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伊予市誌

2 縄文遺跡と遺物

 縄文時代になると人々の活動の場もより広くなり、人口も徐々に増加するようになった。したがって、縄文遺跡も多くなった。だが、伊予市は他地域に比較しても縄文遺跡数が非常に少ない。これは、遺跡発見の努力が不足しているからであろう。現在までに縄文土器が出土している遺跡は下三谷片山遺跡と上三谷石橋遺跡、森本村遺跡だけである。縄文時代の石器の出土地は宮下本谷池、岩崎池、征露池、原池、八反地などである。
 縄文時代は一万年間という長い期間であるため、これを草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の六期に分けている。この時期区分に従って、伊予市内の遺跡・遺物について見てみたい。

 (1) 草創期 草創期の遺跡といえるものは発見されていないが、遺物が発見されている。その一つは名護遺跡出土の尖頭器であり、その二は征露池出土の尖頭器や有舌尖頭器である。時期は約一万二、〇〇〇年前と見てよい。尖頭器は木製の槍先に着ける石器であるが、土器は未発見である。このほか、この時期になると青緑色系チャートの楔形石器や小型削器などが使用されるようになり、それが谷上山北や上野土井池などから出土しているが、遺物が少なく、遺跡と断定するまでには至っていない。

 (2) 早期 約一万年から七、〇〇〇年前の早期の遺跡は確認されていないが、森本村出土の厚手無文土器や、征露池出土の青緑色チャートの石鏃は、この時期のものと見てよかろう。

 (3) 前期・中期 現在までのところ伊予市内でこの時期の遺跡・遺物は未発見であるが、将来、台地上から発見されることは間違いなかろう。

 (4) 後期 後期になると松山平野でも多くの遺跡が分布するようになるが、隣接する他地域に比較してもその数は非常に少ない。現在までに確認されているのは上三谷石橋遺跡と三秋新池遺跡だけであるが、これとても遺構はなく、遺物が出土しているに過ぎない。石橋遺跡出土の土器は、磨消縄文土器である。口縁部に肥厚による把手をもつ後期前半の土器である。石器としては石鏃、削器、掻器、石錘、石斧などがあり、利器の石鏃の石質の大半はサヌカイトであり、一部大分県姫島黒曜石やチャートが含まれている。三秋新池遺跡ではこれに赤色珪質岩を使用しており、地域によって石質が異なっている。
 網漁用の石錘は、偏平な緑色片岩の海石や川石の両端を打ち欠いて製作したもので、石橋や岩崎池、稲荷山畑の各遺跡からも出土している。おそらく、伊予灘での網漁に使用したものであろう。

 (5) 晩期 約三、〇〇〇年から約二、五〇〇年前であり、その時期の遺跡が片山遺跡である。
 片山遺跡は標高七m前後の低湿地中に分布する遺跡で、水稲耕作を行っていたとする以外に、その立地を合理的に説明することはできない。周辺の松前町横田や伊予市下三谷北組、仲組には弥生時代初頭の遺跡が広範囲に分布しているので、既に縄文晩期に稲作が行われていたと見てよかろう。伊予市内では縄文晩期の遺跡は将来、低湿地から発見される可能性が高く、松山平野南部での弥生文化発生の基盤は、この片山遺跡などにあったのかも知れない。


第53図 石橋遺跡出土の縄文後期の土器

第53図 石橋遺跡出土の縄文後期の土器


第55図 上三谷岩崎池出土の各種石器

第55図 上三谷岩崎池出土の各種石器


第56図 宮下本谷池出土の各種石器

第56図 宮下本谷池出土の各種石器


第57図 稲荷八幡池北岸出土の各種石器

第57図 稲荷八幡池北岸出土の各種石器


第58図 稲荷山畑出土の石錘と石槍

第58図 稲荷山畑出土の石錘と石槍