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伊予市誌

2 幕府貯穀令

 囲い籾 
 享保の大飢饉をはじめとして、以後連年全国に凶作が続き、そのつど幕府も飢人取り扱いに頭を悩ますことが多かった。一七五三(宝暦三)年凶荒備蓄のため、公料に対して租入の十分の一を囲い籾(貯穀)するよう布令するとともに、諸大名に対して四月二九日同様にこれを命じた(『惇信院殿御実紀』)。この令は強制的なものではなかったようで、伊予では宇和島藩だけが一万石につき一、〇〇〇俵の割合で貢租のうちをもってこれに当てた。一七七四(安永三)年にも幕府は同様に令した。
 一七八九(寛政元)年九月一五日、幕府は非常の備えのため改めて囲籾令を発した(『御触書天保集成』)。明年から五か年間一万石につき五〇石ずつを領国に囲い置けというのである。大洲・新谷両藩とも直ちに領村に物成りのうちから籾を納入するよう割り付けを行った。上野村では一年に一〇石五斗、宮ノ下村では八石二斗であった。布達は次のようである(『玉井家文書』「己酉蔵御触状写」文部省史料館蔵)。

  わざと申触れ候、然らばこの度大公儀より御囲籾の義仰せ出だされ、当年より別紙石高御物成の内にて五か年の間籾にて上納これ有るべく候、冬分は御蔵も事多く候へば、来春左の通り相納めさせ申さるべく候、もっとも年数御囲い置かれ候条、修理に随分念を入れられ、もちろん拵等粗末これなきよう取計らいこれ有るべく候、以上、
    (寛政元年)
    酉十月廿六日            (代官)高山 文内
   (別紙)                   菊原 円助
   一籾拾石五斗(上野村割当)

 このように各村に割り当てて蓄積を重ね、幕命のとおり大洲は年々籾二五〇石ずつ五年まで一、二五〇石、新谷は二五〇石に達した。しかし大洲新谷両領内の米質は、油強籾なので永年貯蔵には堪えないという理由で、米で貯蔵して毎年入れ替えることを幕府に願って、一七九三(寛政五)年八月二三日許可された(『江戸御留守役用日記』)。

 村貯え 
 幕命による囲い籾は一応達成はしたが、藩としては凶年対策のためにはなお不安があった。研究を進めていた郡奉行の見解としては、領民納得の上で自発的に村々自身にも貯米させる必要があるということであった。ちょうど諸作豊作であったので、一七九三(寛政五)年九月代官を通じて次のように村々に備米を働きかけた(『玉井家文書』「発丑歳御触書写」文部省史料館蔵)。

  この度各へ内談に及び候村村貯の儀、御郡方拙者共かねて内内存じ含み居り候事に候えども、近年打続き年柄悪しく打過ぎこれ有候処、当秋は諸作格別豊作と存ぜられ候えば、凶年の備えに何とぞ村々にて少々ずつ指出し、庄屋役人の手前に預かり置き候はば、年柄により村方後のためにも相成るべき道理にも存じ候間、なおまたこの処とくと同勤中(庄屋仲間)申談ぜられ、いずれも同様の存念に候はば村々百姓共へ御呑込ませ、無益に相成り申さざるよう程よく取計らい申され候よう致したく候、
    丑ノ九月      谷  次郎右衛門
               菊原 円助
           村々庄屋中

 藩の勧奨では年々村高一石につき米一升の割合ということで、村々貯えの実はあがったようであるが、実態を示す史料が見出されていない。「小貯」と呼ばれたものである。これを一歩進めたのが一七九五(寛政七)年五月二六日布達の三か年間高掛村高一石に一斗貯米の令である。これには藩から足し米二歩が加えられた(『影浦家文書』「永代日記帳」影浦桂一蔵・『嘉永二年殿様御越諸事扣』)。三か年の出米高及び藩補助高は第18表のようである(『乙卯歳御貯米勘定帳』伊予市役所蔵)。伊予市関係の村だけをあげる。
 右の村貯えは代官支配のもと、庄屋代表数人が、「貯え方」の年行司として管理し利殖をはかった。別に三町からの五〇石を預かり米として加えた。

 浮米 
 一八〇三(享和三)年七月、郡奉行は村貯えがついに一、八七九石余に達したので、このうち一、二〇〇石は貯蔵に貯えさせ(大貯米)、残余(小貯米)は代官・貯方年行司において適宜に活用させることにした(『愛媛県誌稿』)。
 代官並びに貯え方は、利殖運用に特に意を致し、領村内の農民厚生に活用することに努めた。その一つに売米利殖がある。この年の新米詰め替えには、一二九石五斗一升四合の貯米を一石銀札八八匁六七九の値段で売り、この内一石銀札七四匁一〇四の値段で新米を買い受けて詰め戻し、貯え方である本郡村庄屋片岡仙吉に米一石、玉谷村庄屋治右衛門に四斗を骨折りに与え、なお二七石九斗四升四合四勺の売り揚げ浮米を生み出した。この利益は以後の利米積み立てによって毎年末の元本は第19表のように変化した(『貯詰米入替二付浮米年々仕送并三帳預米帳』伊予市役所蔵)。
 右の中には元本利米のほか、一、二〇〇石詰め米の利、三町預かり米の利半方、売揚米などが入れられている。支出では一八〇七(文化四)年には「郷約」ヘ一〇〇石、翌年以後は毎年四〇石ずつを「郡中支配座」へ振り込んでいる。なお文化一四年・弘化元年二か年は、次のように庄屋支配に対して支給した。
   二石 三津野村庄屋  二石 三秋村得能六郎左衛門
   三石 玉谷村吉兵衛  五石 釣吉村和市左衛門
 三町預かり米は元本五〇石、その利子は文化四年までは年一割、同五年以後は八歩で、これを貯詰米座と三町預かり米座とに折半した。
 藩自身の城内貯えの一、二五〇石は別として、貯米の趣旨の一つは、貸し付けによって困窮をしのがせることにあった。貯方とすればそれによって利殖にもなるので歓迎するところであった。『上吾川宮内家文書』に一八〇五(文化二)年一二月の村としての借用記録がある。それによると御種子蔵役所から銀札五二貫一五〇匁(利一割)、貯方から米六五石(利七言、御貸米蔵役所から米四〇石(利一割)を借用した。御種子蔵・御貸米蔵はともに藩庫として貸し出しの制度をもっていた。前述のように浮き米・三町預かり米のほか、小貯・高掛米麦も同様貸し出しが行われた。

 郷約 
 庄屋が破産に臨んで「支配」(財産整理を一時藩及び村で管理し、合力援助して復活させようとする制度)を受ける者が多くなったため、いきおい村民にも負担をかけていた。大洲藩はこれを救うために、一八〇七(文化四)年一〇月元立救米三〇〇石を替地に与え、浮米座から一〇〇石を加え四〇〇石とし、村役人代表によってこれを管理させることにした。「郷約方」である。「三百石の元米、永代元を取り欠かざるよう取計らわるべく候」ということで、これも貸米として利殖をはかった。代官の意図した趣旨は「郷約の大意」として次のように示され、この四〇〇石の米は郷約米と名づけられた(『上吾川宮内家文書』)。

   郷約の大意
   郷とは一郡一村をいう、約とは申し合わせ相守るをいう。
   一、善事を見て行う事。
   一、過ちと知れば改め候事。
   一、わが身を修め候事。
   一、家内和順の事。
   一、親に孝行の事。
   一、子供をよく致し候事。
   一、下女下男よく使い候事。
   一、お上へよく事えお役人へ不敬これなき事。
   一、親類よく交わり候事。
   一、善き友選び出合い候事。
   一、銀米取計らい潔白の事。
   一、人の難渋救い合い候事。
   一、互に悪事正し合い候事。
   一、恵みの心広く候事。
   一、村内の公事争論、厚く申し諭し候事。およそ右の通り相守り申すべしと連印いたし、出会の節たがいに切磋致し、右主意よく弁え候人は帳面に記し置き、折をもって上体へ申し達し、さてまた右を等閑に心得相背き候人も帳面に記し、心得宜しがらざること三度に及び候えば、席に離し相談に加えず、善事を責め合い候を郷約と申候間、この意厚く相心得申すべく候。以上
    (文化四年)
     丁卯十月
                   (替地代官)  弓削 徳介
               村々庄屋中

 庄屋支配援助資金として出発した「郷約」ではあったが、しだいに農民相互扶助の度合を深めて行って、やがて郡中全体の銀行的職能を果たすように転移した。一八二五(文政八)年の『貯銀方年々算用帳』(伊予市役所蔵)によれば、大貯米の売却代銀札五〇貫目余のうち、郷約役所へ二〇貫目を利方五歩九厘で預け入れたが、以後同様に預け入れて、一八二九(文政一二)年には元利九〇貫目余に達した。これはそのまま利を生み、一八三四(天保五)年では一〇六貫一四六匁五分四毛に及んだ。郷約役所記録は見出されていないが、一八五八(安政五)年には貯方から二四二貫五七七匁余が郷約役所に預金されている(『戊午歳銀方御勘定帳』伊予市役所蔵)。預金は各方面に貸し出された。『和田家文書』(和田篤蔵)によれば、鵜崎・両沢両村の一八四四(弘化元)年郷約借用利銀および元入年賦銀の次のような上納が示されている。

       覚
  元九貫八百五拾六匁三分五厘
  一、銀札五百四拾弐匁壱分 利銀
  一、同 五百四拾弐匁壱分 元入
  〆壱貫八拾四匁弐分
  元残九貫三百拾四匁弐分五リ 元居
  右之通上納仕候。以上。
    天保十五甲辰年十一月七日
                 鵜ノ崎村両沢村庄屋 和田 長八
   郷約御役所

 郷約役所は間断なく機能を発揮した。一八六九(明治二)年の『銀札貸付帳』(伊予史談会蔵)によれば、年末貸付実態は第20表のようである(個人借用五口略)。
 同じ明治二年末の預け入れ総額は、藩会計局からの新預かりを加えると、八六六貫九七五匁四分九厘二毛であった。

 預籾と自分貯 
 一八二〇(文政三)年一月大洲藩は城内貯穀一、二五〇石のほかに、別途囲い籾ニ、五〇〇石を計画し、領内村高に応じてこれを預からせて「預籾」とし、その上村々の有力者に割りつけて「自分 貯」を命じた上、村々に雑穀貯えの切り替えをも実行させた。その布達は次のようである(『大洲手鑑』)。

    御演説の大意
  先年より凶年不慮のため備米二〇〇石ずつ貯え来り候ところ、御領中は手広なることにて、右の貯えのみにては、もし飢人三分の一に及候ても六七十日の露命をつなぎ候くらいのことにて、まことにいささかの事ゆえ、近年来相応の年柄につき自然穀物値も下直に相成り候ゆえ、上体にも籾二千五百石お貯えに相成り、村々へお預け相成り候につき、御領中有り余りこれ有り候もの、夫々貯籾別紙の通り申し付け候条、右の主意厚く相弁えなるべく年長く貯え申すべく候事。
                           垂井 衛門
     辰 十月                  井口 又八
                           町田 真助
                           田村久太夫
     貯籾仕成
    一 籾二千五百石  御分御貯
       但し御領中田畑高に割付け、村々御預けの事。
    一 同八千石余  郡内株立ちの者へ貯えさせ候事。
    一 同三千石余  郡中忽那嶋、同断。
      〆一万三千五百石余
    一 御貯籾、拵え随分念を入れ相納めの事。
    一 御預籾、年々詰替えの事。
    一 銘々囲籾、米籾のうち勝手次第の事。
    一 囲籾申し付け候高のうち、当辰年半当、残り来る巳年相囲い申すべき事。
      但し当年皆済勝手次第の事。
    一 銘々囲籾売払いの儀は差図に及ぶべき事。
       但し格別難渋に及び候はば、売払い申し出で候はば勘弁の上承り届け申すべく候。
    一 この度申し付け候者の外にても、十石以上囲籾候者は申し出ずべく候事。
    一 囲籾銘々の土蔵へ積み置き、土蔵これなき者は何れへなりとも勝手に囲い申すべき事。
    一 囲高差図候者の名前役所へ張り置き、帳面等厳重に仕り置き申すべき事。。
    一 囲籾改めのため郷目付、手代差回し申すべき事。
    右之通り仕成相定め候条、随分厳重に相心得取計らい申すべきものなり。
      辰 十月                御郡方

 村内富裕者への自分貯割付の史料はまだ見出されていない。
 預籾ニ、五〇〇石の割当は、郡内一、八五四石四斗(三七四石小田筋、四五〇石南筋、五〇〇石八斗川筋、五二九石六斗内山筋)に対して、郡中は六四五石六斗であった。

 高掛米麦 
 一八三四(天保五)年九月二八日、大洲藩は凶年手当貯米のため、家中一統に対して高一〇〇石につき一年に二斗ずつ、五か年の出米を命じた(『加藤家年譜』中、泰幹)。次いで一〇月に至って領内にも高掛出米を命じ、同じく五年間村高一石に対して一斗の上納であった。その上富裕者にはこのための出銀を勧奨した(『玉井家文書』「貯穀被仰付御書附控」玉井達夫蔵)。なお自分貯のうち五分の一は追い追い粟・稗・麦等雑穀に切り替えるよう指示した。上野村では次のような高掛切紙を与えられた。

   上野村
   一米七拾壱石七斗  当午より戌まで五ヶ年に上納

 この出米出銀は「高掛米麦」と呼ばれた。初年度の上納米銀は次のようであった(『郡中村々高掛米麦御勘定帳』伊予市役所蔵)。

   一 米弐百四拾石八斗弐勺  村々上納
      内
     拾四石  町内干飯米貸付、手形ござ候
     三拾石  払米、代三貫目、石ニ付百目替
    残て百九拾六石八斗弐勺、御蔵通いござ候
   一 裸麦八石五斗五升六合弐勺五才
    代六百弐拾七匁六分八厘七毛 石ニ付七拾三匁三分六厘替
    右高掛米麦
   一 銀札壱貫三百拾五匁、三町より上納分
   一 銀札五貫目  上唐川村影浦喜右衛門
   一 同 五貫目  八倉村庄兵衛
   一 同 五貫目  黒田村源治
    右寸志銀

 一八三八(天保九)年は凶年で、大洲藩自体も城内囲い籾の詰戻しの延期を幕府に願っているほどなので、高掛米麦の上納も延期を許された。五か年上納と命ぜられはしたが、結局完了したのは一八四一(天保一二)年であった。上納概況は第21表のとおりであるが、米麦は売却して銀銭とし、以後明治初年まで村々への貸し付けを中心に運用された。上納米麦の総計は米一、一九八石二斗、裸麦四二石三斗八升八合三勺八才で、三町上納銀は六貫五七五匁であった。
 米麦を銀札に替え貸し付けを便にしたが、一方では粟・稗等の雑穀を購入して貯穀加量をはかるためであった。粟は岩国・肥後・島原から、稗は久万山から求めた。購入石数は第22表のようである。
 この代官所記録は代官矢野与兵衛より郡奉行宛に一八六九(明治ニ)年五月八日届け出たもので終わっている。このときこの座の有高は次のようであった。
  銀札二六一貫三二〇目    貸付高
  同  一〇貫一六四匁八三七 郷約預け
  同 一一一貫九四六匁八八  有札

 諸貯の推移 
高掛米麦は別途として、貯穀は大貯米・小貯米・浮米・三町預かり米に区分されて管理が行われて来た。これらは貸付米・村々預米・詰米(藩庫収納)などに割りふられ、それぞれ運営されたわけである。一八三五(天保六)年以降の推移は、年度を抽出して整理すれば第23表のようである(『諸貯年々御勘定帳』ほか、伊予市役所蔵)。
 このようにして「郡中貯え」は、維新の激変にも微動さえもせず、一八七〇(明治三)年九月一五日藩命によって預り籾だけは返上したものの、「郡中は一つ」の心は失われず、自主的な貯蔵が強固に継続された。もとよりその出発は藩の備荒で、しかもその自治的活用にまかせる施政方針に従ったものではあるが、郡中独自の自主的運営において、備穀とともに金融経理の妙を発揮しながら農民の生活防衛に役立てた点は、諸藩に類を見ない特色を有するものである。

第18表 出来高表

第18表 出来高表


第19表 浮米・預り米

第19表 浮米・預り米


第20表 年末貸付実態表

第20表 年末貸付実態表


第21表 上納の概況

第21表 上納の概況


第22表 雑穀の購入石数

第22表 雑穀の購入石数


第23表 貯米・浮米の推移

第23表 貯米・浮米の推移