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伊予市誌

1 このころの自然環境

 伊予市に人々が住み始めた約二万年前はウルム氷期の最盛期で、北極や北アメリカ大陸、ユーラシア大陸北部は厚い氷河に覆われていた。そのため、海水面は現在よりも約一〇〇mほど低くなっており、伊予市の西に広がる伊予灘から周防灘は、水深が一〇〇m以内であるため、広大な水草の生い茂る盆地となっていた。伊予市の南の山々や盆地に降った雨は、伊予灘の西部を流れる古豊予川に流れ込み、豊予地峡を経て太平洋へと流れ出ていた。伊予灘中に浮かぶ青島や由利島、忽那諸島などは、盆地中にそびえる山の頂上部であった。
 伊予市の市街を含む平坦面は、標高一三〇m前後の台地となっており、山地にかけてコメツガ、トウヒ、マツなどの針葉樹に覆われていた。このころは朝鮮半島とは陸続きであったため、日本列島の豊富な水草を求めて大陸からナウマン象やオオツノジカ、ヘラジカなどの大型獣がやって来た。これらの動物を求めて大陸で生活していた人々の一部が日本列島に移動してきた。当時の人々が生活していたことを示す遺構そのものは発見されていないが、当時の人々が使用していた遺物である石器が、伊予市内からもわずかではあるが発見されている。
 約一万五、〇〇〇年前になると、ウルム氷期も終わりに近づき、気候は次第に温暖となり、大陸氷河が溶け出し、それにつれて海水面も徐々に上昇するようになった。後期旧石器時代の終わりである約一万三、〇〇〇年前には、豊予地峡に海水が浸入し始め、約一万年前には伊予灘を中心とする盆地も、その一部が海化し、少なくとも九、〇〇〇年前には伊予灘周辺はほとんどが海化していたとみてよかろう。最後まで残っていた備後・燧灘汽水湖も八、〇〇〇年前には海化して、現在の瀬戸内海が形成された。現在の海岸線もこのころ形成されたとみてよい。
 このように旧石器時代から次の縄文時代への移行期には、気候は大きく変化し、それに伴って植物相も地形も大きく変化した。瀬戸内の海化につれて、水草を餌とする大型草食動物は食料難から死滅への道をたどったようである。


第46図 後氷期初頭の瀬戸内と遺跡分布図

第46図 後氷期初頭の瀬戸内と遺跡分布図


第47図 伊予市内の主要旧石器遺跡と縄文遺跡分布図

第47図 伊予市内の主要旧石器遺跡と縄文遺跡分布図