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伊予市誌

5 墳墓

 弥生時代の人々の死後の世界観は、墳墓の調査からその一部をうかがうことができるといわれている。伊予市内では縄文時代や弥生時代を通じて、その調査例が少ないため、墓制は明らかになっていない。そのなかにあって、弥生時代前期初頭の宝剣田遺跡からは、北九州地方にしか分布しない支石墓が発見されている。北九州地方の支石墓は、甕棺を土中に埋葬し、上部に支え石を立て、その上に大きな石を乗せた墳墓であり、朝鮮半島の影響の強い墓制である。有柄式磨製石剣の出土した東谷や寺山、田ノ浦などの宮下地区にも支石墓が存在したと見てよかろう。砥部町や松山市南部からは北九州地方と同じような配石土壙墓や石積土壙墓が出土しているので、伊予市内にも同じような土壙墓が存在したと推定することが可能である。
 中期の調査例はなく不明であるが、後期になると壷棺墓や箱形石棺墓、土壙墓などが出土している。猿ケ谷二号墳の基盤面から壷棺墓が一基と箱形石棺墓が一基出土している。壷棺墓は古墳時代初頭とされているが、箱形石棺と隣接しており、ともに弥生時代末とするのが妥当であろう。猿ヶ谷二号墳の基盤面に南接して弥生中期と後期の遺跡が存在していることは古くから知られており、このうちの後期の遺跡に関係した墳墓と見るべきであろう。ただ、この弥生中期と後期の遺跡は発掘調査から漏れたまま消滅してしまった。
 上三谷原古墳の墳丘中からも装飾性に富む特殊器台が出土している。報告書では中期後半としているが、後期前半か中葉と見るのが妥当であろう。松山市南部の土壇原北遺跡の供献土器と同じであることから、これらの供献土器群を中心に土壙墓や箱形石棺、壷棺墓群が形成されていたものと見られ、松山平野南部の墓制の特色をあらわしているのかも知れない。
 上三谷原遺跡からは箱形石棺が出土し、古墳時代としているが、出土遺物がなく、時代の決め手に欠ける。ただ、箱型石棺出土地の西の丘陵頂上部には、弥生中期後半から後期にかけての春戸口遺跡があるので、これらとの関係から弥生後期である可能性が高いが、既に春戸口遺跡は未調査のまま高速道路のため消滅しているので追求の方法はない。伊予市内の場合、箱形石棺が発見されると、すべて古墳時代だとする風潮が強いが、弥生時代にも箱形石棺があることは、砥部町の釈迦面山遺跡で証明されており、今後慎重に検討する必要があろう。

第75図 猿ヶ谷2号墳出土の弥生土器

第75図 猿ヶ谷2号墳出土の弥生土器


第77図 片山遺跡H区1号溝状遺構出土の弥生後期土器

第77図 片山遺跡H区1号溝状遺構出土の弥生後期土器


第78図 原古墳出土の特殊器台

第78図 原古墳出土の特殊器台