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伊予市誌

一、地形の概況

 昔の里の人は、伊予市の南の山々を前の山とか前山と呼び、その前山の南方の一きわ高い山々を奥の山とか、奥山といっていた。明神山はその中間にあるので、ただ「明神さん」といった。これらは旧郡中・下三谷あたりからの位置的な言い方であろうが、山の容相の違いからそう呼ばせたのかも知れない。また、平地については、「タカミ」とか「ヒラチ」とかに区別していたが、このような通俗的な呼び方の中に、地形的相違がよく現れているのもおもしろい。「タカミ」というのは、前山のふもとに開けた扇状台地をさし、「ヒラチ」はそれに続く沖積平野をさしている。
 このような通俗語の中に、伊予市の地形区分かはっきり出ているといってよい。すなわち奥の山は石鎚山脈に属する山々であり、前山は和歌山県の和泉山脈に属する山々である。明神山は火山噴出によってできた山である。このように伊予市においては、山地で三地区、低地で二地区と五つの地区によって構成されている。その構成要因は、褶曲・断層・隆起・沈降・火山噴出など地球内部の力に起因するものと、地球表面の営力である雨・水・風などの浸食堆積作用によって生じた地形であるが、それらは、極めて徐々に、長年月をかけてできた地上の姿である。第2図は、伊予市の断層を示すものである。

 中央構造線 
 西南日本の中央を東西に走る長大な断層で諏訪湖付近に始まり、豊川・紀ノ川・吉野川に沿い、愛媛県北部を東西に走り、犬寄を経て、上灘で海中に没し、九州の八代に至るものである。明神山噴出も中央構造線の影響である。

 高野川断層 
 この断層は双海町小網から明神山の北麓沿いに東にのび、四ッ松を通り更に東方下唐川で、中央構造線に合していると考えられている。この断層の見られる露頭は、小網東方付近で四か所確認されているに過ぎない、これより東方での詳細な露頭の観察が必要であるとされている。この断層の発見者は元愛大教授永井浩三で、高野川断層と命名した。この断層のできたのは石鎚層堆積前、和泉層群堆積後とされている。

 伊予断層 
 行道山塊・谷上山塊の北麓を一直線に、三秋の谷筋から高野川の谷筋へとのびている断層で、伊予灘に没している。その先もほぼ同じ走向を保って直線上に続き、模式的な断層海岸地形をしている(永井浩三発見、佐藤命名)。

 郡中断層 
 これは江原・永井・佐藤の諸氏らによって、その存在は指摘されていたが、当時大学生であった吉村が森山の山中で露頭を発見し、北東から南西にほぼ直線状の走向をもっていることが確認されたが、伊予灘に没してからの走向は判明してない。また森川から東の状態も露頭未発見のため走向は明らかでない。この断層は約一〇〇万年の昔にあったものとされている。

第2図 伊予市の断層略図

第2図 伊予市の断層略図