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伊予市誌

2 天領の成立

 上地 
 一七一二(正徳二)年六月、大洲藩は老中から来春一、五〇〇石の領地を代官所に引き渡すよう命ぜられた。減地は困るので極力陳情して蔵米上納を願っていたが、翌年七月九日江戸留守居役が召喚されて厳命があった。やむなく勘定所において書き付けをもって南神崎村一、五〇〇石を代官平岡彦兵衛へ引き渡した。
 南神崎村は元来一村であったが、一五九六(慶長元)年分郷して宮ノ下村・上野村の二村になったという。しかし大洲藩は替地後分村を届けなかったので、公簿(朱印状郷村目録=勘定所公簿)はそのまま「南神崎村」一村として、公的には明治維新に及んだ。領内としては二村でおのおの庄屋が置かれ、独立村として施政されて来ていた。このときの上地は次のようであった。
  宮ノ下村全部 高 一、〇一五石一三五
  上野村半部  高 四八四石八六四(本村・高瀬・松本)
 上地してからは宮ノ下村は「南神崎村」の旧称に復した。上野村上地分は「南神崎村上野分」と呼ばれ、通称は「上分」であった。これに対して私領分として残った上野村高五二三石五斗六升五合は「下分」と呼ばれ、時の庄屋玉井三右衛門は両上野を支配した。
 こうしてこの年一七一三(正徳三)年から一、五〇〇石の地は幕府直轄地となったわけで、「御料所」(公料・天領)と呼ばれた。

 六万石維持 
 上地は藩においては重大なことであった。表高六万石の格式が低落するおそれがあるからである。庄屋ら数名が巡見使に朱印状で減石にならぬよう直訴歎願することなどもあったが、藩は幕府勘定所と熟談、願って村々で時の新田を古高に加え増高とすることが認可された。そのために異状なく一七一七(享保二)年八月一一日将軍吉宗から六万石の朱印状を与えられた。このことは翌年三月一一日領内に布告された。増高といってもこれは形式上の処理で、課税対象にはしないことが特に明らかにされた(『和田家文書』和田篤蔵)。郡中分は第17表のようである。

 松山藩預所 
 一七二一(享保六)年閏七月二三日、松山藩主松平隠岐守定英は、宇摩郡・新居郡・伊予郡の公料一万一、〇〇〇石余の地を預けられた。大名が公料を管理させられることを「預かり」といい、その地を「御預所」という。右に伊予郡とあるのが南神崎村で、この年幕府代官所支配から松山藩預所となったわけである。その管理は一七八〇(安永九)年まで約五九年間続いた。
 川之江市の長野新太郎蔵に『御料村々明細帳』がある。そのうち享保六年の『伊予国伊予郡南神崎村明細帳』に、当時の村の概要が記録されている。天領貢租など注意すべきものがある。

   一、高千五百石       本田畑
     田六拾六町九反七畝拾六歩
     畑七拾五町六反五畝弐拾三歩
   一、高三石九斗九升五合   新田畑
     田壱反壱畝拾四歩
     畑九反四畝八歩
  小物成
   一、銀七百九拾九匁八分壱厘 諸小物成
   一、銀弐百弐拾五匁六分   御蔵米入用
   一、米壱石五升三合     御伝馬宿
   一、米三石八合       御六尺給
   一、米拾五石四升      庄屋給
   一、米五斗四升七合     役 米
   一、銀四拾九匁八分     庄屋役銀
  右之外
   一、米壱石         水番給
   一、同七斗四升       升取給
   一、同壱石弐斗       山守給
   一、同壱石弐斗       夫番給
   一、同三石         小走給米
   一、同壱石六斗       座頭扶持方
   一、同八斗         瞥女扶持方
   一、同五斗八升四合     □□追□□へ渡ス
   一、同六拾石        組頭六人足役
   一、用水溜池数七ツ
     長尾大池・同小池・新池・つんぼ池・不路谷池・上はぎ池・東谷池
   一、御制札弐枚       切死丹御札・放化御札
   一、家数弐百拾八軒
    内 本門拾九軒  百姓門百三拾三軒 
      社家門弐軒  水呑門六拾四軒
   一、人数千百四拾六人
    内 男五百八拾八人  女五百五拾八人
   一、牛馬数  馬六拾疋  牛五拾八疋
   一、□□家八軒


第17表 古高・増高表

第17表 古高・増高表