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伊予市誌

1 伊予郡の成立

 中央では中大兄皇子・中臣鎌足らによって、蘇我氏の滅亡(六四五年)とともに大きな政治的変化である大化の改新が行われ、中央集権的な法治国家をつくろうとする理想がかかげられた。その翌年一月に改新の詔が発せられて政治の大本が示され、そのうちの一つとして、郡県制度によって新しい行政区画がつくられるようになった。すなわち、全国を国・郡(評)・里に分けて、それぞれ国司・郡司・里長を任命して地方の制度を定めた。この大化の改新の事業が進むにつれて、このしくみを固めるきまりをつくろうと企てるようになった。やがて、それは律令の制度となって現れたもので、それを完成したものが大宝律令(七〇一年)である。大化の改新の精神は、約五〇年の後にできた大宝令によって、ようやく実を結ぶことになった。

 国 
 七〇一(大宝元)年に大宝律令が成立して大国・上国・中国・下国の四段階とした。伊予の国は上国となり、長官すなわち守(従五位下相当官) 一人、次官すなわち介(従六位下) 一人、判官すなわち掾(従七位上) 一人、及び主典すなわち目(従八位下) 一人と史生三人が配置された。伊予の国司に初めて任命されたのは田中法麿で、大宝律令の制度に先だつこと一四年、すなわち持統天皇の一年(六八七年)のことであった。なお、法麿は別に四国全体を治める任務も兼ねていた。

 郡 
 国の下の行政の単位としては郡が置かれた。この郡は二〇里以下二里以上にまで組織され、前の時代の国造が治めていたものを、そのまま郡司として治めたものが多い。大宝律令はその後、養老年間に大修正が加えられたが、郡司制度には修正は加えられず、大宝律令そのまま奈良時代を通じて行われた。平安朝中期になって国司制度は乱れてきたが、郡司である地方豪族は、郡司そのものよりも地方豪族として多年養ってきたかくれた勢力によって豪族としての本領を発揮し、郡司制度のくずれるのを早め武士が発生する基をつくった。
 律令制度が行われるようになってからの伊予の郡の置き方を見ると、五つの国造の国は、伊予の国が伊予郡に、怒麻国が濃万郡に、小市国が越智郡に、風速国が風速郡に、久味国が久米郡になったことはいうまでもないが、『和名抄』には全部で一四郡になっている。この中には八六六(貞観八)年に置かれた喜多郡が入っている。

 里 
 郡の下に地方行政区画の一番下の単位として里が置かれた。大化の制度及び大宝令で決められた郡及び里の区分は、民戸の数によって五〇戸を一里とし、二〇里以下を郡とした。
 この里という名称は、奈良時代の初めに郷と改称せられたようであるが、その理由は条里制の施行によって各里の里と区別がつかなくなったので、これを改める必要があったからである。