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伊予市誌

二、各地区の地形

 奥の山
 奥の山といわれる南部山岳地帯は、石鎚山脈系の石墨山(一、四五七m)、皿ヶ峰(一、二七〇m)の続きで障子山(八八四m)、階上山(八九九m)がそびえたち犬寄峠から双海町の牛が峰(八九六m) へと四国での一大分水嶺の走っている地帯である。この石鎚山脈は地塊が断層でのし上かってできたので、そののし上がるときに、地塊の北の部分が南の部分よりもよけいに隆起し地塊全体から見ると、南へゆるやかに傾き北斜面、すなわち中央構造線側は急斜面となり雨水や河水の浸食が激しかった。それで峰は高く谷は深く坂は急となったわけである。昔郡中から中山へ行くには、長谷川の川沿いに山が頭上にのしかかる思いのする道を通り、いよいよ坂にかかるとたいした苦労であった。坂は自分の体をもち上げるのにやっとという急坂である。それで、この土地の人に賃を出してお尻のあたりを押してもらったり、荷物はかつぎ上げてもらったり、自転車はおし上げてもらったりしたものであった。そうしてたどりついた峠の茶屋はありかたかったに違いない。茶屋で一休みした後は山道とはいえ、ゆるやかな坂を上ったり下ったり、ただ歩けばよかった。峠から大平へ下ることもまた難渋を極めたものであった。持ち物の少ない洋服の男がぞうりをはき、こうもりがさの先に靴と小さなふろしき包みをしばりつけ、これを肩にして郡中へ向かう姿は、よく見かけられた、今は国道五六号線が通じ自動車でやすやすと峠を通過できるようになった。また、近く国鉄内山線が開通しかときには、犬寄ずい道によって通り抜けるようになる。自然の難所も文明によって難所でなくなっていくわけであるが、急坂の地形には変わりはない。杖立峠は人の往来は少ないが、これを越すには同じように難渋する地形である。
 このように分水嶺から北の斜面すなわち伊予市側はけわしく、この地域を流れる川も短く急流である。

 明神山塊 
 断層線の通っている地帯は、断層によって破砕された破砕帯があるだけでなく、一般に地盤は軟弱になっている。特に西南日本最大の中央構造線の断層の通っている地域ではなおさらである。その軟弱地盤へ火山作用が働いて、むくむくと溶岩が流入してできたのが明神山塊で、この山塊の南は中央構造線の断層があり、北は高野川断層があり、山塊それ自体が浸食に強い岩石であるので、山の傾斜は両面とも急で六三四・三mの高さから松山平野に対して威容を示している。

 前山 
 前山山塊は行道山(四〇三m)と谷上山(四五五・五m)のほかは、三〇〇mかそれより低い山塊である。行道山塊・谷上山塊・三秋森山塊と北東から南西にわたり、ふとんを着て寝ているような姿の山々が連なっている。低い山々ながら奥山の見えない山麓の里人は、谷上山を高い山と見られるし、この山から流れ出た川によって農耕が営まれたので、弥生時代以来この谷上山を崇高で神聖な山と見て、田の神のとどまります山、田の神さんと崇敬していた。
 前山の北側山麓は、東は宮下から西は市場向井原まで一直線になっていて、三秋を通り高野川谷筋ヘ一直線をなして伊予灘に没している。これは伊予断層によってこんな地形が形成されたのである。この断層は右横ずれ断層といわれている断層で、この特徴のある断層がつくった地形は、上三谷から向井原の間でよくあらわれている。その一つは川の流路が右曲がりである。前山の分水界から北側の水が集まった谷川は、断層線のあたりから右横ずれに曲がって流れている。稲荷に例をとってみると、第4図の地図で5の谷川は右横ずれに東に曲がって5とずれて流れ、そのくい違いは約二五〇mと推定されている。これは尾根が右へ移動して谷を閉鎖したような位置にすわりこんだ閉鎖尾根(稲荷神社本殿のうしろの山)のため河谷変位をきたしたものである。このような地形は他のところでも見受けられる(第6図参照)。
 また、この区間では右横ずれ地形とともに断層の南側が隆起したので、断層による三角末端地形が各所に形成されている。第7図は市場あらわれている三角末端地形である。
 主断層と副断層にはさまれている地域では、地形学でいうケルンル・ケルンバットの地形が形成されるといわれる。この地形にあたるものが大平の梶畑の東の山地に見受けられる。すなわち、白木谷・たてば谷は断層作用によってできた凹地(ケルンコル)が河水の浸食によってできた谷で、高いところは谷上山まで続く尾根(ケルンバット)が展開されている(伊予断層は駒沢大学教授平岡俊光の論文による)。

 低地 
 以上の山々の聞には下唐川や大平・三秋のような低地がある。これらの低地は地形的には河川によってつくられた河成段丘であるとされている。
 前の山が伊予断層によって断ち切られた北側には、ほぼ一、〇〇〇m内外の幅をもった台地が展開している。この台地は山に近い方で五〇m、台地のすそ沖積平野に接するあたりでは、三m位の高度から急に沖積平野に続いたり、なだらかな傾斜でいつとはなしに沖積平野になっているところもある。この台地は沖積平野のように平坦ではなく、雨水河水の浸食を受けて起伏をくり返し、南西から北東へとくり広がっている。
 この台地の北は松山平野であるが、伊予市地域では台地を流れた川によってつくられた平野と、伊予灘の波浪潮流によってつくられた平野と二つに分けられる。その漸移地域が下吾川の東部地域で、馬塚の線から西の地域と米湊の国鉄線路から北側の地域は、ほとんど伊予灘の波浪潮流によって堆積された平野である。この地域では、海岸に並行して南から北へと帯状に高い所あり低い所ありで、下吾川ではこれが数条に及んでいる。旧郡中町の商工的発展は、この微高地の上に展開されたものであり、下吾川のそ菜栽培地帯もこの微高地であり、微高地間の低湿地は昔は稲田・蓮根田として利用されていた。伊予市庁・伊予郵便局のある場所は、五〇年程前まではこの低湿地帯であった。その他の低湿地帯も原型をとどめている所は少なくなった。

 河川 
 森川は本流を障子山から発し森で伊予灘に注ぐ一二㎞の川である。その内武領に達するまでは中央構造線に沿ってほぼ西流し、途中鹿鳴川(一・四㎞)、葛篭川(一・一㎞)、鎌谷川(〇・九㎞)、長谷川(一・○㎞)を合わせている。合流したこれらの川は石鎚山脈の北斜面の水を集めて北流し流れは急である。流域が狭いので降水期外は水量は余り多くない。国鉄内山線の犬寄隧道が開さくされて隧道内の地下水が長谷川に落ちるようになってからは長谷川の水量が多くなった。それは隨道が中央構造線の何本かの副断層に出くわしているので、この副断層の破砕地帯を流れている地下水が、防水工事の至難なため水が隧道内を流れ長谷川に注いでいる。降水期は別として平常時森川本流の水量と、支流の長谷川の水量とは、同じか少々長谷川の方が多いと土地の人は語っている。森川が大平に出てからは、川幅も一〇mから二〇mとなり、流れも多少ゆるやかになり向きを変えて北流している。市場では三秋の断層谷の水を合わせて北流し、森で伊予灘に注いでいる。河口で川幅は三七m位になっている。
 谷上山塊・行道山塊から発して北流する川には東から大谷川(一〇・五㎞)、八反地川(七・〇㎞)、梢川(九・〇㎞)、ふるこ川(五・〇㎞)などがある。いずれも河身は狭小で流長は短く大谷川を除く外は、降水期外は流水もない川である。それが降雨となると鉄砲水のような流水となり、平地部においては時には甚大な水害を被ったものであった。そのため、ふるこ川を除く外の川は、中流から下は人工的に天井川をつくり、伊予灘に流れ込むようにした。これらの天井川はもともと自然な流路として、松前港あたりに流れ込んでいたもようであった。それで、こう配のほとんどない平地では、大雨ごとに流路が変わったり、はんらんしたり、被水したり連日にわたる水没地域が生じたりすることもあった。筒井地域での享保の大飢饉は、このような地形と天水のもたらして起こったものであった。その要因の一つの地形的要因を除くため、大洲藩の工事として大谷川に関して、平松から堤防を積み上げ、天井川をつくり横田から西流させ南黒田で南流させて、更に新川で八反地川と合流して西流させ伊予灘に注ぐようにした。この工事完成は一七八二(天明二)年のことであった。八反地川を天井川に工事をしたのは明治時代になってのことである。そのため、郡中町から森松に行く森松街道(県道)は八反地川の下を通るようになっている。ここをトンネルと呼んでいた。一九八四(昭和五九)年一二月、道路拡張のためこのトンネルは取り除かれ、天井川はつけ替えられた。梢川も自然の流路をかえられ、中流以下は天井川となって湊町・灘町の境を伊予灘に注いでいる。

 海岸・海
 本市の近海は日本列島が誕生したときにできたものではないようである。一、〇〇〇万年前、陸であったものが海になった。今の犬寄峠あたりから障子山・石鎚山にかけて浅い海であったといわれている。すなわち本市全域が海底にあったわけである。それからも地盤が上がったり下がったりして、陸になったり海になったりしたようである。扶桑木が繁茂していたという森山の西の海も三〇〇万年の昔は陸地であったが、今は伊予灘に没して海岸にわずかに亜炭化しか残がいを見るに過ぎないように海に沈んでいる。伊予市の海は海岸からニ~五㎞以内は水深が二〇mもない浅海である。海底は総じて泥や砂である。森の海岸から一~二㎞あたりの海に、底引網漁撈のできない魔の海とされているところがある。これは岩礁のある海底だからではない。扶桑木について研究している日山克明は亜炭化しか扶桑木の遺体の地帯ではなかろうかと言っている。
 本市の海岸は、八幡浜・宇和島のような屈曲の多い奇岩に富む海岸ではなく、砂礫続きの単調平凡な海岸である。一年を通じて波静かな優雅な女性的な海岸に見えるが、一〇〇~二〇〇年の短い間に大きく変わってきた。否、変わろうとしている。そこに海岸と戦わねばならないように運命づけられているのが、伊予市の海岸のようである。
 五色の石にちなむ五色浜の海岸以外は、西風の波の浸食をよく受ける海岸である。殊に森山の海に接するところは甚だしい。五〇年前には森山の海岸沿いに上灘に行く小道があったが、浸食のため今はない。
 また、海岸から二〇m位登ったところに用水池があり田もあったが、現在は海の中に没し用水池はくずれて畑になっている。このように波による浸食のはなはだしいのは、森山の地盤が軟弱である上に、潮流の主流が海岸近くに流れていること、伊予灘の西風を真っ向に受け波浪の激しいこと、地盤沈下の傾向にあることなどが組み合わされていることによる。
 本郡から尾崎・湊町・下吾川までの海岸も波の浸食を受けている。地盤上昇の時代には、海水による堆積によって土地がふえたものであるが、沈下の傾向以来、浸食によって減っていく傾向のようである。このあたりの海岸には二〇個以上のなぎと呼ばれるものが突き出されているのは、潮流による浸食を防ぐために築かれたものである。一七六〇(宝暦一〇)年の郡中町の図面(第8図)を見ると、灘町・湊町から新川まで、人家の西海岸ぞいに松並木がある。それが現在は跡かたもないように波に浸食されて海岸が後退している。一八五四(安政元)年一月に大地震があった。その記録の中に「土地低くなりしか、潮汐干満の度の変化か、海岸は危険」とある。波浪の浸食がはなはだしくなったことと、暴風雨で西変向風を受けたとき、津浪を受けるおそれを感ずるようになってきたので、大洲藩では藩事業として、万安港以北の海岸に高さ五尺幅五尺の石垣の防波堤をつくった。それでも一八八四(明治一七)年八月の大暴風雨のときは、平常の最高潮のときより四尺の高潮となり、堤防は決壊し町の本通りに小舟が流れる大騒動が起こった。そのときの被害の概要は次のとおりである。

 灘町 港破損二か所、海岸堤防悉皆破損、雑屋転倒二戸、破舟凡そ二〇〇隻、
 湊町 本家転倒三二戸、大破一三六戸、雑屋転倒一〇戸、破舟一〇二隻、
    共に人畜の死傷なし

その後この海岸の堤防は修築されたが、伊予港築港埋立増設に伴い取り除かれて灘町海岸のものは今はない。湊町海岸のものは現在の堤防の下になっている。
 一九四六(昭和二一)年の南海地震では、一八八四年の大暴風雨のときのような津浪はなかったが、伊予市の海岸は土地が下がったためか海の水位が高くなった。松山中央測候所の記録によると、五〇~八〇㎝地盤が下がったと記録されている。これによって、またまた事あるときの災害が憂慮されるようになった。それで国費をもって、高さ一mのコンクリート堤防をつくったり、第9図のように森から尾崎・西新川の海岸に防波工事が施された。
 伊予市は、このように地盤沈下の傾向にあり、海岸の土地は波の浸食を受けるので、人工を加えなければ減る傾向にある。ところが、五色浜の海岸は増えつつある。この海岸のなぎさ線は一七五五年(宝暦年間ころ、亀が森あたりであった。亀が森は現在の彩浜館別館の南から栄町の道へ出るまでにあった森を呼 んでいた。
 この森は砂をもった五m位の小高い松林で、森の北端がなぎさであった。あるとき、大海亀が流れついた。その海亀の死がいをここに葬ったので、亀が森と呼ぶようになった。美しい松林は昭和になって取り除かれた。
 なぎさ線も四〇〇m北西に移動し、その間は陸化して五色浜公園や住宅地となっている。これは築港の突堤築造によって、潮流の主流が沖を流れるようになり、潮流の運んだ砂礫は潮流のよどみにたまり、西風の波浪で打ち上げられることになったためである。