データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予市誌

1 地震と干害

 安政元年地震 
 一八五四(安政元)年一一月三日・四日の地震を前触れとして、五日の午後四時ごろから大地震が襲来した。『塩屋記録』は次のように描写している。
  
  安政元甲寅年十一月四日朝四ツ時(一〇時)地震あり、明五日夕七ツ時(四時)前より前代未聞の大地震なり、六ツ時(六時)ごろまで極々大ゆり、この夜ゆりやまず、町内人々御屋敷前または浜浦殿町前などにて当夜明ける、地震ゆり止みなく候ゆえ、当時総方小屋ずまい、当夜御奉行様、御目附様、御手代様、またまた町御役人御回りこれ有り、町内は戸締り致さず、町はなれにて回り番致し候、両町共家痛み多し、湊町新町通り、横町上浜、灘町浜、格別大痛み、家倒れ痛み多し、米又下女おだれにて死す、梶野長三郎倅おだれにて死す、浜いづ八妻死す、米亀津吉鶴どふしを痛め、灘町方にも即死手疵これあり、多人数によって名前除く、浜方にて地われ候処あり、汲みための水吹出る、波戸石垣大痛み、外に色々痛み多し、道後温泉出やむ、石どふろ、とりゐ、橋などは皆いたむ、誠に神力の御蔭をもって夜中にてはなし、昼ゆえ入痛み少し、明六日より十日ごろまでは毎度々々ゆり、十一日より二十日まで時々ゆり、廿一日より三十日までもゆり、十二月に入りては時々少々小ゆりなり、当歳中時々じしん、右大地震の節真木藤治郎殿米を、手ままに取り候者ござ候て、御上体様より御屋敷前にてさらし、右トガ人名前除く、又々灘町大黒屋くずしを取り候ものもござ候、この人も御上体様よりきっと御トガメこれあり、総方その後御免これあり、真木・大黒屋両家よりも御ナゲキを申上げ候。大地震につき三町へ御上体様より御貸附銀百貫目御下げ成され候、当代御奉行山本加兵衛尚徳様代。

 『村諸日記』(『市場佐伯家文書』)も次のように記録している。

  十一月四日朝五ツ時(八時)地震少々、五日同断、七ツ半(午後五時)後大地震長ゆるぎ申し候、同夜数十度ゆり申し候、十日御屋敷(藩出張所)へまかり出で申し候、御屋敷総かこい倒れ申し候、御蔵大破、灘町大破、湊町三口程残らず倒れ申し候、前代未聞の大地震にて、いずれも小屋かけ居申し候、小屋住居は二十日ごろまで致し居り申し候、津波等評話につき、両三谷の者一統行道山に登り騒動一通りならず。

 安政四年地震 
 一八五七(安政四)年八月二五日午前、またもや大地震に襲われた。前回よりはやや小さかったが、夜明けまでに三○余度の余震があった。大洲城内の被害は今度の方が大きかった。郡中方面については『塩屋記録』が次のように記す。

  安政四年八月二十五日四ツ時(一〇時)、前々通り大地震なり、上野屋治助子芳太郎、町御番所の塀に敷かれて死す、小川屋重太郎妻、外に大津屋丈助妻、上野屋治助娘、常夜燈笠石に敷かれ怪我致し候、両町とも家痛みこれ有り、門塀古家などは倒れ、夜分は往来どめ、番人家持二人ずつ、当時少々ずつ揺る、御庄屋前東浦浜浦にて小屋住居、九月入って追々我家へ帰り候。

 大洲藩としてはこの両度の地震だけでなく、安政二年の江戸大地震での被害も莫大であった。そのため大洲城修理にも苦痛は深刻で、領内に借上銀を命じ、村々富裕者には人夫三〇人役以上の加勢を申しつけた。庄屋らもこれに準じて申し合わせにより銘々五〇人役を引き請け、代銀を翌安政五年に上納した。郡中全体では次のようであった(『郡中役用控』伊予史談会蔵)。

      覚
   一 銀札弐貫五百目  庄屋分
      但加勢夫五百人分  壱人前五匁ツツ
   一 同  四貫目    村方
      但右同断壱千人分  壱人前四匁ツツ
   右之通上納仕候。
       安政五年戌午八月        郡  中

 干害 
 一八五三(嘉永六)年は極めて雨量が乏しく、五月から七月中まで干天が続いた。各地で雨乞いが行われた。郡中地方でも五月二四日から雨に恵まれなかったので、七月八日町にはしり出て雨乞い踊りを行った。すぐ続けて一日には浜で千人踊りを実施した。八月二日に至って七〇日ぶりに潤雨を得て、農民はようやく眉を開いた(『半窓日記抄』伊予史談会蔵)。
 一八五六(安政三)年は郡中地方だけが雨に恵まれなかった。村々は相談して次のように神に降雨を祈った。

  七月 八日  伊予岡八幡社  二夜三日祈祷
  同 二四日  同       一昼夜祈雨祭(藩執行)
  同 二八日  谷上山宝珠寺  二夜三日祈祷
  八月 三日  伊予岡八幡社  二夜三日祈祷
  同  六日  行道山     二夜三日祈祷(神主自力)
  同  七日  伊予岡八幡社  二夜三日祈祷(藩執行)
  同  九日  谷上山宝珠寺  三日三夜祈祷(寺自力)

 祈祷をくり返したが効験はなかった。村々は更に八月一五日浜番所下の浜で千人踊りを行った。村々に出動人員を割り付け、裁許役人に引率させた。銘々田蓑・たくら笠持参で村幟を用意、太鼓は見計らいでよいとされた(『和田家文書』和田篤蔵)。
 一八六一 (文久元)年は前年の田畑不作に加えて米価が高騰し、村方の苦しみは一通りではなかった。しかも五月初旬以来干天が続き、六月に入ると領内村々では雨乞い総踊りが多くなった。郡中地方では六月二三日・二四日に、戎社で灘町・湊町が一日ずつ雨乞い踊りを行った。なお雨が得られなかったので、七月二日浜番所下の船蔵を中にし、そのまわりで総村千人踊りの雨乞いを実施した。新谷領村々も参加した。ようやく七月一六日に雨が降り始め、一七日には大雨となった(『塩屋記録』)。