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伊予市誌

一、領主の交替

 小早川隆景 
 この伊予市の地も、中世以後も次々とその支配者を変えた。豊臣秀吉の四国征討によって、伊予は河野氏及びその幕下をはじめ諸豪族も、ひとしくその威令に伏するか、あるいは滅亡し果てた。その結果小早川隆景は、一五八五(天正一三)年八月、伊予三五万石を与えられ、河野氏に代わって湯築城を本陣とした。この伊予市の地もその治下にはいったわけである。
 隆景は天正一四年後半には、秀吉より九州征討出陣の命を受け、伊予勢をも合わせ率いて出動した。九州では大きい戦果を収め、一五八七(天正一五)年六月には筑前一国・筑後一国・肥前一郡半を与えられて転封した。

 戸田勝隆・福島正則 
 隆景の後へは、戸田勝隆・福島正則が入封した。正則は一五八七(天正一五)年八月、秀吉から宇摩郡・新居郡・周敷郡・桑村郡・越智郡の一一万三、二〇〇石を与えられ、別に蔵入代官地九万石を預けられた。代官地の地域は明らかでないが、中予地方と思われる。
 戸田勝隆の入封については、領知目録が伝わっていないので時期も禄高も明らかでない。しかし、温泉郡中島町『二神家文書』に、天正一五年七月一四日付の勝隆の検地条目が伝えられているから、この日以前の入封である。その領地は宇和郡七万石、代官地喜多郡三万石といわれる(一説大洲地蔵嶽城一〇万石、蔵入代官地一〇万石)。この年一〇月には、大洲地蔵嶽城に入城した。
 福島と戸田と、この両者の支配地の接触地点はどこであったかは明らかでない。少なくとも福島は東予を、戸田は南予を領知し、両者の代官地が中予・喜多郡にあったことは察知される。この伊予市の地は、両者いずれかの代官地として支配されていたのであろう。

 粟野秀用 
 伊予郡柾木城主粟野杢頭秀用の受領は、須田武男によって提示された(『伊予史談』二一二号、『松野町史』八二六ページ)。須田の所説によれば次のようである(摘要)。

  柾木城主となった粟野秀用は、所領は旧領を加えて伊予国一〇万石、更に二万石(土地不明)が加封された。就封の時期については、天正一六年二月に戸田勝隆が大洲地蔵嶽城から板島丸串城に移っているので、喜多郡から中予の代官地のうち、一部があけ渡されたと見られる。すなわち天正一六年ころ、正則・勝隆の代言地、柾木城を中核とした中予の地が秀用に与えられたのであろう。秀用は天正一九年二月豊臣秀次が関白になるに及んで、その御付衆一人となった。そのことからついに文禄四年七月一五日主君秀次に殉じて切腹のはめとなり、その所領は除かれた。

 加藤嘉明 
 文禄朝鮮役の功により、加藤左馬助茂勝(嘉明)は一五九五(文禄四)年七月二一日久米郡・温泉郡・伊予郡等領地六万石、浮穴郡内・温泉郡内・伊予郡内等蔵入代官地四万石を預けられた。伊予郡は領地にも代官地にも加えられていたので、この伊予市の地は、加藤嘉明の支配地となったわけである。のち二〇万石に増封した嘉明か会津若松四〇万石に転封したのは一六二七(寛永四)年二月一〇日、その治政は三三年に及ぶ。この間に慶長朝鮮の役、関が原の戦、慶長・元和の大坂の陣等で、嘉明は多くの戦功を重ねている。しかし、この地の人々が、こうした領主の大事にどのようなかかわりをもったかは明らかでない。
 施政に関することとしては、わずかに『大洲旧記』(第一一)に次のように散見するに過ぎない。

  慶長年中上野村と改む、分郷の庄屋玉井三郎右衛門、松崎城加藤公より命ぜらる、(上野村)
  今庄屋は加藤左馬介嘉明公の節門田九郎左衛門に命ぜらる、(麻生村)
  若一社、(中略)加藤左馬介来り給い、高市氏社源家累代の鎮守なればとて、慶長七年釿初、友沢兵衛尉奉行し、八月に建つという、(上三谷村)

 蒲生忠知 
 加藤喜明転封の跡地には、一六二七(寛永四)年二月一〇日蒲生中務大輔忠知が、出羽国上山城から松山城二〇万石を与えられ、近江日野の旧領を添えて二四万石に封ぜられた。この伊予市の地もその支配地となった。忠知の領有は約八年、一六三四(寛永一一)年八月一八日京都で急逝、嗣子がなかったので断絶した。