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伊予市誌

3 大洲松山入会山紛争

 入会山 
 陸地部農民にとって、田畑に次いで必須の自然条件は原野山林であった。日用の燃料(柴・落松葉・割木)のほか、屋根用の茅、牛馬の飼い草、肥料としての敷き草など、すべてこれをいわゆる柴山(雑木山)・茅山に仰いだ。こうした山を自村に有する村々は別として、それ以外の村々は古来から慣行的に共同山を所有した。いわゆる入会山である。もとより松林山・檜山等は藩有の御林山(御用木林)と呼ばれるもので、これには手をつけることができず、許可を得た場合だけ落松葉(すくず)かきができた。
 松山領のままに残った伊予郡・浮穴郡・温泉郡の郷村のうち、替地によって入会山が大洲領に組み入れられた諸村は、自村には柴山はもとより茅山すらなかった。ために旧来から砥部山・大平山・三秋山を入会山としていた。これに反して大洲領となった浮穴郡・伊予郡の村々は、ほとんど柴山・茅山に恵まれていた。愛媛県文庫本『慶安元年伊予国知行高郷村数帳』によれば第15表及び第16表のようである(○印は存在を示す)。

 山札証文 
 大洲領となる入会山に関する松山領村々は、松山城授受並びに替地見届けの任にあった幕府上使松平出雲守勝隆・曽根源左衛門吉次によって、その権益は保証された。その裏書きを持つ証文は次のようである(『入相山一件書面写』玉井達夫蔵)。この地の入会山の慣行は、地元以外は柴刈には歩行柴札、割木伐採には割木札を定め、札銭を支払う方式で、それを明らかに規定した。牛馬飼料、肥料用刈り敷きには札銭を必要としなかった。
(図表 山札写し(略))

 柴札一枚銀一匁、割木札一枚銀一匁五分の札銭を納め、入山の時はこの札を腰にさげる定めであった。ただし田地こやしの刈り敷き、牛馬の飼い草は札銭を必要としない。入会山は砥部山・大平山・三秋山と決められた。しかし年数の間に相互にこれを忘却し、利己的に解釈することから紛議を起こした。

 寛文争論 
 寛永年度の先規もいつの間にか誤解を起こすことになった。承応末(一六五二~五四)から明暦初頭(一六五五~五六)のころ、大洲方は、刈り敷き・飼い草の刈り取りも山札なしの入山を差し留め始めた。これは証文違反で松山領民は「これしきの儀とやかく申すも事がましく候」(「下三谷宮内家文書」寛文拾壱(辛亥)年山論大洲松山掛合書写、宮内長蔵、寛文山論の項すべてこの史料による)と、有り合わせの柴札を持参する者もあり、札なしに押し入れる者もあった。更に時期は明らかでないが、既にこれまでに札銀も柴札一枚につき二匁に値上げされていた。こうした先規の変改にもかかわらず、際立った争いも起こらずに過ぎた。
 一六七〇(寛文一〇)年一一月二三日、大洲藩替地代官所は、手代をもって関係松山領郷村に対して次のように通達した。
  1 藩主泰興の命によって、野山を新松林に仕立てる。
  2 牛馬を入れず、下草刈りも許さない。
 既に大洲藩では藩主の命を受けると同時に、新たに番所を設け足軽二人を置き、山札改めを厳重にし始めていた。驚いた松山方村々は、新松林の造成の取り止めを強硬に陳情し、刈り敷き・飼い草の無札入山を先規通り許容するよう訴えた。替地代官は新松林の件は藩主の命なので一存では答えられない、新林でも下刈りは先規通り許すと答え、無札入山の件も認めた。一応は松山方の要求は達せられた。
 一六七一(寛文一一)年三月八日、替地代官は大洲郡奉行所の指示により、突如歩札一枚銀六匁、馬札一枚銀一〇匁に値上げすることを布達した。この触状と同時に大洲藩は、従来の柴札(二匁古札)での入山を番所で差し止めた。この変革は松山方村々を仰天させた。柴札が六匁、馬札が一〇匁に急騰したからである(寛永証文には馬札は出ていない、おそらく歩行柴札が二匁に変わった段階で、馬背での薪運搬が認められその札銀も定められたのであろう)。これがいわゆる寛文山論の発端となるが、『松山叢談』(第四)には次のように録されている。

   同年(寛文一一年)大洲領替地山出入これあり、向後伊予郡より無札にて右領内へ入り草刈勝手次第に相定まる 本譜・藩。

 この「草刈勝手」の表現だけでは誤解を招くおそれがないとはいえないが、山論の経過には両藩農民の複雑な思わくの駆け引きががらんでいた。
 松山方伊予郡代表は、三月一二、一三日両日にわたって、替地代官所へ札銀は従来通り二匁とすること、古札での入山を許すことを陳情した。代官の返答は、札銀については大洲奉行所と相談の上追って通達する、古札での入山は一応認め明日より刈り取りを許すということであった。次いで四月一日、松山方庄屋代表は替地代官所から出頭を命ぜられた。札銀二匁の件は承認されたが、新たになかごぜ山について「下刈は申すに及ばず牛馬までも入らせ申事相成らず」ということ、更に「百姓共私林にて下苅までも仕るまじく」ということの一札を、一九村庄屋連判で提出せよと申し渡された。松山方庄屋は、なかごぜ山など所在も境も不分明であると抗議し、結局その山の境図作成を上三谷村庄屋彦兵衛に命じてもらうことで妥協し、彼らは帰村した。
 四月七日に至って、大洲藩番所は松山方の苅敷無札入山をまたもや差し止めた。松山方庄屋代表は替地代官所手代友沢彦右衛門に対して、従来の約束と違反することを抗議した。友沢の返答は、大洲方庄屋らは苅敷入山も柴札をもってするのが先規だと主張し、そして松山方の陳弁は偽りであるから差し止めたというのである。松山方の庄屋らは「もはや私共の分別に及ばず候」と、松山藩代官所手代に出訴するに至った。

 大洲松山両代官所交渉 
 松山藩代官只浦権兵衛は、自領庄屋を喚問し先規をただして確信を得、彼らにその由の証文を提出させた。内部的に証拠固めを行った只浦は、替地代官所渡部源太左衛門・服部左次右衛門にあてて、四月九日先規通り苅敷無札入山を許すよう申し入れた。これに対して大洲方代官所も、先規通りと主張、庄屋らを派遣するから実情聴取ありたいと回報した。四月一三日に大洲方は、八倉村庄助・上野村三右衛門・宮下村六左衛門・釣吉村甚右衛門・上三谷村彦兵衛・下三谷村九郎左衛門の六人を派遣した。しかし只浦権兵衛は郷中出張ということで面会しなかった。翌日手紙をもって只浦は、「たとい宿にあり合わせ候とても、我ら一人承わり埒明き申す事にてこれなく候」として、重ねて先規通りの実施を要求した。

 解決 
 交渉はデッドロックに乗り上げた。窮した大洲方代官は、四月一六日替地町年寄向井利兵衛に命じて、手紙で松山領北河原村大庄屋隠居栗田八郎右衛門を招致させた。代官は栗田に斡旋を依頼したが、彼の「苅敷を札なしに苅り来り申す所古法にてござ候」という断言を了解、その通りにすると約言した。更になかごぜ山の新林もやめることにしたが、ただ新松林造成は出羽守が直命で江戸へ伺うとして留保された。話をつけた栗田は帰村して松山方庄屋らに報告した。
 四月二三日からは、松山方村々は先規のように入会山に刈り取りに行き、牛馬も入れた。しかし両藩の公式的な解決は、六月一三日松山藩郡奉行書信、同一四日大洲藩郡奉行書信の取り交わしによって完了した。要するに寛文山論は、大洲藩が一方的に新法を立て新計画を実施しようとしたことが、紛争を誘発することになったものである。

第15表 大洲領となった伊予郡の村々

第15表 大洲領となった伊予郡の村々


第16表 大洲領となった浮穴郡村々

第16表 大洲領となった浮穴郡村々


資料 山札写し(略)

資料 山札写し(略)