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伊予市誌

二、各地域の地質

 結晶片岩 
 本市の南部の山々に分布する結晶片岩は緑色片岩といわれている。この結晶片岩の原石は古生代の石炭紀・二畳紀(三億四、〇〇〇万年~二億三、〇〇〇万年の昔)に海底の火山活動によって噴出した凝灰岩・凝灰角礫岩・溶岩が海底に堆積したものである。それが後になって起こった地殻の変動の際、強い圧力を受けて変成したものと考えられている。緑色で板状又は葉片状に割れやすいという性質をもっているので、緑色片岩といわれている。この結晶片岩は地下三万五、〇〇〇m位の深い所ででき上がったものである。

 和泉層群 
 和泉層群は中世代上部白亜系地層であるが、初め大阪府と和歌山県の県境をなす和泉山脈の名をとり和泉砂岩層と呼ばれていた。名のとおり砂岩を主とする厚い累層で、ごく短い期間の堆積物にかかわらず、厚い所で七、〇〇〇mを超える特異な累層であるといわれている。南百日本内帯の領家花崗岩及び領家変成岩をおおい、種々の厚さに成層した帯緑灰色砂岩・礫質粗粒砂岩が多く、又砂岩・頁岩の互層及び砂岩礫岩の互層を交えているといわれている。
 これらの和泉層群が堆積したと思われる七、〇〇〇万年の昔は、世界中海が広がった時代であったが、このあたりの海の北側には領家花崗岩及び領家変成岩でできた著しく隆起した大山脈があり、そこを浸食してできた物が流出・運搬・堆積された地層が和泉層群で、南の三波川帯の砂礫は和泉層群にはほとんど含まれていないそうである。その当時は伊予市地域は浅い海で、今見ることのできる緑色片岩層や黒色片岩層は和泉砂岩層でおおわれていたということである。

 中央構造線の活動史 
 元愛大教授永井浩三は小林貞一らの説を中心に中央構造線の活動を次のように述べている。第一期鹿塩時階 これは白亜紀中頃(一億年昔)にあったもので、内帯に花こう岩の大岩体が貫入した勢いで内帯の岩体が外帯の岩の上にのし上がった。岩体の前縁部が激しく圧しつぶされて、鹿塩ミロナイトという特殊な岩ができた。第二期上灘衝上げ時階 今から約六、〇〇〇万年昔に北側の和泉層群の上に南側の三波川変動が乗り上げた大隆起運動である。第三期砥部時階 これは四、〇〇〇万年昔の明神層堆積後から一、五〇〇万年昔の石鎚層群堆積前の時代である。この時階の運動は和泉層群が久万層群や結晶片岩上に衝き上げたものである。突き上げた和泉層群の岩体の下底に摩擦礫ができるものとすると、犬寄峠などの露頭は、みな砥部時階の運動でできたものといえる。第四期新浜時階 これは、西条市から川之江市までの石鎚山脈の北面に形成している石鎚断層崖と、石鎚山脈を隆起させた運動である。この運動の年代は約二〇〇万年昔の前期洪積世である。第五期菖蒲時階 約二〇万年昔から現代までの年代である。この年代に中央構造線が運動した証拠は、一九三二(昭和七)年に初めて発見された。その後、一九六七(昭和四二)年に金子史朗が航空写真から判断するという新しい方法で、日本の中央構造線が右横ずれ運動をしていることを発見した。愛媛の新生代 六、五〇〇万年昔から、二〇〇万年昔までの被子植物と哺乳類の時代である。ここで特筆することは石鎚山第三紀層(第三系)である。これは、本県だけに分布している地層(第11図参照)であって、本系は中央構造線が活動した年代を知るための手がかりとなる貴重な地層である。
 石鎚山第三系は上部がおもに火山噴出物でできている石鎚層群と、下部の古第三系久万層群とに区分される(第12図参照)。
 石鎚層群の年代を知るためには、以前は化石にたよった。現在では放射能鉱物で年代が測定できるようになり、石鎚層群の火山活動は一、四〇〇~一、五〇〇万年昔に始まって、一、一〇〇~二〇〇万年昔まで続いていたという。
 久万層群は上部の明神層と下部の二名(にみょう)層とに区分される。二名層を構成している岩粒は結晶片岩であるが、明神層を構成しているものは和泉層群の堆積岩と領家変岩の、かこう岩類のような内帯の岩石である。明神層の下部では和泉層群のものが多いが、明神層の上部に向かうにつれて、領家変成岩や花こう岩がだんだん優勢になっている。
 二名層は、上灘・犬寄・平岡に、明神層は鵜崎に分布している。

 中央構造線の活動 
 それから中央構造線の久万層群堆積後の断層活動がある。おおよそ三、〇〇〇万年もの昔のことである。このときは中央構造線の北側の和泉層群の地盤が隆起して三波川帯の上につき上げてきた。その状態が第13図・第14図のように市内の小手谷でこの断層の露頭を見ることができる。
 緑色片岩層の上へ和泉砂岩層がつき上げているのがよくわかる。
 破砕層の断層のとき、和泉砂岩が破砕され変成されたいびつな層で、黒い細粒礫が多い。なお、小手谷部落から長谷川の方へ下る道路の右手にも、この種の断層の露頭が見える。
 このような大断層に沿う地域の地盤は軟弱なために、特に小手谷あたりでは谷の両側の山々が、広地域にわたる地すべりをよく起こすとのことである。JR内山線は犬寄を通過せねばならない地形的制約と、地質的制約があるので、弾性波探査・航空写真探査などあらゆる科学的方法による地盤・断層湧水地下水探査をし、第15図のような約六㎞の隧道を掘り抜くことにした。隧道内には一一の断層と数か所の破砕湧水地があらわれて難工事であったという。
 国道五六号線の新設に当たっても、中央構造線地帯であったために建設費の単位価格は高価であった。第16図に見るように伊予市の中山町の境にかけられた犬寄橋の橋脚は地下一五m下の岩盤から積み上げた鉄筋コンクリート橋脚である。
 この断層活動が落ち着いてから後、約一、〇〇〇万年の間は地盤が安定し、浸食作用だけが、強力に働いて山は次第に低くなり平野は広がっていった。

 石鎚層群 
 約一、二〇〇万年の昔になると、石鎚山、皿ケ峯、砥部あたりの四か所を中心にして火山活動か盛んになった。約一〇㎞隔てて中失構造線の方向に平行にならんで、大噴火がつぎつぎ起こり(連続でなく中休みのときもあった)数万年も続いたといわれている。この火山活動によってできた地盤を石鎚層群といっている。
 伊予市の地域では鵜崎・両沢・唐川・武領に噴出し、大南から以西は明神山塊となって噴出している。明神山・武領・下唐川に分布している火山岩は黒雲母安山岩であるが、上唐川鵜崎にかけての久万層群地域では、粗面岩質安山岩・黒雲母安山岩・斜方輝石安山岩が噴出している。また、障子山の約六〇〇m以上は黒色の凝灰岩が噴出堆積している。土地の人はこの凝灰岩層を「オンジ」と呼んでいる。この凝灰岩層に更に斜方輝石安山岩・粗面岩質安山岩が貫入している。
 なお、三波川帯の緑色方岩層に黒雲母安山岩・粗面岩質安山岩が貫入している所もある。
 また、谷上山の頂上には黒雲母安山岩・角閃石安山岩が貫入しているのが見える。
 黒雲母安山岩・粗面岩質安山岩・黒雲母流紋岩が、浅熱水交代作用があると砥石材や陶石となる。上唐川・両沢・鵜崎には第17図・第18図に見るような石材の産出がある。また、上唐川に産する第19図に示すような流紋岩は、太平洋戦争終戦前まで小学校児童の習字用すずり石として欠くことのできないものであった。
 石鎚層群の下の久万層群は中央構造線によって切断されているが、石鎚層群は中央構造線をおおっている。中央構造線は伊予市地域においては、上唐川の砥畦峠を通っているが、唐川コミュニティセンターの北東の東下寺・東野の境あたりからは、上記の火山岩層のため中央構造線を追跡することはできない。しかし、小手谷の二か所の露頭で再び中央構造線を追跡することができる。
 中央構造線断層によって生じた断層の軟弱な所へ貫入してきた安山岩と和泉層群との接する所、また安山岩と緑色片岩層と接する所は、これらの露頭にであうとはっきり見ることができる。この露頭が葉の浦にある。武領の南から平岡へ上る葉の浦の道路の左手に安山岩と緑色片岩の接する露頭がある。第20図の左手の節理の見える岩が安山岩で右手の低いところが緑色片岩である。この場所の北西近くに開拓武領団地があるが、ここは和泉砂岩層となっている。この露頭のほぼ南方、谷を隔てた向かいの山の中腹の道路沿いに今一つの露頭がある。ここは西側に和泉砂岩層・同破砕層があり、これに安山岩層が接している。ここから東の方へ道路沿いに登って行くと緑色片岩層となる。つまり緑色片岩層と和泉砂岩層の断層線へ安山岩が貫入しているのである。第21図の中央部に黒く見えるところが破砕層で七m位の幅があり、その右が和泉砂岩である。黒く見える破砕層の左が安山岩層である。

 郡中層 
 中新世のころ、火山活動がおさまってから浸食作用だけが働く時代となった。それが今から五〇〇万年の昔、全地域の地盤が、がたがたと一〇〇万年以上もゆさぶり動いた。このがたがたの始まったころ、今の石鎚山系の北側には大きな湖ができた。郡中層はこの湖の底に堆積した地層であるといわれている。砂泥層と礫岩の互層である。この礫岩層には緑色片岩のつぶてもあれば、石英片岩のつぶてもあり、雲母安山岩のつぶても多く含んでいる。
 これらの地層ができてから後は湖は次第にひあがった。有名な扶桑木(メタセコイヤ)はこの湖畔に繁茂していたといわれている。
 第22図に見られるように郡中層は湖底に堆積したのであるから、地層は水平であるはずであるが、今見る郡中層は北西の方へ七五度も急傾斜をしている。第三紀からの地殻の変動が如何に大きいものであったかが推測される。
 この郡中層は郡中断層でたち切られている。森の行覚寺の上の山には断層線が見えるが行覚寺以東では見受けられない。洪積層におおわれているのではなかろうか。西の方は森の大谷川へ行く途中小さい峠があり、その手前の蜜柑園へ通ずる園芸道路の左手に郡中断層の露頭がある。和泉砂岩層が郡中層につきあげられているのが見える(第3図参照)。海岸沿いに上灘へ行く途中で和泉層群と郡中層群と接しているのが見えるが、双方とも海に没しているので郡中層がどこまで続いているかわからない。現在、地表面で見えるのは極めて狭い地層である。

 洪積層と沖積層 
 本市の低地部については、永井浩三著『愛媛の地質』の中から引用して記述する。
 約一〇〇万年から一万年昔までを氷河時代という。この氷河時代にはいったときは気候が冷たくなって、氷河が地球上に広がった。他の地方もそれにつれて非常に寒冷となった。この寒冷な時代になったとき、湖畔の郡中層に繁茂していた扶桑木やその他の草木は枯死するものが多かった。動物もその跡を絶ったものがある。マンモス象などもその一つであるといっている。
 氷河時代といっても、のべつに気候が寒冷になって氷河が広がったというのではない。氷河時代といっても四回の氷期とその間にはさまって、暖かい間氷期があった。陸部に氷がたまっていると海水の分量が減ってくる。また、反対に氷がどんどん解けると海面の高さが上がる。氷期には海面が今より一〇〇m低かったことがある。間氷期は今より気候が温暖であったから、氷河時代には三回海面が高くなったときがある。長い間海面が上がっていると、海岸には海岸特有の地形ができる。海岸段丘はその一つである。一九五五(昭和三〇)年城戸商店が、工業用水を得るためボーリング計画をたてたとき、愛大の豊田・野田両教授に地下水理調査を依頼したことがあった。その報告書の中に、郡中付近は谷上山塊の張出し地域で、海岸に近く三段の段丘をもって低下する(中略)上吾川の東方にある三段の段丘は三島町付近のものと合わせて、一種の洪積台地と思われる。これらは最近の浸食によって不規則に断ち切られ、その分布が不規則になっているが、いずれも砂礫をもって特徴づけられている。そのうち伊予岡のごときは和泉砂岩の浸食面上に偽層に富む砂礫層がのっており、最近まで海岸に接していたと思われる。この報告書の記述から谷上山塊・行道山塊の北側には、氷河時代にできた洪積層が展開されていたが、海面が下がるたびに川の浸食を激しく受け、沖積世になってからはこれらの山塊から流れ出る川は山麓の洪積層をおおって、扇状地がくり広げられたり、洪積層の浸食された谷間にも堆積されるに至り、現状の地形地質分布となったと思われる。
 今地表に出ている尾崎・三島町の洪積層は和泉砂岩・緑色片岩・石英片岩を含む粘土層である。郡中層に含まれている砂礫によく似ているが、層状や層の硬軟から全く別の時代にできた地層であると思われる。
 海面が下がると、その前にできていた川床の中に、新しい谷がきざみこまれる。こうして河岸段丘ができるといわれているが、三秋・下唐川の低地はこうしてできた洪積世の地層ではないかと思われる。
 台地の下の平野は沖積世に入っての沖積平野である。伊予市における沖積平野は大部分前山から運搬された和泉砂岩系の牒砂粘土と、伊予灘の波浪が打ちあげた結晶片岩系や安山岩系の砂礫の沖積のようである。城戸商店の掘り抜いた被圧地下水揚水井戸のボーリングにあらわれた地層は、一二一mまで砂礫混粘土や粘土混砂礫・砂混粘土の互層になっている。三島町の洪積台地を距てること北二五〇mの地点で、一二一m掘り抜いて岩盤に達していない沖積層である。また三島町の東の大池から東五〇mのふるこ川に沿う地点で、地下六〇mまでの電探調査の記録によると砂礫泥の沖積層となっている。

 鉱泉 
 本市で鉱泉のわき出ている所が二か所ある。一つは本谷の鹿鳴川の川岸に見える緑色片岩と安山岩の接する所で、硫化水素特有の臭気の感ぜられる泉水がそれである。噴出量は極めてわずかで、自然のままに鉱泉が出ているというに過ぎない。今一つは武領の南西部長谷川沿いの所で、ここも少量自噴していたのを岩田・福井の両名が、一九七二(昭和四七)年七月ボーリングした。そして愛媛県立衛生研究所で噴出鉱泉の分析をしてもらった。
 なお、その後それより北の地点でボーリングをした。噴出量は前の四倍であった。噴出口には湯の花がよくついたということである。二回目にボーリングした地点の地質状況は第3表のとおりである。
 このあたりを五〇〇m位ボーリングすると、緑色片岩となり地下水は塩分を多く含むようになると、永井浩三がいったということである。

第10図 四国の地質図

第10図 四国の地質図


第11図 石鎚第三紀層の分布と、その化石産地

第11図 石鎚第三紀層の分布と、その化石産地


第12図 石鎚山第三紀層の区分

第12図 石鎚山第三紀層の区分


第3表 地質状況

第3表 地質状況