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伊予市誌

1 稲作の始まり

 伊予市では、縄文時代晩期でも触れたが、片山遺跡が低湿地に立地しているので、このころから水稲栽培が行われたと見てよかろう。稲作技術が四国で最初に伝わったのは伊予市周辺であったことは間違いない。それは弥生文化が発生した北九州との間に、既に海上交通路が存在したからである。
 伊予市海岸は関門海峡とは一衣帯水の関係にあり、かつ最短コースであるからである。そのことを証明できる資料として、弥生前期の有柄式磨製石剣や支石墓の存在を上げることができる。この両者は対馬や北九州地方にしかない考古資料であるが、例外的に伊予市や松前町に限って分布するという特色をもっている。この傾向は、次の古墳時代にも引き継がれている。
 大谷川や松前町の長尾谷川、国近川下流の低湿地で縄文晩期に稲作が開始されると、次第に周辺地域へ伝播したものとみられる。それが片山遺跡周辺の北替地、横田、北組、仲組遺跡へと拡大した。稲作が盛んになると、当然、農業用水の確保のため河川改修や溜め池の構築が必要となった。しかし、これらは人々の共同作業で初めて可能となるものであり、田植えや収穫時にも共同してこれに当たるようになり、小さな共同体的な組織集団が形成されるようになった。これがムラである。稲作を行うには水田が必要となり、家族単位で原野を開墾して確保した。開墾した水田は、開墾した人や家の所有になり、私有財産制が発生した。水田獲得の努力の差が、土地所有の差、すなわち経済力、ひいては貧富の差を生むことになり、次第に階級社会へと発展した。当時の開墾前の様子は、落葉性広葉樹や常緑広葉樹、針葉樹が生い茂る森であった。それらを伐採、開墾して水田化を計った。当時の原野は、平野中に残る鎮守の森から想像することができる。
 稲作のための共同作業や用水の分配を円滑に進めるには、作業を統括する指導者が必要となった。稲作が盛んになればなるほど、用水や開墾適地をめぐってムラとムラが対立し、紛争もしばしば発生するようになった。その際、経済的に裕福なムラの指導者は、大陸から伝わった鉄製武器をいち早く入手し、対立するムラを次々に支配し、より強力な支配者となった。伊予市に隣接する松前町横田では、既に竪穴住居とともに農道が設けられ、水田跡から人々の活動を示す多くの足跡なども発見されている。
 約二、四〇〇年前の弥生前期初頭の、弥生最古の土器の一つが片山、北組、仲組、横田などから出土しており、この地域を中心に弥生文化が発生し、開花している。約二、二〇〇年前の弥生前期中葉になると、上野土井池、八倉宮ノ北、篠原遺跡のように、山麓台地にまで遺跡が立地するようになり、農地の拡大が進んだことがうかがえる。山麓下の洪積台地まで水田化が行われたことは、高度な土木技術とともに、それを実施するだけの強力な支配者が存在したことを物語っている。

第61図 伊予市片山遺跡Ⅰ区出土の弥生前期の土器

第61図 伊予市片山遺跡Ⅰ区出土の弥生前期の土器