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伊予市誌

二、天候

 天候の状態を快晴・晴・曇・雨の四つに分類して、一年間における各天候の割合を見ると、松山圏内は曇天の日が四四%を占めている。冬季に比較的曇りの日が多いためであろう。

 雨 
 降水量は年によってその量に多少の変化は見られるが、第24図で見るように伊予市は県下でも雨の少ない地域である。第7表の降水量によると、六、七月の梅雨期と九月の台風シーズンには雨が多い。しかし、月間平均の降水量は二〇〇ミリに達しない年もある。冬季は特に雨が少なくて月間五〇~七〇ミリくらいである。降水量については近年特に年による振れが大きくなる傾向があり、今後とも水資源対策や節水が望まれる。
 一九九四(平成六)年度の降水量は第7表のように、平年に比べて六月の梅雨期を含め夏季には半分以下に過ぎなかった。この年はもし笠方ダムからの送水がなかったら、旱魃になったかも知れなかった。
 昔から水稲の耕作は梅雨期における降雨に依存するところが大きかった。梅雨期に降水が少ないときは、田植えに支障をきたしたり、やしない水にこと欠いたりして水稲の生育に大きく影響したので、先祖代々農業用水の確保には全知をしぼった。伊予市に用水池の多いのはその結果である。
 田植えの水は天水をというのが農家の念願であった。しかし、この念願のかなえられないことが時々おこった。『南伊豫村郷土誌』(明治四三年発行)によると、大旱魃のあった年は次のとおりである。
 一八五六(安政三)年、一八六一 (文久元)年、一八六七(慶応三)年、一八七三(明治六)年、一八九三・一八九四(明治二六・二七)年、一八九七(明治三〇)年
 そのうち、一八七三(明治六)年の旱魃には、田植え期になっても降雨が全くなく、土用が過ぎてからやっと田植えをした。適期を三〇日も遅れたため完全に収穫することができなかったので、あずきやそばの類を代作したものが多く、農民は大変窮乏した。

 笠方ダム 
 笠方ダムの水を大谷池に送り、そこから一二号水路によって市場まで来るようになった今日では、農業用水の心配は全くなくなり、田植えにも梅雨期の降雨を待つことなく、農家は用水路の水で順調に田植えができるようになった。また、夏季の渇水期には水田ばかりでなく蜜柑山まで、かん水できる施設が各地にできてきた。

 夕立 
 年間で最も気温の高い八月は曇りの日が最も少なく、水蒸気の蒸発が甚だしくて、炎天酷暑の月である。このときに降る夕立は作物を生き返らせ、人間に清涼味を覚えさせるので、ありがたい恵みの雨といわれたものである。
 この夕立の来る方向については、明神山沿いに来るものと谷上山の両側から来るもの、伊予灘の北側の島沿いに松山へ来るものとがある。明神山沿いに来るものは、多くの場合市場の向井原あたりまでで伊予市の平野部には降らない。そんなとき、上灘では相当のうるおいがあったという。島沿いに降る夕立は、これまた松山方面に相当の降水量があったであろうと、伊予市の人はうらやましくながめていた。「夏の夕立馬の背を越さぬ」の言い伝えどおり、ただあきらめていた。南の方の山地から谷上山越しに来る夕立はたまにしがないが、この夕立は当地では蘇生の思いをすることが多かった。

 雷 
 第8表の統計によると、当地方は雷の発生が少ない地域のようである。この統計は松山での観測資料で、南山崎地区の山間地域は当市の平地地区より雷の発生は多いようである。落雷の被害もほとんどないようで旧町村誌のどれにもその被害状況の記録はない。

 雪 
 降雪を原因別に見ると、季節風によるもの、低気温によるものとに分けられるが、松山気象台圏内では季節風によるものが、低気温によるものより頻度が高い。地上天気図の等圧線の走向が北北西で、気圧配置が西高東低の冬型となると、松山気象台圏内では全般的に西北西の風が強くなる。そのとき、関門海峡を吹き抜け、四国に達しか気流によって降雪をよく見る。この気流をまともに受ける豊予海峡に近い南予地方や、石鎚山系より南の地域に積雪が多くて三五~六〇㎝に達することがある。石鎚山系の北にある松山平野付近は多くの場合積雪には至らない降雪である。伊予市では大平地区が他の地域より積雪が多いが、一〇~二〇㎝位で五〇㎝の積雪などはまれである。二〇㎝以上の積雪があると、杉や竹などに被害が出てくる。一八〇二(享和二)年正月一六日から二〇日までの降り続いた雪は、山地で一m、平地で五〇㎝の積雪があった。鵜崎では野菜類の枯れしぼむものが多かったというが、この記録以外に大きな積雪被害の記録は見られない。

 霧 
 本市における霧の発生状況は第10表から見ても県下で少ない方である。霧の発生過程は所によって異なる。松山市付近の霧の発生は松山気象台での実験調査によると、安居島(北条市)付近の海水温度と松山における露点温度との差が(十)五℃と(一)五℃とのわく内になったとき霧が発生することが発見された。中予地区における霧の発生予報はこれによって報道されるということで、航空・船舶・漁業関係者は傾聴を要する。

 霜 
 初霜は山間部では一一月上旬で、平野部より二週間くらい早い。終霜は大体四月上旬で二週間くらいおくれる。
 秋から春にかけて、移動性高気圧におおわれて無風状態に近くよく晴れた朝、空気中の水蒸気が凝結して霜となる。霜の降りた日の最低気温は四℃以下でそれ以上での結霜はまれである。また、霜の降りる夜は、空気中の水蒸気の量も少ないので地表からの放射冷却も大きく、接地最低気温は大気温より六℃低くなっている。秋から冬にかけて、霜が早くとける郡中地域では「霜が早くあがった。雨が近い。」といわれた。
 霜害は作物が凍結することによって起こるが、作物の凍結の仕方は、そのときの気候状態や作物の種類と生育の時期によって異なる。作物がこれ以上低温になると凍結するという限界温度(危険温度)は、梨では開花中及び落花直後で氷点下二℃で継続時間三〇分といわれ、ぶどうでは展葉(葉がひろがること)前では氷点下三℃で継続時間二時間、展葉後は氷点下二℃程度、継続時間は三〇分で、これを越すと枯死するといわれている。以上のことから作物の危険温度は晩霜期においては、すべての作物についてその作物自体の温度が、氷点下二℃になると一応危険と考えられている。
 また霜害の起こるときの作物自体の温度は周囲の気温より一~二℃、場合によっては三℃以上も低くなるといわれている。これは凍結した作物の体液や霜が朝日を受けて急激にとけるとき必要な熱を奪われ、作物の体温が更に下がることが大きな原因と考えられている。気温を標準にすると○℃内外で霜害のおそれがあり、霜害を受ける地域は南向きの所に多く北向きの場所には少ない。霜道・霜害地域については、地表面が冷えるとこれに接する空気も冷やされて重くなり、その土地が傾斜していると重くなった空気の層は次第に下方に流れていき、凹地や盆地状の地形の所に冷気が集積される。傾斜地の下部や川のような凹地になっている所を霜道といい、このような所はひどく低温になって激しい霜害を受ける。
 反対に霜害を受けにくい所もある。それは丘の頂上に近い所で、冷えた空気は流下するので代わりに周囲のやや暖かい空気が流れ込んで来て気温の低下が起こりにくい。比高二〇〇mの山腹とふもとの晴れた夜の気温の実測例によると、ふもとでは氷点下五~九℃になっているのに、山腹では氷点以下に下がっていないことが報告されている。また、冷気流に対して家や林など障害物の影になる所も霜害は受けにくい。大きな川のほとりでは、海岸地方に霜が少ないのと同じように、水の比熱が大きいことが影響して一般に霜が少ないといわれている。
 寒害は時期的にもまた気象要因も霜害と異なるが、低温によって農作物全体あるいは一部が凍死する点においては共通性がある。夏蜜柑は氷点下四℃での温度が二時間続くと酢あがりして商品価値がなくなる。また、びわの豊凶は三月の寒害によってきまるといわれている。一九七三(昭和四八)年の唐川びわは寒害によって大不作をきたし、悪い所では前年の一割から三割の収量しかなかったという。植樹されている場所によって、状態が大いに異なるらしく川筋などは凍害はなかったということである。どういう所へ植樹したらよいかは柑橘やびわ園芸の研究課題となっている。

 風 
 『郡中町郷土誌』によると、次のように記している。「季節によりて風向差異を見ず、ほとんど四季を通じて西風というべきなり。強いて四季に区別していえば、春は主として西風にして時々北西・南西の風あり。夏は主として西風にして、時々各方面より風あり、秋は是亦西風にして北西の風これにつぐ。冬は秋と大差なし」、これは松山気象台で松山地域の風向を調べたものと比べて、旧『郡中町郷土誌』の風向とは大体一致している。
 「朝 東風(こち)、夕 真西風(まじ)、明日天気」といわれるのは、つまり晴天と風の方向を結びつけたもので、科学的気象と経験的気象の一致がうかがえて興味深いものがある。

第24図 昭和59年及び平成6年の年降水量分布図(㎜)

第24図 昭和59年及び平成6年の年降水量分布図(㎜)


第25図 平成14年の月別降水量

第25図 平成14年の月別降水量


第7表 年度別・月別降水量(㎜)

第7表 年度別・月別降水量(㎜)


第8表 年度別・月別雷電発生回数

第8表 年度別・月別雷電発生回数


第9表 年度別・月別降雪日数

第9表 年度別・月別降雪日数


第10表 年度別・月別霧発生日数

第10表 年度別・月別霧発生日数