ぎて、俵飛び山俵飛び来たりて観音となり祭る川上谷の金毘羅は昔佃
次郎兵衛建立という、さて高だかと石鉄山、近国の高山故六月ならでは雪消えず、諸国参詣の者河を見次第乱髪して垢離をかき、不動真言荒行参り群集して、右には三坂・浄瑠璃寺、西の大洲御境大友山の古城跡、麻生口なる古城山麻生金毘羅大権現は松山御城下郷内の正面にして信仰す。矢取川より八倉山・行道山・大谷・谷上山麓に建つる称名寺、南遙かに見上ぐれば砥部・鵜の崎・障子山、見戻すと吾川福田寺から稲荷山、大平奥に山高く佐礼谷鎌野古城跡、三秋に水の明神山高く、見下ろすと中村古城跡、森の山には最乗寺、浜を下目に大門寺、その中平地凡そ十余万石の中にあり。伊豫岡八幡山近き山へは七、八町北は五、七、八里平かなり、その田畑の中に有名な山あり。森山より下、高の川上灘権現山の古城跡、高岸より高山続き長浜の風景十余里の浜、往還町々の白壁、出入りの賑わい賤がやの魚引、生海鼠こぎ船、磯歩行・磯舟遊び婦人覚えず裾からげ、太公望の釣りする風情、海鳥色に沈みつ浮きつ見れば羽をのす烏の鵜まね見やり見下ろす。風と競る方もなかりけり。

    同郡下三谷村
一 先きの庄屋市郎左衛門より叔父宮内与一右衛門買い請け相勤め、与一右衛門、宮内小右衛門三代相続くなり。
一 氏神広田大明神は村半分の氏社なり。
  但し御先代様御奉納御額広田大明神は大洲城主加藤泰候謹書御印、右京都へ神主持参つかまつる。金箔立派に細工仕なし、御紋は御提灯四張拵え帰り、社の中殿に下賤の上げ物を除き、右御額掛け奉る。祭礼の節は御提灯を掛け御見咎めに預かり差し出す。恐れ入り差し控えの御願い申し上げ候処、それに及ばず候段仰せ聞かされ、御提灯は御預り下させられ候。神事の節御額殿闇き所に差し置き、さてさて恐れ入り存じ奉り候。
一 同下村半分余の氏神は埜中大明神
  但し上方に当社号大社を勧請申す。色々白水抔と申す地名これ有る由、額は御公家の御筆、神輿御休所は松本と申す所にて両社鈴神楽あり、松の大木などある様子古所と存ぜられ候。月々朔日・十五日夜更、龍の灯右大松に上ると申し伝え候。右埜中社根元社地と存ぜらる。北に祇園社あり、御神体は牛に乗り居り給う所、その牛たびたび太り玉殿をはりさき、たびたび造り直し古きは社家の床に所持仕まつり候由、北松木沢御能の虫喰松と申し伝え候なり。
一 檀寺は真言宗伝宗寺、本尊は観世音菩薩代々秘仏
  但し寺回り地名を大見と申す。檀家の内三十軒余り昔より火難一向に御座無く候。是れ本当の御陰なるべしと申し候。さて又、大般若経六百巻三箱に入り、割書板一箱は痛み新箱なり。経の奥に備後国鞆の浦瑞雲山安国禅寺公用なり。応永六己卯年(一三九九)極月十五日と書付けこれ有る由、又以前龍宮より上りしと申す鐘御座候処、夜々瑞雲安国寺へ帰ると鳴り候故、鐘と般若経かわりしと申し伝え候。この経につきては十六善神絹地唐筆にこれあり候ゆえ、常には用ひず候。
一 明和元年(一七六四)の頃、当村北沖御他領境の川は大谷より出で往還を渡り上野村郷川原という。下は平松川、その下は他領横田村川、それより当村頭王と申す所より下南側を万代土手と申す。並木の如く松立ち、六、七丁の間田地囲土手なり、この下、角を曲りかねの如く折れ南へ水落す。この所の西は黒田村、東は下三谷村土手、以前大水の時には御他領横田辺りにて土手押し切り黒田双方へ撒け申す所、追々向かいの土手仕堅め、南より八反地川尻無しという、手を打合わす如く水出合う堂口と申す所なり。故に黒田村毎々水ゆたえ、立臼の上にて煮たき仕まつる所と申し伝支候処、女子供まで申し合わせ、いつとなく西土手丈夫にいたし、彼の八反地水と付き合い下へくだること能わず。村方三十六町田地へまたぬまり、湖水大海の如く数日だけは植えつけ時を失い、野切れ実のりを損じ迷惑す。黒田方は水難少しもなく煮たきも心能、農業勇ましく調うるを恨めしく、村方二千石に及ぶ所に百姓、黒田土手を以前の如く切崩すと昼夜騒ぐにつき、庄屋役人御蔵元へ注進櫛の歯を挽くに付き、玉井三右衛門・菊沢与八へ至急に申付けられ、御代官人見次郎右衛門殿・山中三太夫殿御供を仰付けらる。庄屋小右衛門宅へ頭立百姓しばしば召され、先々静まり申すようにと仰せ聞かされ候えども残念ながら得心仕まつらず、二夜明け方御米御歎き申し遣わす可く候間、何分と申聞かせ候えども近年水吐け願い候ても御聞き届けこれ無く、是れ又当時の虫押えなど申し候につき三右衛門・与八一命にかけ候ても相歎き米遣わされ、始終は新川付けらるべしと申し聞かせ、納得仕まつらさせ御両官、両庄屋蜻蛉の如き蚊にさされ御蔵元へ帰り候。時に其の暮遣わさるべき御米春まで相渡さず、菊沢与八へ百姓罷り越し催促に付御歎き申し上げ御米遣わさる。御替え地詰御郡様右御両官様より御掛け合い林兵右衛門様御越し遊ばされ片岡丈平・菊沢与八召し呼ばれ昼夜御細談筆紙に尽くし難し。新川成るに定め、御普請奉行山田清左衛門様・下役衆、夏普請松材杭を立て砂かき上げす。新土手折節大水に押し崩し山田清左衛門様・御下役・両庄屋簑笠にて水を防ぎ上下の難儀恐ろしき事に御座候。追々成就仕まつり候処、川幅狭く浅くかえって両川の水北沖へ責め登り、数日水ゆたえ、三十六町迷惑につき天明四辰年(一七八四)御代官岡井弥藤次殿・菊原円助殿御願い申し上げ、大平仙波新五兵衛・釣吉村万左衛門より下吾川村御他方併びに新谷黒田方へ掛け合い、書付け等取替わさせ只今の通り出来にて先ず相済み居り申し候。
一 当村へ御他領泉貰い取り候事、往古より取り来り候分水に御座候。今の水筋其の意味に御座候。横田村の井手を借り同村よりまた水を貰い足り申さざる時は大溝・鶴吉より水を貰い近年都合宜しく御座候。

    同郡上三谷村
一 先きの庄屋伯父武知儀右衛門より買い請け、宗八・武知和平治苗字帯刀永々三人扶持、友三郎三代相続なり。
一 氏神は若一社 尤も村内平松組は宮ノ下村氏子なり。
  但し元暦(一一八四)の頃より養和(一一八一)時代、一の谷・壇の浦・赤間が関の戦に従い河野四郎道信一族は若一壬子の神力によって三種の神宝京都に入り、河野一族に鎌倉右大将二位殿より御教書に三谷・吾川・伊与久米・浮穴知行せり。当社の産子は向井・垣生・武知・高市の郷民なり。建久六乙卯年(一一九五)九月吉日、別当正円寺権大僧都快源、神主大舎人藤原朝臣森正とこれあり候。縁起くわしく御座候間、御披見希い奉り候。神体は熊野権現なり同縁起天正五年(一五七七)太閤鎮西に進発の節、当地に滞留の時、黄巾の賊(中国の古事による、賊のこと)が若一へ乱入し社頭社家迄悉く破却せし所、慶長元年(一五九六)三河国藤原朝臣加藤左馬佐様、当国按検使に来たり給い若一社は高市氏社、源家累代の鎮守として捨て置かず、慶長七年(一六〇二)釿初め、奉行友沢兵衛尉、三谷氏子として同年八月に成就して遷宮ありし若一の社なり。
  社領二百石なりしが取り失い、今免田五石余残れり。故に多喜寺小庵の所に墓所とし正円寺を檀寺祈滅寺とせり。若一境内北に大松の上枝折れて下枝にかかり三十年も生々たり、近頃枯れ落ち候。この松に金毘羅来迎ありと申し、心願すれば叶うと申して参詣仕まつり候。いかさま、右の枝は往来の者見るに及び久々不思議に申し触れ候ことに御座候。
一 村中檀寺は正圓寺なり。
  但し寺内に熊野三所権現勧請社あり。若一宮と同体、以前当時別当多喜寺祈滅寺なりしが、河野滅亡の故寺社領失いかくの如し。古来権現を当寺より松山石手寺に勧請(神仏をうつし迎える)あり、彼の寺にては熊野山と唱えり、故に地名正円寺とて石手寺の辺りにあり。
一 同村山伏持ち、北面山吉祥院惣持寺西浄坊は人皇一〇七代正親町院御宇永禄元年(一五五八)の開基なり。
  但し本尊聖観音脇士あり。地中に堂あり定朝僧都の作、御長三尺七寸の木像なり。本寺は大和国内山永久寺なり。代々石鉄山(石鎚山のこと)先達、檀家は下三谷・松山(領)横田・筒井・小泉なり。石鉄山燈明料として田地元米(玄米)少々寄付御座候。さてまた金毘羅は人皇一一〇代明照院御宇寛永十七年(一六四〇)三月十日、住職に御夢想御託宜に依り御来現あり。今は池となり南山相生の金毘羅といい、縁起にくわし。この松に折々宝冠阿毘羅尊来迎ありといい伝う。寛永二十(一六四三)に堂建立を御願い申し上げ候処、御勤番高橋作兵衛様御聞き届けあり御免往来書下し置かれ、二間半四面に成就仕まつる。その後右繕いは村より仕まつり候。灯明料少々寄付御座候、また近年中五前の太夫金毘羅の儀社付きと申し出で、双方御聞糺し下させられ、吉祥院持ち決定仕まつり候。当所御勤番の御郡奉行永田権太夫様より御書付け下し置かれ所持仕まつり候。尤も毎年十月九日花屋神楽執行仕まつる、その外常に山中へ入り候義停止仰付けられ候。文嶺(麗)様(加藤文麗は大洲第三代藩主泰恒の二男)馬鶴の御絵掛り居り申し候。
一 大谷口中御前社先年は大谷番所向いにこれ有り候処御願い申し上げ井上忠助殿御見分にて只今の社地に相成り候。

    同郡釣吉村
一 庄屋の儀は上野村玉井三右衛門預かりの所買い請け、小右衛門・阿部万左衛門なり。
  但し私先祖は宮ノ下村農士にありつく、寛永(一六二四~一六四四)五代目仁左衛門上野村にて高百石余り所持と上野村高帳に御座候。其の後五、六代は上野組頭相勤め御米等下し置かれ候。御替え地に成り候節、釣吉村と分郷になり釣吉にて高十八石所持かたがた以て右小右衛門買い請け庄屋仰せ付けられ候。
一 氏神 御他領出作村恵比須八幡宮なり。
一 檀寺 上野村真言宗本願寺、本寺は谷上山なり。

    同郡上野村
一 庄屋先祖は宮ノ下村庄屋水木より分かれ候。元祖三郎右衛門、三右衛門、孫右衛門、与三右衛門、三右衛門二字帯刀、玉井儀兵衛二字帯刀三人扶持、玉井三右衛門二字帯刀ばかり、玉井和助、元之進九代相続なり。
  但し私に先祖は泉州岸和田浪士にて、土州中村郡に住む。それより天正(一五七三~一五九一)の比当南神崎へ罷り越し、先きの中村源左衛門は紀州家中に有り付き、弟六左衛門は南神崎村庄屋水木何某へ入縁仕まつり庄屋相勤め申し候。時に大和様御父円明院様御隠居として打出し遣わされたき御願い叶い、元禄九年(一六九六)より前五年均元米四百八十二石余ずつ所々へ御渡し成られ候処、土地渡し候よう仰付けられ、正徳三巳年(一七一三)七月、土地受取りの御役人平岡彦兵衛様、御手代藤木丈助殿・山下助市殿神崎へ御出で、上野五百石添え御渡し相済む。さて右玉井三衛門役中、寛永元年(一六二四)十二月晦日火難、家財・代々、持ち伝え候品・玉井儀兵衛初めて二字帯刀御書付け悉く焼失す。右火災後御祢美の御紋付・御上下御目録頂戴す、年号は相分かり申さず候。玉井三右衛門隠居御賞美御書付け所持仕まつり候。また元祖三郎右衛門のとき、寛永元年(一六二四)加藤左馬佐様家臣本山三郎右衛門・永井市右衛門殿御検地帳所持仕まつり候。また右孫右衛門弟源左衛門は釣吉村庄屋相勤め申し候。安永九庚子年(一七八〇)三月御願いにつき南神崎大洲御領に成り、忽那内高九百石、津国池尻南野村都合千五百石御公料に相成り候。このとき松山領より宮ノ下村へ御引渡し、御役人御代官猪口兵助、御目付橋本源吾、御下役足軽まで
  大洲領御郡藤江善左衛門様・小野伝五衛門様・神山市郎兵衛様、御代官岡井弥藤次様、御中見岡本由介様、足軽まで十二人、双方御上下合わせて六十人程なり。厳重に相済み候。尤も御宿松山は徳丸村庄屋宅、大洲は上野庄屋宅なり。
  右につき先年宮ノ下村へ御付けなられ候五百石高は安永九年(一七八〇)より元の如く上野村支配に仰せ付けられ候。庄屋玉井和介時代なり。この玉井先祖戦場にて夕顔の蔓に取り付き討ち死せしとて今に代々夕顔を作らずという。
一 氏神は御他領西小泉村玉生宮なり。大半の産(子)参り仕まつり候。
  但し玉生神元は長尾一本松に鎮座なりしという。氏子七、八軒は宮ノ下伊曽ノ神社氏なり。
一 同村郷分氏社 伊豫神社
  但しこの上に藪神あり、三か月形の溜(池)あり、昔夏水をかえしところ鏡を取り出し、これを御神体に祭るという。この藪神は月読命なりと諸国より崇敬し遠国の者尋ねて参詣すという。今社人家は老女ばかりにて分かり申さず候。恵姫命とも申し地名「弥光井」という。藪神は池の南にあり。
一 行道山に八大龍王小社あり。
  但しこの山の東中程、長尾山に以前石塚と見え、御普請方より石取りくずされし五、六畳敷の穴あり、腰物または焼物、などあり、唐津物は一向用立ち申さず候。其の辺所々に右様の高所御座候。さて行道山に往昔大人立ちて朝・昼・晩に投げし石とて、長尾の谷奥より七、八町ずつ隔て御他領草田池の辺り田中に対に並らべこれ有り、これ大人の遊び石と申し伝え候。また行道峯より川井村分へ八町下りてちち子が池あり、昔御他領余土村百姓柴刈りに来たり、彼の池の辺りに参り候処、大なるどんこ背を干しいたりしを取りて、藁に包み持ち帰り重信川を渡る時、虚空よりどん子殿何国へ行き給うという、どん子答えて我は余土むらで背あぶりに行くといえり、柴刈り驚き捨て帰りしとなり。
  上野村庄屋南山越え向かい谷如何様長尾にて今岡山麓まで十二、三町御座候。右ちち子が池は去る未の夏雨請いに川井村の者水をかえ干し申す所、大鯉居り申し候由申しふらし候。
一 厳島大明神小社あり、長尾谷裾にあり。
  但し古社と存ぜられ、七条と申す木、山桃の木に似たり、太さ三抱えも御座候。田畑の徳米を以て毎年六月十七日夜神楽執行仕まつり候、伊曽神社の末社なり。
一 百姓政助、坪内氏子孫居住仕まつり候。
一 組頭時右衛門、玉井氏子孫にて御座候。
一 組頭小右衛門、阿部万左衛門の出所にて御座候。
一 百姓忠蔵・俊蔵は武知氏両家相続仕まつり候。

    同郡宮野下村
一 昔は南神崎村といいしを今改号す。先きの庄屋宇都宮茂平より買い請け、当庄屋町田氏貞右衛門下三谷より罷り越し候。
一 氏神伊曽神社 伊豫国二十四社の内、故有りて三谷村平松にも御同体一ノ宮氏子あり。
  但し応永(一三九四~一四二八)比、当所へ御鎮座、伊勢五十鈴神と御同体という。二名島へ行かんとの霊夢によって、天の岩楠船に召し真崎(松前)にただよい東又谷上山に光り、平松沖に船よりしを見掛け立ち寄り、御神体を上げ奉らんとすれども上がり給わず。新三郎に告げありて安々背負い三谷の幡屋にはた立て仕まつり給う。後、平松に一ノ宮を立てて祭る。それにより神崎庄昔は入海なりしが、地名北に沖夷子・鳥居、西に龍王・行堂・長尾・音地とは太夫が昔音楽を奏せしなり。故に郷内敬い大いに盛なりしが、応仁の乱に悉く滅亡す。時に持統帝御宇、豊州国府長者天皇召さるる舟当沖にて難あり、然るに当社よりその舟に光さしければ長者神拝し、風波の難をのがらせ給うなれば御社建立せんと言う。直ちに悪風静まりしかば、この故によって神殿は唐木の中殿、拝殿を造る。尤も伊勢の例故神殿は茅葺なり。第一船守護伊勢へ参る同前という。伊曽神社古神号は海上より迎えしより、吹上け大明神と号す。その頃海上荒れしにや、八、九十歳(年)以前神主武知伯耆は大三島太夫へ話しあい京都吉田へ伺い古名伊曽神社と申す由、その時右神も向後(これからのち)西海へは背を向けじとなん。右背負い上げし縁を以て新三郎御前脇に小社あり、拝殿上り石の様に仕あり、右塩のみちひある石とて社人は踏むこと用捨をするという。
  三谷幡屋に木船大明神あり。
一 今岡山は孝霊天皇第三の皇子御廟陵あり。
  但し松山御領鶴吉の内、この山より八丁下り親王宮伊豫神社と申す前に御社あり。
一 先きの庄屋宇都宮茂平の跡は子孫相続御座候。
一 同氏茂平弟は別居仕まつり居り申し候。
一 右以前の庄屋水木氏、子孫幸蔵、清五郎、伊左衛門、彦市、忠蔵子孫相続仕まつり居り申し候。
一 長岡氏祐助と申す子孫相続居り申し候。
  但しこの親は長岡仲介と申し、御公料の内二、三年庄屋後見仕まつり候。其の親三遊は土州長岡郡より浪人の由、この三遊時分に当御領分の茶釜を御城下へ御取寄せ遊ばされ召上げられ候て、新茶釜並びに御称美として米一俵頂戴申し候由話し申し候。
一 太閤秀吉御子秀頼の御時代、後藤又兵衛、当村長泉寺住僧が伯父にて御座候由、大坂落城後又兵衛回国の姿にて当国へ渡り、久万岩谷(屋)山へ参り座禅しおり候処、其節松前城主左馬之佐様御参詣成られ、先走りの申す、今日は国守御参詣遊ばされ候間、片付けおれよと申し聞かししが、打ち仰ぎて大の目玉を光らし、国守とは加藤左馬之佐かと申すに驚き走り帰り見坂にて右言上す。故に佐馬之佐様これより御帰城ありしとなん。其の後又兵衛宮ノ下村へ参り伯父に掛り相果て、半弓・種子ヶ島鉄砲は一所に葬り笈は只今寺に御座候。昔は村の中に寺御座候由、百姓屋敷に彼の塚御座候。

    伊豫郡八倉村
一 庄屋菊沢武右衛門
  但し庄屋武知儀右衛門、子孫由来は幸治三人扶持二字帯刀、倅周助は不身持御上の御慈悲を以て倅九十郎相続の所形の如く不身持、尤も年十六歳一ヵ年に八、九十石新たに借り仕まつる、家内揃って取得無く無拠当寛政十一年(一七九九)臘月(十二月)十八日家督御取上げ武右衛門へ仰付けられ罷り越し候。
一 氏神は宮ノ下村伊曽神社・山王神社両社なり。
一 先きの庄屋窪田氏子孫御座候。勝治、房八なり。
一 重松氏子孫兄弟鎗所持仕まつり候由、困窮に居り申し候由。右持ち伝えの品他方へ出さざるよう申し置き候。
一 日吉山王社は八倉山の半腹にあり。
  但し神護景雲(七六七)の頃より祭るという、河野通直の時代は三月の祭礼に市、御能御信敬ありとなり。
一 檀寺入仏寺 本尊は阿弥陀如来。
  但し昔峠の谷夜な夜な光り諸人不審立ち登り見れば、時ならず蓮の花盛りをなす。この花光るべきにあらず、掘り見んと三尺ばかり掘りければ、三尊弥陀仏顕われ給い、各々信心を発し本尊とせり。今の堂は享保十四年(一七二九)に建つ。寺号は林光山蓮花院入仏寺という。昔話に文脱と申す回国この谷にて死ぬ、病中などはしばしば光り候わば如来の来迎ならんと申せしなり。
  この景体(境内のことか)はしんゝ霊々と見え、信心おこり、昔数々葬りしなり。谷を掘れば切石数出ず、今の堂寺柱石は皆其の切石なり、昔は高野の黒谷骨堂の如くなり。
一 明和八卯年(一七七一)、両麻生下五か村と大戦の趣につき、六月九日夜半に御蔵元より中村の武知政右衛門、唐川の菊沢与八直ちに参り候と仰せ越され、其の儘谷上を越え上野庄屋下にて、戦場より色青ざめ吐息をつぎ帰着に尋ね侯処、今六つの戦いと申し驚き入り、急に八倉へ着き承る所、戦は厳しきことその昼夜相分からず、下承り候ても分からず。翌朝宮ノ下には大怪我人かずかずかき帰りし由、腰輿(人の手で腰の高さまで持ちあげてのせていくもの)または負い帰りし由、追々八倉佐左衛門、宮ノ下庄兵衛横死に決し、縁類傍輩に番御達し申し、郡より添番かれこれの内郷目付飛田貫左衛門、手代村上清五郎を遣わされ、八倉に詰め居り申し候。御蔵元より松山へ御掛け合い、十日も過ぎて横死の遣り取りに相成り、宮ノ下へは松山徒目付両人請取り改めに向われ場所立合い、宮ノ下へ渡す方は宮内小左衛門、両麻生庄屋役人、長百姓、下五か村庄屋居村役人残らず、長百姓朝四つ時約束の所、八つ過ぎ候ても、もやりもやり(ぐずぐず)として片付かざる故、与八、貫左衛門殿へ申し候は、さてさて不埓に候。罷り越し様子承わるべしと申し候処、何卒参る様申され候につき、立付(膝の所にすそをひもでくくりつけ、下の方はきゃはん仕立てになっているもの)を着、八倉佐左衛門請け取る連中に似せ罷り越し候所、数か所に疵、書中に鉄砲通り穴・刀疵とあり、所詮この証文出来せず候。早くこのか条抜き請取られ度候。向うの身になり一刻も早く済まされたく、何日支ても望には出来ざること、村々受持つ御役人の手前も勘えらるべきと申し達し、与八帰り候て漸く相済み候。さて八倉佐左衛門夜半になり候ても訳立ち聞えず、見分にその場へ参るも前の如く埓明かず、与八参るようにつき罷り越し候処、佐左衛門弟松山御左官佐平は立腹し村庄屋同様の証文ならではと云う。去りながら、この上は早く請取り仏事祭りて然るべく候。いかに望まれても二、三か条除かず候ては済まざることと厳しく申し聞かす。麻生には余り数か所と申すにつき、疵何百所も苦しからず、右さえのき候わば早く済まされ候と申し延べ、即刻遣り取り相済ませ八倉庄屋へ四人帰り候。明六つ時新谷郷目付浜田瀬之右衛門八倉へ寄り、与八へあいたき由出向き候処、御世話故双方相済み只今蔵元へ届け候由挨拶し帰られ候。
一 右相済み、古樋掛け水捨て置かざることの御達し申し上げ、御他方御掛合い遊ばされ、武知政右衛門・菊沢与八郡夫を以て筧扱い掛り仕まつり四人は八倉に詰め、両麻生へも御家人庄屋へ仰付けられ数日相詰め申し候。
一 右に付き八倉村は一水口故、御城下より上下御役人、五、六十御入り込み遊ばされ御聞き合い、政右衛門・与八内取扱い御賄世話仰せ付けられ数日にて相済み御引取り、政右衛門・与八は一先ず帰宅仕まつり候。
一 其の後御城下御蔵元へ御呼び出し、御引合わせ御吟味御辛労下させられ候。
一 翌安永元壬辰年(一七七二)二月九日、当村より下五か村備中へ罷り越し、双方同二巳年の夏口書き仰せ付けられ、同三甲午年二月廿三日帰国仕まつり候。
一 右片付き古樋本掛り、松山は保免村庄屋九左衛門・筒井村元右衛門、大洲より唐川村庄屋菊沢与八・大平村仙波新五兵衛、新谷は稲荷村向井九兵衛・黒田村鷲野為右衛門六人仰せ付けらる。水口故八倉村へ会し荒まし対談並びに北黒田村庄屋宅町宿へ寄り、台石筧の寸法を両麻生下五か村取扱い六人せり合い、双方聞合いては参会し参会し、八年の間折り折りに申し話し漸く天明元辛丑年(一七八一)十二月七日、台石筧出来、残らず立相掛方調済み、証文は厚紙立次に致し長さ八、九尺あり、絵図文言書き立て、凡そ三十通程相認め、両麻生下五か村双方組頭、長百姓取扱い六人立相、台石筧の勾配相改め証文遣り取り落着す。明和八辛卯年(一七七一)より天明元辛丑年(一七八一)に相済む。十一年ぶりなり。

    里浮穴郡麻生村
一 上麻生村庄屋は享保十九年(一七三四)、吾川村庄屋八郎兵衛預かりの節、先祖の意味をもって買券にて請取り、庄屋門田久平、門田与兵衛、門田与兵衛、門田与兵衛四代相続なり。
  但し先祖は当所の住人、松山左馬佐様(加藤嘉明)の節、門田九郎右衛門庄屋仰せ付けらる、元和(一六一五~一六二四)後六代相勤め、享保十七年(一七三二)小屋村伊右衛門へ相譲り間もなく伊右衛門退役して、吾川村庄屋八郎兵衛預かりの時、享保十九年(一七三四)門田久平庄屋役を蒙り相勤め申し候。当庄屋宅上の二間は円明院様千里山御茶屋なりしを延宝(一六七三~一六八一)のころ下し置かれ相建て候屋敷にて御座候。御先代憲章院様(大洲第九代藩主加藤泰候)唐津山へ御越し遊ばさせられ候節、当宅へ御入り遊ばさせられ候。その時本源院様(大洲第八代藩主加藤泰行)御自筆二軸海日生残夜江春入旧年床に掛けおき奉り候処御目にとまり召し上げられ、一軸は御城に留め置かれ上の一軸は御返えし下させらる。外に法眼栄川公の筆、絵は柳に連鵲拝領仕まつりありがたく永く家の宝と所持仕まつり候。寛政八年(一七九六)苗字御免、同十年(一七九八)帯刀御免仰せ付けられ候。同冬またまた当殿様御入り下させられ候。先祖九郎右衛門より前後すべて十代御厚恩冥加の至極有がたく相続仕まつり候。
一 氏神は三島大明神御他領森松村・井門村・御領中麻生村、新谷下麻生村の氏神なり。
  但し当社の由来は松山越智郡三島の神庫この地にありて年々神祝い取納めさせらるるによりて宮殿の営構を本宮に准じ奉祭し、河野家より六十八町寄付これあり繁昌なりしと申し伝う。河野没落して宮社ことごとく兵火にかかり野原となりしを産子建立の社なり、村の理正院金毘羅は当社地へ初めて降臨あり、御神託によって彼の東向山へ安置し共に奉仕す。さてまた貞享(一六八四~一六八八)のころ大風に当社神楽殿大いに吹き傾きくずれんとせしかば御願い申し上げ真繩など拝借し、起こしてみれども人力に及ばず、また翌日数人を増し起こさんとて帰りけるに其夜不思議に当社鳴動す。真繩の処に差しおき、人々肝をひやして逃げ帰り、翌朝見るに元の如く起き直り居り候。すなわち当神楽殿に御座候よし老人ども申し伝え御神力を恐れ敬い候。時に明和八年(一七七一)御公料宮ノ下村はじめ五か村と水論おこり、備中御沙汰に至り上下御心配いささかならず恐れながら御祈念申し上げ、おいおい御祈祷仕まつる。安永年(一七七二~一七八一)中御紋付・花瓶一対御寄付くだしおかれ有難く、それよりなおもって御上の御武運御長久の御札を御蔵元へ毎年差し上げ申し候。当社の末社は凡そこ十余社御座候。さてまた神主代々相続し、もっとも七代跡の盛清は慶安三年(一六五〇)八月十七日播磨大掾(古官制で地方の第三等官を掾という)に任ず御口宣(昔五位以上の官位を授けたとき頭の弁が直ちにその旨を勅命を伝えた)相伝わり申し候。
一 東向山金毘羅大権現 理正院本寺は谷上山なり。
  但し慶長(一五九六~一六一五)年中、中村三島社地へ降臨あり、庄屋産子沙門(出家して仏道を修めるものの通名)宝道開基、当山へ安置せり、元和(一六一五~一六二四)年中遷宮、導師は石手実雄法印なりと棟札にあり。当領主御取立てとして祭礼・法会・市御免下させらる、その後享保(一七一六~一七三六)のころ御紋付・御提灯御奉納す、将又嵯峨御所金剛院宮様御登山す、その後寛保(一七四一~一七四四)のころ同御所覚勝院法務僧正了恕御登山す。御自筆の御額御奉納、由縁によると寛政十年(一七九八)御所より菊御紋付・御幕・提灯御寄付遊ばされ御祈願所に仰せ付けられ候。
一 竜池山長善寺 本寺は大和粕瀬(泊瀬)小池坊なり。
  但し理正院の麓にある本尊正観音は天竺杜里の御作なり。昔焼失し元禄(一六八八~一七〇四)年中理正院建立なり。
一 新谷(領)下麻生村庄屋始まり宝永四丁亥年(一七〇七)三月灘町の住人清右衛門求め来たり庄屋宅を立つ。宮内九右衛門・宮内清右衛門・宮内幾右衛門・丈左衛門五代なり。
一 円通寺 禅宗本寺は京花園妙心寺なり。
  但し本尊観音土居備中守の夢相に告げ言あり。暫く左の腕痛みてやすからず、依りて永正十一戌年(一五一四)仏の痛み繕い直しけると云い伝う。小寺重光の山腹にあり。
一 八蔵寺竜雲山といい、麻生の庄地名を八倉と云う。
  但し真言宗高野金剛三昧院の末寺なり。河野御取立ての由、元禄年中(一六八八~一七〇四)の建立なり。
一 毘沙門堂は重光の内なり。宝永六年(一七〇九)建立、南堂和尚・恵通和尚・智定当住なり。説に曰く右二世恵通和尚は元禄四年(一六九一)四月八日生まれ、明和七寅年(一七七〇)二月十五日寂す(僧の死ぬること)。寿八十歳なり。生死寿敬の数釈尊のごとしと云う、徳の至れる所かと思えり。
  但し案ずるに釈尊の寿は七十九歳又八十歳とも、誕生は周の昭壬二十年(前一〇三二)四月八日なり、四月は今の二月にあたるべし。入滅(死すること)はまた周の穆王五十二年(前九五〇)二月十五日今の十二月なり。周は子の月を正月とせし事にて夏正(中国が夏を国号としていたのは紀元前一五七一~四五八この時代の正月のことをさす)の例とは違えり。然れば恵通の生滅は祖師と時を同じゅうせしとも云いがたし。
一 矢取明神川を矢取川と云うも此の明神御鎮座ある故歟。
一 十二社権現は往古(大昔)十二宇(宇は家のこと)相並び十二社と称する古社なり。大友の真鳥の城落城の節焼失す。その後小社を立て十二社神を祭る由、社家古老の申し伝え候。
一 荒神社は荒倉川の辺にあり。古くは荒神市立ち繁昌せしと申し伝え候。
一 御幸神社は下麻生村の百姓半右衛門と言う人の霊なり。
  但し分郷の節、論仕まつり刑罰に行なわれ、その憤恨村方へ崇り神に祭る。法名は学心玄全信士という。
一 古寺号三角寺本尊薬師併びに雨請い所ありは熊野権現社、弁財天社あり。
  但し旱魃には理正院五穀豊饒を祈るたびに瑞雨(めでたい雨)あり。堂の傍に三角石あり、故に寺号おこるか。堂前に五輪石浮屠(石塔)敬道上人の墓、瘧病(おこり)など祈れば治すという。ふもとに庚申堂内門跡といい、一丁下り仁王門跡という柱石残りあり。近所の名に護摩田・塔本堂が市、昔市賑わうという。山前の地名は三角と云う所なり。もと十二坊の本寺大友真鳥の祈願所、真鳥参詣の時住僧無礼なりと即時に害し、堂院に放火し悉く焼失せりと申し伝え候。
一 牛祭塚とは地名、野津ご塚穴あり、毎歳五月四日の夕方総百姓家々麦をいり苅草を添え参詣し牛馬の岩乗(強健)を祈り、終りて童は市の瀬川原東西にわかれ水掛けを始む。凱歌をなし賑わい、肥前長崎の船競いに異ならず、童子の戯(たわむれあそび)いと面白し、明和八年(一七七一)古樋論大事の時より戯中絶し牛馬を祭ることのみとなれり。
一 松山境地名は土旦原、大友真鳥居城の時刑罰の所なり、上り口に五輪石浮屠梅応義紅居士、天文元壬辰年(一五三二)七月晦日とあり、河野七郎討死の墓なりと云い伝う。毎々七月晦日老若群集し終夜仏名を唱え踊りを成し、この里の災難をよけるといえり。もっとも広闊(ひろいこと)なり。これより東南に当たり来迎山といい、昔仏出現ありしよりこの山の尾の上を釈迦面といい又逆面ともいう。峯を伝い原中御境を引割り角力塚といい、その塚中に堀割りあり、故にや割塚と申し伝えるなり。
一 地名に射場の木又は岩木ともいい、土地は広平にて都地という、真鳥の家臣射だ(的をかくすために築きし土手)せし稽古場と云い伝う。また氏神三島神職の墓に大松あり、下五輪の五浮屠に従五位出雲守盛安とあり、印に植えし松と云う。その始めの五輪いつの時代や風雅なると亭(休息する所家あずまや)召上げられ、跡に御建立成られ候五輪申し伝え候。
一 塩売渕は地名、北が市の東、柳瀬川の辺なり。昔ここを塩商人渕のわきに昼寝しいる、大森彦七松前金蓮寺に舞楽ありてここを通り掛りしに大蛇出て商人を呑まんとす塩籠より剱さと抜出して追いさがること数度におよべり。彦七家士に商人を起こさせ右剱を所望し価遣わし故に塩売渕と言い伝う。
一 鏡川の辺を幸内原といい、畑になり耕作す。道の片けわしき所を金坂といい、昔大森彦七通り掛る、美麗なる女が川を渡し給われと云うに付き、背に負い川中に至ると大盤石(大きなる岩)を負いたるごとく、下を見れば鬼の形水に移る、即時に大森をつかんで虚空に上げる、臣下驚き見送れば俤逆に見えしとて逆つら山と云い、鬼形水に移りしを名付けて鏡川と云う。その野地蔵堂辺より女出たる故に魔住の窪と云い、大森彦七組み合い落ちられし所を三隅と云う、鏡川は今の矢取川古名とも古説とも詳ならず。
一 重信川東御境より野津ご柳の内と云い、下に八瀬という大石堤あり、昔より大川をせきいれて用水とする。これを名付けて八瀬水と云い洪水の防ぎに双方劣らじと辛労止む事を得ず、往昔御他領森松村より水囲い土堤を出さんとす、麻生より留めけれども押して多人数を以て築く、麻生の百姓立腹し多人数出て弓など射掛けるにより相とどむ。今に尻なし土手と云い伝う。時に寛永十二丙子年(一六三五)松山隠岐守源行公御入国遊ばされ候ても当村境は訳立なく詳ならずと申し伝え候。
一 宝暦五己亥年(一七五五)夏、森松村に新井関をこしらえ八瀬水を奪う。干田所の麻生に於ては何忍ぶべきとの論募りて双方二百余人彼の関を切りくずす。森松に井門村加勢し互に石砂を打合う事蜜蜂の巣分かれ飛びかう砂煙の勢気天になりわたり、暫時森松井門勢追払い勝利を得たり。
一 宝暦十一辛巳年(一七六一)夏、八倉村御公料宮ノ下・上野村、御他領徳丸村・出作村五ヶ村申し合い両村古樋筧を引き落し、麻生村内八倉村と申す人家へ乱入、老人など痛め公料を鼻に当て狼藉無量(暴行ははかりしれない)両麻生の百姓この筧を落とされしは則ち家内の咽を切り落とされし如しと憤り、小石多き所故におのおの身支度にはわら甲・小じたみ・腕手ぬき・ござ・けはん等身堅めし勢揃いして進むにつき、両村役人役所へ注進、櫛の歯を引くがごとし、その夜すでに勢揃いを手配、先ず樋に掛けずば忽ち干上るに付き材木を渡し筵に土をぬり掛けあるを取り置き、矢取川裾の水門の辺に十五人、往還(道路)の下手の東土手表に百二十人置き、残り百四十人余は往還の上手の東土手裏に伏勢す。五か村勢取って掛かれば早く退き戦うふりににげよ、ころを計らい伏勢起立し一手になり、石多ければ取っては投げ掛け取っては投げ掛け矢取川を逆落としに戦うべしと待ち受け出張り、東雲を今や遅しと待ちしに下より落としに来たらず、むなしく時刻移る所へ稲荷村庄屋向井九兵衛、唐川庄屋菊沢与八差し向けられ下庄屋へ着く、両村百姓庭に詰め居りけり。かれこれ間取る内にまた下より筧切り落とし、何分延引ならず相手になり総勢乱心のごとし。さて与八・九兵衛何分待つべく、相手になりては公料相手理を以て非に落つと千辺万辺申し聞かせ候ても勇み立ち、門番置けども総勢一筋にせり合い、軒口まで取り登り門はゆさゆさ与八・九兵衛素足にてかけ出で帯を取り、今しばらく心しずめよ、与八拙者は御役所へ急ぎ罷り越し、御他方の不法致さざる様直ちに御掛け合いあるよう致し候間、帰るまで延引致しくれ候様申しなだめ、直ちに早馬にて出勤し右の段申し上げ、双方御掛け合い遊ぶされ治まりけり。
一 時は宝暦十二壬午年(一七六二)夏、また森松より新関を上ぐ、以前意恨を含み御他領浮穴二十四か村一致し二千余人かの関を守護し、麻生来らば追い散らさんと東風に砂を飛ばし足堅めして守りけり。時にこの水は八倉村御公料宮ノ下村同用水故加談(担)し、両麻生都合四か勢八百に及べり。宮川原へ勢揃え破軍風を伺い時刻は吉と総勢どっと押し寄せ、爰を必死と石砂を打ち掛け声を立て手寄は鍬柄を以てなぎ立てしかば、森松勢二十余人逃げ行く、遁さじと土手野を十丁ばかり追い払い引取り、かち歌を上げ関切り崩し総勢無難に帰りけり。
  ただし御他方には多人数の事、大勢疵人有りしと後日に評判承り候。
一 同壬午年(一七六二)夏、御他領上野村川上川芝という所へ新関築き上げ、麻生より落とせば上を関し致し候処、関を丈夫にし、ゆすの木を回りへ伐り敷き、土手川原へ竹を焼きとぎらし透間無く指し立て、浮穴郡中絶勢(すぐれていきおいのよい)なる者を撰びて五百余人手道具を持ち、彼の方東高尾田藪の上に二百人勢をふせ待ち受けたり。麻生勢その手配をさとり八十人伏勢のロをふさぐ、故に上野方相違し両勢い一手になり麻生も一手に集まり、足場を心得互に味方を助け、爰は晴れの戦い恥辱を取るなと励み相戦う事良しと時移る。上野勢の気色を見すかし爰ぞと若者声を掛け合い終に多勢を追払い関引き崩し取り勝利を得たり。
  但しこの戦いは双方手負い数々これあり候。
一 明和八辛卯年(一七七一)、古樋大いに再論す、当御役人坪田甚五右衛門様、御代官小畑新兵衛様・高井助右衛門様、手代井上藤九郎・村上清五郎、両村庄屋役人、上は門田与兵衛・組頭市郎左衛門・甚内・平四郎、下は宮内清右衛門・組頭清四郎・九郎兵衛・兵右衛門なり。時に一の井手の上に掛け渡す両麻生の用水筧なり。右一の井手水は八倉村公料宮ノ下村ならびに上野村、御他領徳丸村・出作村五か村の井手なり。旱魃につき五か村七、八百人卯六月八日押し寄せ、麻生の筧を引き落とし総勢矢取川裾一面、昼夜はり番におり支え古樋掛けささず、出は相手と二日二夜待ち掛けたり。両麻生の田は誠に飢えに及ぶ、何ほろぶべきと両麻生二百余人かの小じたみ・藁甲等前の如くに身を堅め、夜の内に矢取川東土手根を忍び寄り、ばたばたと一丈ばかりの砂土手をかけ上り互に打つ石霰の如し。暫く戦いしが二日二夜相手に成られざる故、心たるみ又は御公料を頼み鼻に当て寝乱れに厳しく取り掛かられ、一の井手や水門の上の上井手既に落ち入り逃ぐるもあり、重信土手川へ逃げ散る。五か村勢双方合わせ千余人必死ときめ、石打つ砂煙、手寄は棒鍬の柄かざしかざし天に響き、五か村勢土手にたまりえず植田に入る。それ打ちたたけと口々に云いければ稲の中に臥し動くこと能わずみな死人の体、相手なければ麻生勢油断ならずと言い寄り言い寄り呼び集め手へ挨拶、介抱人吟味し猪の勢の勢い一の井手土手堀りつぶし帰りけり。明六ツ(今の午前六時)前より四ツ(今の午前十時)時分までの戦い追々横死(非命の死いぬじに)これありと承り候。
一 右の後御双方御役人御城下より五、六十両麻生へ御入り込み御吟味す。政右衛門・与八内取扱い御賄い世話仰せ付けらる、与八は松山御決(聞)合いにも両度罷り越し数日御吟味あり、一先ず御引取り庄屋両人も罷り帰り候。御上の御辛労筆紙にも言葉も尽くしがたく申し上げ候。
一 右に付き御代官小畑新兵衛、御手代庄屋武知政右衛門・菊沢与八松山道後へ罷り越し、御公領御自領御代官へ数度御参会御逗留あり。十日過ぎ七月十四日御蔵許へ帰り両庄屋帰宅申し候。
一 右横死これある故、始終御公裁と思召させられ御慈悲の御吟味の為双方御城下へ召し出され御吟味これあり。その後御中老加藤三郎兵衛様米湊庄屋宅に御逗留し、日々御茶屋へ御出浮、永々御吟味下させられ御帰り遊ばされ候。
一 江戸表松平左近将監様へ御下知二付き御吟味御役人備中国笠岡御代官野村彦右衛門様・倉敷御代官万年七郎右衛門様、御呼び出し人数両麻生下五か村庄屋・組頭・百姓内、笠岡に上麻生村・上野村・宮ノ下村なり、倉敷に下麻生村・八倉村・徳丸村・出作村なり。総村召し連れ御役人大洲御郡坪田甚五右衛門様、新谷御郡中村新左衛門様、松山御代官野口久隅様、御公料の御代官大河原茂兵衛様、双方下御付添い数々、翌癸辰(一七七二)二月九日乗船備中に着き御吟味始む。一か年中種々の責め入獄至極苦しめられて安永二巳年(一七七三)春、口書手形仰付けらる。翌三甲午年(一七七四)二月二十三日倉敷において野村彦右衛門様御裁許、下麻生村組頭兵右衛門発言の科により刑罪行なわる。その外重追放・軽追放・過料・御呵仰せ付けられ候。水論四か年振り落着、兵右衛門年三十四、自ら発言の咎名乗り多人数の辛労を救う。もっとも後世に名を残すが惜しい哉、心根感涙を流し袖をしぼらぬ者はなし、梟(人の首を木木にかけさらす)したる首に詣でる人群集せり。
  辞世に
     如月のあはれ尋よ法の道
一 門田金治 御扶持人なり。
  但し安永四末年(一七七五)の二月、御中老加藤三郎兵衛様五本松唐津山思召し立てさせられ、金治諸御用仰せ付けらる。同六丙年(一七七七)の十一月金治何卒この山引受け取り立て候様仰せ付けられ、追々繁栄御用承り候。ならびに村難渋者へ志厚き御聞に達し苗字・御扶持・庄屋次御礼式仰せ蒙る。寛政十年(一七九八)夏御掛物拝領し冥加至極有難く相続仕まつり候。
一 組頭市郎左衛門は先きの祖父孝行御聴に達し、延享年中(一七四四~一七四八)御目録下し置かれ有難く子孫相続仕まつり候。
一 原町百姓条助の祖母つね安永三巳年(一七七四)百歳の春を迎え寿を祝す。御上々様へ奉献、御祝儀の為八木二俵頂戴有難く存じ奉り候。
  但しつねの父は松山家中松本山月、兄は松本茂介、弟は間室又六、各百石下し置かれ相続仕まつり候。この条介諸御用度々仰せ付けられ実体御重宝者と存じ奉り候。
一 原町土地の由来、昔一面にすず竹原、山賊等住み往来も成り難し、然る所御替地と成らさせられ円明院様(大洲藩主加藤泰興)御建札にここを開発し、人家を求むる者これあれば永代貢物免ずべしとあり、思い思い藪こぼち追々町畑になれり。天和年中(一六八一~一六八四)改めて永々御免地に仰せつけさせられ冥加至極人民挙りて有難く存じ奉り候。
一 当村の新田二百八十石と申し伝う、以前御検地の時よりその意味を授け伝え候事あり、御他方大川砥部川を請い、御他方より取り候井口七か所あり。故に末々まで気丈に励み勧農す。平日其村の付相縁類同様に親しみを忘れ置かず忠勤をおもんじ御仁政御上を仰ぎ奉るのみ。

    浮穴郡砥部庄宮内村
一 庄屋は養父伊左衛門鵜崎村より買い受け罷り越し候。苗字御免熊右衛門
  但し中村熊右衛門度々御称美御書付・御目録頂戴仕まつり候。
一 氏神は客天神 土地は川井村なり。
  但し社地に姥桜御座候て御先代円明院様御覧、御謡に御作り遊ばされ、ふし御付けさせ候由、此の桜以前は松山辺より見物の群集まり仕まつる。
  某が
    西東南みに北ぞ砥部桜
  と申候由。其の後間もなく其の大木は枯れ今若目(芽)立ち御座候。
一 柚木明神は石神なり、板はりさき度々玉殿造り替え候。
  但しこの外藪神多く御座候。
一 旦寺真言宗村永代寺、本寺は谷上山なり。
  但し麻生理正院、灘町光明寺旦家も御座候。その外小庵・小堂数御座候。
一 名湯 古城山の下川ふちに御座候。
一 大友真鳥古城跡
一 右番城跡と申す山御座候。
一 大森彦七石塔 法名長盛院殿大森彦七大居士位儀御座候。古城山の麓に御座候。
一 医者高市秀達何の由来も御座無く候。
一 塚穴数御座候。以前客来り候時、宵に願い置き候えば朝膳椀を出しかし申す所、痛み返えし、その後かし申さずと言い伝え候。
一 当村以前大庄屋の時、永代寺下の大渕川原へ馬繋ぎ置き候処、猿猴馬の綱を巻き渕に入る、馬驚き一さんに宅に帰る、打揃い糺明(事をただし明らかにする)せしに以後谷内に見ざん致さずと断わり申すに付き返えし候。その後年々鮎・鰻類を毎度持参候趣心よからず、鹿の角を掛け置く其の後参らずと申し伝え候。

    同郡砥部庄川井村
一 庄屋新左衛門、森新蔵、広之丞なり。
  但し先祖は藤原氏、森杢之丞諸太輔は松山鶴吉村・神崎村・出作村三か村知行せしと申し伝え候。
一 氏神 新谷大南村八幡宮
  但し村に宮内氏神、その外に社・藪神御座候。
一 檀寺は真言宗宮内永代寺、麻生理正院、本寺谷上山なり。
  但し小堂類数御座候。
一 友沢常右衛門永々苗字ならびに八石ずつ御割合米下し置かれ候。猶又天明六午年(一七八六)三人扶持永々仰せ付けられ候。

    同郡砥部庄七折村
一 先の庄屋順平より買い受け大平村より罷り越す与三治
  但し大角蔵村預り、私先祖は清和天皇陽成院の末にて左礼谷波治頭城主佐川喜三兵衛と申し候。落城後天正の時代(一五七三~一五九二)上唐川庄屋勤め別家仕まつり山崎庄大平に住み苗字御免、佐川与右衛門これより与三治まで百姓五代、内三代は与頭相勤め大平村に同家の者六軒居り申し候。もっとも系図は上唐川にて失い申し候。
一 氏神 新谷大南村八幡宮、村に天神・藪神御座候。
一 旦寺 真言宗宮内永代寺、本寺谷上山なり。小堂類御座候。
一 先きの庄屋は小笠原氏、百姓藤治初め三、四軒居り申し候。
一 百姓影浦氏、文治は先祖より十代余り、組頭相勤め申し候。前は分かり申さず候。この別かれ数々御座候。
一 預り大角蔵先の庄屋影浦氏、吉右衛門ならびに渡部氏・与頭周次居住仕まつり候。
一 同村元庄屋宅に居り候弟弁右衛門、小笠原氏屋敷菜畑少なく元の如く御免地相続仕まつり候。

    同郡砥部庄千足村
一 庄屋は正徳四年(一七一四)より当庄屋金治まで五代なり。
一 氏神 新谷大南村八幡宮、村に小社あり。
一 檀寺 宮内村真言宗永代寺、本寺谷上山なり。
一 一か年二、三度咲き候桜川岸に御座候。

    同郡砥部庄北川下村
一 先の庄屋御取り上げ、代米差し上げ麻生村より罷り越す庄屋金五右衛門
一 氏神 新谷大南村八幡宮、村に小社等あり。
一 旦寺 真言宗宮内永代寺・麻生理正院、本寺谷上山なり。
  但し村に小堂数御座候。

    同郡砥部庄五本松村
一 庄屋七折村九代相勤め、代米差し上げ罷り越し候順平天明五年(一七八五)栗田村より養子に参り候。弥右衛門すべて十代なり。
一 氏神 新谷大南村八幡宮
  但し村に祇園・河内両神一社に祭り山林広し。
一 旦寺 真言宗宮内村永代寺、谷上山末寺なり。
一 村南山三十町程登り、山神坊岩谷御座候。
  但し奥に山の神、蔵王権現各一尺五寸位の石像、前に金毘羅堂あり内像存せず。麓に観音あり、毎歳六月十日に参詣多し、ひでりに松前寺修験雨乞所、二間三間通夜所焼失す。
一 水精山御座候。
一 医者小笠原氏春台
  但しこの家古い系図これある趣、余程ぼろぼろに痛み残念に存ず、近頃写しかけ候由の物見受け申し候。大坂落城後芸州福島を便り二、三年居り候処、息女と密通し当村へ来る。小笠原庄九郎後に小笠原元帰と号し、医行を学し書物書入等見事の由、右元帰夫婦の石塔屋敷にあり。元帰の法名分からず承応二癸巳年(一六五三)十一月二十二日、室の戒名は春花妙貞禅定尼慶安元戊子年(一六四八)正月十九日、今小笠原大明神と祭るよし、この医者東に当たり大森の花畑と申し伝う。虎尾桜古木小社にあり、今に不思議雨夜など金鍔の大小にて出相煩わしきは又馬のいななき度々御座候由。
一 医者阿部氏為圭、串山氏好益住居申し居り候。
一 唐津山 安永四乙年(一七七五)未開発の土地御高附なり。
  但し時の庄屋より御受答申し上げ候通りに御座候。
一 天明四年(一七八四)御先代様庄屋弥右衛門宅へ御入り下させられ候、尚殿様去々歳御入り下させられ候筈の処、暮れに及び候故御入り下させられざるよし、永田権太夫様より仰せ聞かされ候。

    同郡砥部庄外山村
一 前の庄屋相分からず、養父喜三兵衛・弥四郎なり。
  但し万年預かり居り申し候。
一 氏神は新谷大南村八幡宮なり。
  但し小社等数御座候。中村主殿守の塚と申し伝えこれあり候えども文字分かり申さず候。右矢の根と申し伝え御座候。
一 砥石山始まり存ぜず、古老は松山三津浜へも出し候様申し伝え候。如何様砥部の庄と存じ奉る。
一 大本山峯林に八面荒神社あり当村・大角蔵村・北川下村三か村掛かりの山にて御座候。
  但し諸人用捨仕まつり候故、ふとり候。雨乞いの節近村通夜仕まつり候。
一 万年村・大南村境に要貝城という権現あり西願寺預かり。
  但し両沢村白滝中村主殿守、大森と申し合わせ、随時通じ合い候所を大貝所と申し伝う。以前この社立て替えの節千里にて松切られ、残り枝大臼に成り候と申し伝う。この神を土州新井田五社出現と申し伝え候。
一 旦寺 真言宗宮内村永代寺、本寺谷上山なり。
一 万年村旦寺は麻生村理正院、本寺右同断。

    同郡砥部庄新谷大南村
一 先の庄屋新右衛門より正徳二壬辰年(一七一二)買い受く、元祖市左衛門・清六・中村太左衛門三代なり。
一 氏神は村大宮八幡宮、砥部内十五か村御他領久谷・つづら川双方十六か村産子なり。
  但し神主は慶長六年(一六〇一)、元祖武知越前守・武智山城守・武智肥後大掾、藤原朝臣盛重二男寛文十庚戌年(一六七〇)稲荷村稲荷社の神主に仰せ付けられ参る。四代高市伊賀守藤原朝臣盛澄より当職高市若狭藤原盛救迄八代なり。
一 檀寺 麻生村理正院、滅罪は同宗宮内永代寺なり、本寺は谷上山なり。
  但し外に小堂類数御座候。
一 百姓奥島猶右衛門永々苗字、三人扶持、庄屋格式、御礼式御免なり。
一 同奥島伴治永々苗字、七斗ずつ下し置かれ候。
一 同渡部源次右同断
一 同影浦氏猪兵衛上唐川村庄屋弟居住なり。
一 当村は天明二壬寅年(一七八二)黒田村と御替え村に相成り申し候。
一 村方西願寺、開基凡そ千年余りと申し伝え候。時に享保二十乙卯年(一七三五)縁起宝物悉く焼失し先住申し伝え候分左に記し候。
  但し抑々当院数代の事今更相知り難し、蓋し聞く中興の開基宥鐔法印は播磨の人なり。人王六十二代村上天皇御宇四国順拝円満し、天暦二戊申年(九四八)石鉄山西願寺は宝竜院西光坊と号し修験寺に院主す、誠に南海四州伊豫国の石鉄山道後三十三か寺の先達座頭にして、毎歳懈怠(なまけること)無く運気修練し国家安穏、諸檀中五穀成就の御祈祷執行すと云々。扨又要貝古城権現社あり、村阿弥陀堂あり、仏田高三石七升二合御引高あり。又、万年村地蔵弥陀堂あり、鵜崎村清涼山隆延寺は本堂・薬師地蔵堂あり、又川登村に薬師地蔵一丈四面堂あり、玉谷に西林山東念寺当院末寺なり、寛政八丙辰年(一七九六)醍醐御門跡へ参殿の節当寺の由来御聴に達し、御絵符拝領、同年八月古来の通り寺山号御書付頂戴、当山は代々出世昇進の寺にて御座候。右寺格に依って毎歳年頭御祝儀差し上げ、御本山より御書下し置かれ候。将又寛政十一年(一七九九)新谷へ寸志差し上げ永々総禄格・年頭御礼式仰せ付けられ候。三宝院宮御門主、御末寺真言修験宗石鉄山西願寺法印宥慶
一 砥部十景にいう。
一 一 城山の一つ松  一 天神の姥桜
  一 大友城の夕照  一 古岩谷の夜雨
  一 要貝山の鳴鹿  一 障子山の暮雪
  一 白滝の曲水   一 砥石山の月
  一 大平山の不焼火 一 谷上山の晩鐘

    同郡砥部庄岩谷口村預かり大平村
一 両村庄屋買い受け参る、下三谷村日野治右衛門・源右衛門は永々苗字帯刀三人扶持、日野源右衛門・日野治右衛門四代なり。
  但し先祖日野源太郎資直は土州より与(予)州小田日野川村日野と申す所に居り、その後伊与郡下三谷の土民数代を経、元禄十二卯年(一六九九)当村に参り候。
一 氏神 大南村八幡宮
一 檀寺 浄土宗香石山霊岩寺
  但し本尊薬師は弘法大師の作、古岩谷といい元真言宗、中興より住僧七、八代後の浄土宗なり。
  狂歌 殊勝さや落葉を岩の苔衣   梅嶺
   〃  読経の窓打つ夜々や木葉雨  専山
一 若一王子宮は大宮の末社なり。別当熊野山宝珠寺真言山伏持ちなり
一 祇園牛頭天王は大宮八幡の末社なり。
一 佐川大明神 昔佐川式部と申す武士居る所を社にせしという。
一 昔岡田左近と申す武士住む所と申し伝う。この山に夜毎火の光有り、俗に岑山の焚奴火と申し伝え候。
 発句 焚奴火の影や夜光の玉椿  楽治
  〃  峯干増衛士の思や五月闇  専山

    同郡砥部庄川登村
一 庄屋先祖は大瀬村より買い請け罷り越す。杢左衛門・覚左衛門・弥次右衛門義は下三谷村より養子、勤功により御上下拝領し代々所持仕まつり候。十左衛門・杢左衛門・杢左衛門六代相続仕まつり候。
一 氏神 新谷大南村八幡宮、外に小社五か所藪神御座候。
一 旦寺 禅宗修福山円誓寺、本尊は観音なり。
  但し辻堂数御座候。
一 百姓亀岡久左衛門、天明二寅年(一七八二)苗字御免なり。
一 千里に大森彦七の古城跡御座候。

    同郡砥部庄三津野村
一 庄屋代々の儀相分かり申さず候、当利三郎迄凡そ十三、四代と申し伝え候。
一 氏神 惣津村三島大明神、外に小社藪神御座候。
一 檀寺 真言宗石上山光明寺、本寺谷上山なり。
  但し本尊薬師以前の仏は如法寺へ召し上げられ、御上より差し上げられ候本尊と申し伝え候。

    同郡砥部庄玉谷村
一 当庄屋治左衛門迄三代相続仕まつり候。
  但し、先祖は両沢村白滝城主中村主殿守の家士渡部氏の末葉(子孫)、正徳元年(一七一一)買い受け罷り越し候由申し伝え、鑓一筋所持仕まつり候
一 氏神 村方三島宮なり。
一 旦寺 禅宗村大安寺なり。
一 相原氏 百姓平助
  但し千里の家士相原大炊助の嫡相原大輔左衛門道重の末葉と申し伝え、弓一挺所持仕まつり候。系図は先年松山領高井村庄屋望みに付き見させ候処返えさず。門葉(一家のわかれ)数御座候。
一 澤田氏 百姓与平
  但し千里の家士澤田民部少輔と申す子孫と申し伝え本村に数御座候。
一 城戸、相原、渡部、和田、佐藤と申し伝え候百姓御座候。
一 三社権現 祭主は相原主税
  但し滝山は高さ六十間横三十間、岩穴数多く九十九王子まします由、上の宮・中の宮・下の宮と申し伝え候えども、今上の宮これ無く中の宮へ参詣相成る、下の宮は滝けんそ参詣成りがたし、中の宮棟木に書付けこれ有りと申し伝え候えども分からず、三社成りや三所権現成るか分からず候。中の宮の裏板に貞和二年(一三四六)九月五日玉谷村岩谷寺と書付けあり、同社棟木に菊木宮内と申す字ばかり相分かり申し候。

    同郡砥部庄栗田村
一 庄屋先祖の彦左衛門麻生より買い受け元文元辰年(一七三六)役義、吉右衛門養子麻生より参る。奥村嘉助・弥右衛門御願い申し上げ五本松村へ罷り越し再役、奥村嘉助・久次郎前後六代なり。
一 氏社 三島大明神、神主阿部佐渡が居住す。
一 旦寺 禅宗玉谷村大安寺

    同郡砥部庄鵜崎村
一 庄屋先祖寛文三年(一六六三)仰せ付けられ、当清蔵迄六代なり。
  但し先祖は伊豆国司和田和泉守孫平・和田左衛門尉久守の子孫と申し伝え候。正徳元年(一七一一)家財焼失し持ち伝え候武器等失い申し候。
一 氏神 新谷大南村八幡宮
  但し村内に祇園社、その外藪神御座候。
一 旦寺 真言宗上唐川村真成寺、本寺谷上山なり。
  但し村に地蔵堂・庚申堂等御座候。
一 当庄屋先祖まで毎歳節分の夜ばりばり木の葉をたき大豆黒く煎り、篠いわし切り指し、髪毛を付け焼きふすべ、たらの木割り取り合わせ門の錺間毎、あき方より右豆を鬼は外福は内へと四角より打ち来たり候処、彼の豆煎り候処へ鬼来り、杓子にて即時に打ち殺し候由、その後庄屋始め村中豆打ち申さざる由、当村より他へ出る百姓も多く打ち申さざる由怪しき事御座候。
一 両沢の白滝古城跡は村方手寄故、城主常に住まわせられ候や、地名に上楯城、射場の元、上屋敷と申す所御座候。

    同郡砥部庄両沢村
一 庄屋先祖は川井村に住み大角蔵庄屋勤め、助六・伊之助両沢村を買い受け罷り越す。源八・兵右衛門四代なり。
一 氏神 新谷大南村八幡宮、村に祇園・藪神あり。
一 旦寺 真言宗上唐川村真成寺、本寺谷上山なり。
  但し村に地蔵堂等御座候。
一 白滝古城跡 城主は中村主殿守と申し伝え、子孫に三軒御座候。

    同郡砥部庄上唐川村
一 先庄屋半兵衛より元禄十六年(一七〇三)買い受く、当庄屋元祖藤右衛門・喜右衛門苗字帯刀、影浦喜右衛門・和佐助四代なり。
一 氏神 浜出稲荷五社大明神、村本谷にあり。
  但し来由を神主へ尋ね候処、宇賀魂神社神代より御鎮座、神功皇后の節浜に出で神徳あり、時に伊与守頼義建立あり。寿永年中(一一八二~一一八三)阿部康義当国に下り栗田村翁山にて老翁に相、是当社の神となる。古社焼失し康義に託し文治元巳年(一一八五)に河野家より二千石付けられ再興あり、栗田村翁山にも同神社あり。その後五百石になり、時に白滝が千里領分と成られ二百石になる。就中白滝の中村主殿守は弓術の達人、猶更当社の神力を添えられ、数度軍功ありしと申し伝う。右両城没落し社料を失い、今の社は延享二乙丑年(一七四五)建立にて御座候。附穀谷浜出稲荷大明神は軍神の御守神なり。ある時麻生川原に塩商人昼ねしいたり、時に大森彦七通り掛り、見るに大蛇出で商人を呑まんとす。塩籠の内より小劔抜き出し追い払う、彦七塩売りを起こし、彼の劔を所望し価を遣わし所持せり。折節松前往来候時、麻生下にて女川を渡し給えという、背負い渡り掛る、数万の声天かきくもる、時に宝劔抜き出だし切り払う体あり、天晴れ音静まる。その時宝劔は当社へ入り給い、左の社殿に祭る、宝劔殿これなり。又頃は応安元年(一三六八)中村氏五百余騎にて芸州宮島合戦当社に祈り主殿へ兜を給わり利を得、時に海中に光り玉石浮き来たる、中村兜に受け帰り社の右の社殿に祭る、玉石殿これなり。又応永年中(一三九四~一四二八)千里の城に三足の化物出で神主倉橋大夫神前において鳴弦を執行、化物退散せしと申し伝う。谷々に藪神数御座候。
一 医者影浦氏一軒あり、その外申し伝える者御座無く候。
  但し白滝の家中など居り申され候や、庄屋上辺の地名を中屋敷などと申し候。
一 百姓中村氏子孫御座候。
  但し両沢村白滝城主中村主殿頭落城後、兄は元大庄屋田中権内の先祖と申し伝え候。弓の達人にて御座候由、村稲荷社縁起の趣御座候。系図等難渋旁取り放ち所持仕まつらず候。
 右御替地伊与郡・浮穴郡内里分二十三か村三町、砥部十九か村合わせ四十二か村三町なり、大平村半分・市場・稲荷・下麻生・大南・岩谷口・峯大平は新谷御分、双方庄屋三十九人、大角蔵・万年・峯大平は御預り村なり。
一 寛保元年(一七四一)砥部大庄屋田中権内を相手に谷内十七か村騒動につき、取扱い庄屋下唐川村菊沢九左衛門・上野玉井儀兵衛、御蔵許御城下御上下御役人様御取扱い御余儀無く、北川下庄屋善兵衛・川登村百姓佐次右衛門死罪を仰せ付けらる。願いに付き大庄屋御免、山田前の如く下し置かれ御普請下役仰せ付けられ相形付き申し候。
  但し近頃、松山久万山百姓大洲へ罷り出で、御領郡内百姓内子へ罷り出で、新谷様御取扱いにて落着、かくの如く下々我が儘不心得と思召され一人を罪し万人を御助け遊ばさせられ、御仁政相成るべしと一統恐れ入り奉る御義に存じ奉り候。時に御替地は郡内所により誘い候ても庄屋役人兼て心付け仕置き候故、加談仕まつらず神妙に思召させられ、御称美御書付け下し置かれ村に所持仕まつり候。
一 明和元年(一七六四)の頃、外山村砥石くず捨夫村々へ新法仰せ付けられ、拠無く一両年出し候処、不案内の里百姓数々怪我人多く旁もって毎々御代官へ厳しく御歎き申し上ぐ、強訴に思し召され御城下より御郡藤江善左衛門様・御代官鎌田新右衛門様御越し、片岡丈平・菊沢与八は閉居、その外数々御咎め仰せ付けられ程無く御免、その後くず捨夫御遣い(放つ送る)下させられず一統有り難く存じ奉り候。
一 天明三癸卯年(一七八三)春、砥部庄十九か村大平山・三秋村の山へ御他領伊与浮穴郡総百姓、麻生口村の峯越え大谷・三谷坂・下戸が谷・大平口より日に数百人入り込み、家根・田岸・畑の唐はぜ迄伐り荒らし、如何様近年入相山迫り候様に心得、立腹し相手取り候趣手出し相成らず、村々より御注進御歎き申し上げ、松山方へ追々御掛けあい遊ばさる。当方庄屋玉井三右衛門・宮内小右衛門・仙波新五兵衛・阿部万左衛門町宿にて御他領庄屋へ対談、入りては見山勘兵衛へも内談に及び候て、立ち登り候処は伐り払いに和談なり、村々へ双方庄屋立入り和熟し、右冬迄に伐り払う。翌天明四辰年(一七八四)春鷲野為右衛門・永井房右衛門、御他領庄屋同道見分し始終の印に境通り未留木仰せ付けられ折々立ち合い致し候訳に落着成り候。右の通り当御替地は松山御境村多く新谷入組みに御座候故、色々大小事多く筆紙に能わず荒々申し上げ候。当方に御出張御役人様は申し上げるに及ばず庄屋下々まで心遣い多く迷惑仕まつり候。富永彦三郎・上堂彦六郎火急に集め差し上げ候様申し越し、存じ出ずるに任せ書き出し、落とし間違い等多く御座有るべく恐れ入り奉り候。以上
  寛政十二庚申年二月
          御替地下唐川隠居七十一翁
                 集者  菊 澤 与 八
                       武   輝