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伊予市誌

1 百姓一揆

 農民紛争 
 農民紛争のうち局部個人的なものは除いて、部落共同体の紛争は多種多様であった。大別すれば共同体間相互の紛争と、農民共同体が支配機構に対する抗争との二種が考えられる。前者には山論・水論・境論・網代論等の共同体各個の利権に関するものがある。既述した米湊網代論争、大洲松山入会山論争などはこれに属するが、これらは性質上藩の対立にまで発展した。後者はいわゆる百姓一揆で、農民の反撃王闘争である。
 農民が支配層にその要求を表示する場合、村役人である組頭・庄屋らを通じて順当に上司に願い出ることが正統な筋道とされていた。これを「歎く」・「歎願」といった。歎願が聞き届けられず、しかも堪え得ないときはいきおい強行手段に訴えざるを得ない。百姓が社寺や山中などに集会して要求達成を盟約したりするが、そのようにして形成した集団を「徒党」といい、また徒党して自村を捨て他村(他領)に立ちのくことを「逃散(村出)」という。この方式は古い時代からあったが、藩政期には他領の領主にすがって目的を達成しようとしたものである。しかし、大半は集団的示威行動の一種であった。更に積極的に徒党をもって役所や藩庁に要求を迫るのが「強訴」である。百姓のこの大衆行動(実力行使)をこの語で呼んだのは幕府であった。これにはしばしば打ちこわしや略奪の乱暴を伴うことが多かった。

 砥部騒動 
 砥部大庄屋排斥の強訴(藩の判断)である。砥部庄の田中(本姓中村)家は、初代喜三右衛門が加藤嘉明の時代に大庄屋を命ぜられて以来その職を世襲した。六代喜三右衛門(權内)のとき替地となり、大洲藩にもそのまま大庄屋職が認められ、種々功績があって藩主泰興より扶持方五人分と城之内新田のほか山林四か所を与えられた。「砥部の大巾着」と異名され傑物であったようである。
 九代田中權内も五人扶持を与えられて大庄屋勤務三七年に及んだ(『積塵邦語』)。しかし、その末年は家計不如意に陥り、財政たて直しのため藩の支配を乞い、村々百姓へも支配米を賦課した上、大庄屋への役入用等も多額に徴収した。それで諸村農民はその負担に堪えかねた。大洲藩には大庄屋はかつて就封以前から引き続きの五十崎の栗田宗徳があっただけで、これも寛文ごろには消滅した。したがって、領内にはこの田中權内以外には大庄屋名目はなかったのである。そこで砥部谷内一七か村の百姓らは、一七四二(寛保二)年の春(『御替地古今集』は寛保元年とする)、「大庄屋なしに成し下され度」とこぞって訴願し騒動に及んだ(『上唐川影浦家文書』「永代日記帳」影浦桂一蔵)。大洲藩は徒党強訴と見なし、「右願い不届」と必死に頭目を追及したが、これを明らかにすることはできなかった。代官瀬尾彦右衛門(徒士小性)・志鳥助七(徒士小性)は、やむなく上野村庄屋玉井儀兵衛・下唐川村庄屋菊沢九左衛門に取り扱いを命じた。両人は居村のことでもなく、関係者の一命にかかわることだからと強く辞退した。瀬尾・志鳥の両代官は生命は保証するから「問い落とせ」と厳命した。玉井・菊沢はやむなく事件審理に当たり、首謀者は北川毛村庄屋善兵衛および川登村百姓佐次右衛門で、連累は五本松村庄屋向井忠助であることが明らかになった。瀬尾・志鳥の保証も無益で、藩は頭取処刑に決定し、一七四二(寛保二)年七月二七日、善兵衛・佐次右衛門は斬罪に処せられ、忠助は庄屋取り上げの上領内追放、主だった百姓も追放された。
 この事件について、藩は十分に訴願を審理することもなく一方的に徒党強訴と判じ、むしろ田中權内を擁護する立場をとったようである。『大洲旧記』も村人らが「このごとき類多く見ゆれども世に恐れて云わず」と記しているほどで、はばかられたとみえ明らかにされなかった。權内には別に咎めはなかったが、一七五〇(寛延三)年一〇月一〇日藩から大庄屋の廃止が申し渡され、彼の庄屋株の売券も命ぜられ、宮内村庄屋株は高橋仙右衛門に売った。寛延内ノ子騒動があったりして、藩の農民懐柔策ででもあっだろう。しかし、權内は一七五四(宝暦四)年には藩の御普請方下奉行に任ぜられている(『上唐川影浦家文書』・「御替地古今集」・『大洲旧記』)。
 事件の頭取詮議に当たって、庄屋善兵衛は玉井儀兵衛宅に預けられた。彼は訴願の趣意書を詳細に書きあげていた。代官瀬尾・志鳥は文書訴願をきらい、儀兵衛に命じてこれを思い止まらせようとした。善兵衛は「この書付指出し申さず候ては、これまでの成り行き私の一命にかかり候と存じ候事ゆえ、何分御指出し下され候」ように押して申し出た。代官の内意を伺うと、書類は出さずとも一命は別条ない、出さぬように取り扱えと玉井に命じた。玉井は善兵衛の一命を請け合った上で、訴願半紙二七枚の口上書を焼却させた。善兵衛の処断が決定したため、玉井儀兵衛は善兵衛存命の間に切腹しなければ人間の義理か立たぬと決意した。その意図を察知した組頭小右衛門は油断せず刃物を遠ざけ、介抱の体で番人をつけた。しかし儀兵衛は庭石で頭を割ったり、三間ほどの石垣の上から逆様に落ちたりして、自殺をはかったが失敗に終わった。七月二七日善兵衛処刊の刻限に舌をかみきって死んだ(『玉井家文書』「玉井儀兵衛義下由来」玉井達夫蔵)。
 こうして大庄屋排斥に立ちあがった一七か村訴願一件も、結果的には大庄屋廃止を勝ち取った形ではあったが、頭取吟味における藩の操作によって代官らの術中に陥り、訴願口上書も烏有に帰し、良心的な玉井儀兵衛の自殺という悲しむべき犠牲を重ねる結果に終わった。玉井儀兵衛は玉井家第六代、第三代孫右衛門の二男。一七二〇(享保五)年から庄屋役を務め、一七四一(寛保元)年名字帯刀を許された。法名は善明院勸達智道居士という。

 寛延内ノ子騒動 
 一七五〇(寛延三)年一月一六日小田筋の露ノ峰村・父ノ川村農民が願い筋ありとほう起し、次々に村々を誘って打ちこわしを行い、内子河原・五十崎河原などに集合、庄屋宅・豪商宅に被害を与えた。浮穴郡・喜多郡各村が参加、一万八、〇〇〇人に及ぶ総百姓一揆となった。ひどい強制と勤誘を受けながら関与しなかっだのは、城下町・長浜町・替地・忽那島であった。特に替地は応じなかったばかりでなく、農民らは伊予岡八幡宮において静安祈願を行った。藩は、替地は別に願い筋は出していないが、郡内百姓の願い筋と同様に処置することを約して、総百姓を次のように賞揚した(『上吾川宮内家文書』)。

  このたび小田筋奥村より百姓共騒動におよび、追々村々を誘出し郡内残らず徒党せしめ、替地隣村よりは度々誘出で候えども、替地郷分は残らずまかり出でざる段、誠に神妙の至りに候、その上吾川村八幡宮において静安の祈り等修行せしめ候由、かれこれ奇特の事どもに候、郡内の百姓願い筋の儀、新谷表取扱いによって訳立ち候品これ有り候、替地村方の分願いの筋はこれなく候えども、一統の義は右に准じ追々申付くべく候条、その旨相心得べきものなり、
    寛延三庚牛年正月         郡奉行
                         奉 行
                         替地表
                         惣郷中

 次いで翌一七五一 (寛延四)年二月には、村ごとに同様の感状が
与えられた(『玉井家文書』玉井達夫蔵)。

 砥屑捨夫事件 
 一七六四(明和元)年大洲藩は新法をたて、古来より伊予砥として有名であった外山村の砥石産出を増加するため、砥屑捨ての人夫の出動を替地里分(伊予郡)村々に新たに課することにした。やむなく村々は一、二年は人夫を供出していたが、何分慣れない里分の百姓のことで、次々と負傷者が続出して苦しんだ。庄屋中相談の上で毎度代官へ出夫御免を願い出た。余りきびしく歎願したので藩ではこれを強訴と断じ、城下より郡奉行藤江善左衛門、代官鎌田新右衛門を派遣して、種々検問を加え審理するところがあった。けっきょく罪科があると裁定して、首謀者として本郡村庄屋片岡丈平・下唐川村庄屋菊沢与八は閉居、その他多くの百姓もとがめを受けた。しかしその後この出夫課役は廃されたので目的は達した。菊沢与八はその著『予州領御替地古今集』に、以上だけしか記載していない。はばかって詳細を省いたのであろう。

 奥福騒動と郡中 
 一八六六(慶応二)年七月、喜多郡大瀬村大久保組の百姓福五郎(流布名福太郎)は、大瀬村の貯米貸し出しを村役人に願い出て拒否されたことに端を発し、物価高騰は悪徳商人の暴利によるとして徒党を決意した(横田伝松説)。神職立花豊丸が参謀格となってげき文を書き、これを内ノ子を中心に数十か村に配布、これに応じない村は焼き打ちにするとおどした。焼き打ちを恐れる(村々では奥福が来るというと子供も逃げ隠れたという―小田留義談)とともに、平生豪商らを憎んでいた農民は、陸続この企てに応じて、七月一五日夜打ちこわしの騒動をひき起こした(篠崎菊太郎説)。一六日早朝内ノ子五百木屋(高橋彦兵衛)を襲ったが、一七日までには出村三〇か村、人数一万人余と伝えられ、はてしない乱暴が続いた。藩は警衛人数二隊を派遣、説得に努めてようやく鎮静させた。
 この豪商に対する農民決起は、直接加わらない領内各地にも連鎖反応を起こさせた。郡中町分もその例であった。折から米価が高騰して困窮していたので、一体に不穏の空気が漂っていた。一六日には町内浜方の者は蛭子社に総寄せを行ってただならぬ様子であった。町老岡井九左衛門や浜方役人中はこれを案じて、網持ちのうち金蔵・藤右衛門の両人にその取り持ちを命じた。彼らの要求は、米商の木屋豊三郎・米屋亦助・伊予屋源兵衛の三人に対する商売差し留めであった。理由は、三人は四月ごろ一石銀札九〇〇匁相場の米を城下方ヘ一貫一〇〇匁に売り払ったため、在方の米価を急騰させ難渋者の生計を立たなくした元凶だからだという。実はこの三商は既に藩役所も不正に注目し、拘引して吟味しとがめ中であった。更に彼らは、在方からの米はすべて町分米屋に入り、浜方米屋は品切れになることが多いので善処方を願い出た。町老らが承認したため彼らは夜になって引きあげた。
 翌一七日代官所は木屋ら三軒の商売を差し留め、木屋・米屋は役所に留め置き、伊予屋は丈五郎への預けに処した。一方浜方町民に対しては、代官所は二三日吟味に取りかかった。徒党めいているので法のきりきわをつけるためである。町老岡井は容赦を願い続けていたが、浜方役人に命じて浜方民自粛の方策を斡旋させた。二六日浜方役人は、浜方の年長者一九人を招集、町老歎願の委細を申し聞かせ、今後一統が寄り合って相談がましいことがないよう、筋立った願い事は一九人より取り次ぐよう、また不穏の気配があれば一九人が押さえるよう、十分にさとした。彼らは承諾誓約することになった。二七日町老岡井はこれを代官に報告、彼らが吟味を免かれるよう歎願したので、浜方一統は町老預けということで落着した。この日米屋三人も夕方ようやく帰宅を許され、身柄は町役場預けということで、商売復活も認められた(『塩屋記録』)。
 郡中においては浜方が集会を持つただけでおさまったが、悪徳商法に対する痛撃は成功したといえる。