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伊予市誌

2 仏教伝来と古代寺院跡

 七世紀中葉にもなると、文字の使用が盛んになり、文献史料も豊富となるが、伊予市についての史料はなく、最近の平城京跡発見の木簡のなかに、伊予郡川村郷海部里があり、そこに白髪部がいたことが明らかになったぐらいで、その川村郷と海部里がどこにあったのかは不明のままである。川村郷の名からすると森川か大谷川、重信川の下流地帯であったことはほぼ間違いなかろう。海部里は漁業や製塩、海上交通に関係したムラであったのではなかろうか。
 このころになると市場加わらが鼻や堂ケ谷、三秋地区で寺院建築に必要な瓦生産とともに須恵器生産が盛んになる。五世紀前半の市場南組窯跡の窯業技術が、五世紀で終わり、それ以降の窯跡が発見されていないので、窯業技術が継承されたかどうかは不明である。だが、七世紀中葉から一〇世紀末までは森川流域で窯業が再び盛んになった。その最大の理由は、技術を別にすれば、原料の粘土が豊富に得られたことであり、生産した製品を容易に搬出できる土地であったからであろう。この点も初期須恵器生産と同じであり、森川下流の森の海岸に簡単な港湾施設を設け、そこから搬出したものであろう。「かわらが鼻」の地名は、かわら生産が盛んなハナという意味で、古代の産業名が地名として残った希有な例である。
 かわらが鼻で現在までに確認した窯跡は一八基あり、須恵器や瓦は七世紀中葉から九世紀前半まで生産が継続されていたようである。調査を実施したのは四基であり、他は未調査であるため、その時期は不明である。
 ただ、現在公開されている県指定史跡である三基の窯は、窯跡ではなく、八世紀の窯そのものであり、現在でも使用に耐えることのできる全国的にも例を見ない窯である。
 このほか、三秋や小野堂ケ谷にも数基の窯跡が分布しており、県内最大の窯業地を形成していた。伊予市内では五世紀末から七世紀前半の窯跡は確認されていないが、その間は砥部町周辺で須恵器や埴輪生産が行われていた。かわらが鼻での瓦生産は早くから知られていたが、その瓦を使用した古代寺院跡が伊予市内からは発見されていなかった。最近になって、かわらが鼻で生産した瓦を使用した寺院跡が上吾川で発見された。これが上吾川古泉廃寺である。上吾川古泉廃寺は上吾川の伊予岡丘陵東四〇〇mの、市坪古泉に所在しか古代寺院跡である。
 大化の薄葬令とともに仏教が伝播すると、今まで政治的・経済的権力のシンボルでもあった大きな古墳築造に代わって、仏像を祀る巨大な氏寺を建立するようになった。上吾川古泉廃寺や八倉篠原廃寺がそれである。
 上吾川古泉廃寺は一九九一(平成三)年に発見された白鳳時代から天平時代にかけての寺院跡である。建造物の基礎や柱穴の一部が出土しているが、部分的な調査のため、伽藍配置などは不明である。ただ、時代的には法隆寺式伽藍配置が想定される。大きな瓦葺の建物であるため柱も大きく、建物自体も巨大であり、当時の人々にとっては驚異の建築物であったと見てよい。ただ、上吾川古泉廃寺を建立した豪族は不明である。
 八倉篠原廃寺からは、多くの古代瓦が出土したが、時代を想定できる軒瓦は一点も出土していない。川石を数段積んだ基壇が出土しているが、傾斜地で狭く、七堂伽藍は考えられず、一宇一堂の寺院であったようである。おそらく、この地の豪族が屋敷内に仏像を安置するため堂を建立したものであろう。伊予市内にはこれ以外にも稲荷征露池や八幡池から古代の布目瓦が出土しているので、両池に挟まれた台地上に古代寺院跡が地下深く眠っていると見てよかろう。また、上野土井池遺跡でも地元の小学生が古代の布目瓦を採集している。
 いずれにせよ、七世紀以降になると、大谷川と梢川に挟まれた地域に伊予の中心があった可能性が考えられる。
 奈良時代後半から平安時代前期の明確な遺構は発見されていないが、北替地や太郎丸追跡から方形の大型柱穴プランの掘立柱建造物跡が検出されているので、地方官衙的造物が存在していたようである。が、果たしてそれが伊予評衙か伊予郡衙であるかは定かでない。
 伊予市を中心とする地域は、弥生時代前期初頭の支石墓、有柄式磨製石剣、遠賀川系の土器から、朝鮮半島南部や北九州地方の文化がいち早く流入したようである。
 古墳時代中期には、鍛冶や窯業技術をもった人々の渡来、古墳時代後期には瓦窯業技術をもった渡来人がこの地に来ている。それぞれの時期には、それらの文化や産業を受け入れるだけの政治的、経済的な小国家や豪族が存在していたことになる。
 最後に、伊予市の原始・古代の考古資料のなかには、全国的に見ても非常に重要なものが多くあるが、これらへの関心は今一つで、次々と消滅しているものもある。なお、調査が行われた遺跡の大半は、圃場整備と高速自動車道建設による緊急発掘調査であり、そのほとんどが破壊・消滅を前提とした記録保存のための調査である。今後は、保存・顕彰のための学術調査が行われることを期待したい。
 伊予市内で現在までに確認されている遺跡は、全体から見て一割にも満たないほどである。これらから残りの九割を想定することは極めて困難である。それを承知のうえで、あえて伊予市の原始・古代の文化についての紹介を試みてみた。

第98図 上三谷2・8号墳の遺構配置

第98図 上三谷2・8号墳の遺構配置


第99図 上三谷2号墳石室内遺物の出土状況

第99図 上三谷2号墳石室内遺物の出土状況


第101図 上三谷7号墳出土の朝顔型埴輪と円筒埴輪

第101図 上三谷7号墳出土の朝顔型埴輪と円筒埴輪


第102図 須恵器・瓦窯跡と古代寺院跡分布図

第102図 須恵器・瓦窯跡と古代寺院跡分布図


第106図 上吾川古泉廃寺出土の白鳳時代(1~7)と天平時代(8・9)の古瓦

第106図 上吾川古泉廃寺出土の白鳳時代(1~7)と天平時代(8・9)の古瓦


第107図 上野土井池出土の古代瓦

第107図 上野土井池出土の古代瓦


第108図 平松遺跡出土の円面硯

第108図 平松遺跡出土の円面硯


第109図 稲荷八幡池(1~3)と征露池(4・5)出土の古代瓦

第109図 稲荷八幡池(1~3)と征露池(4・5)出土の古代瓦