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伊予市誌

2 コレラ・痲疹

 安政五年 
 この年(一八五八)長崎から始まって全国的にコレラが蔓延した。この病はコロリ・暴瀉病などと呼ばれて恐れられた。医学未開のこととて伝染はひどかった。四国では高松城下に始まり、死者一日二〇〇人と伝えられ、また松山領では松前に死人が多いといわれた。大洲領では八月下旬から少々かかるものが現れた。郡中地方では悪病よけのため祈祷・百万遍を挙行したり、諸社参詣に出かけたりした。特に石鎚山には代参を派遣した。氏神では日々祈祷が行われ、朱文字の御守が争って求められた。まじないには朱布のぬいざるがよいといわれた。この中にとうがらし・やいと・らっきょう・ひいらぎの葉・しょうぶ・杉の葉・やつでの葉を、少しずつ縫い入れるのである。
 八月下旬郡中詰藩医服部玄琢は、この病気に対して次のような「禁物書」を村々に回達した。

     蘭人流行病予防口授の大略
  きん物  くだ物生 蔬菜生 焼酎 飲酒過度
  右もっとも悪し、そのほか腹にてこなれ難き物、平常食し来り候物の外わろし、かつ食物過不及これなきよう専一なり、次に日中暑気時分働くことわろし、夜分長起きわろし、時刻を定め起臥すべし、慎しまざれば病をまぬかれがたし、用心第一なり。

 この服部玄琢は蘭法医で、一八五六(安政三)年七月には、郡中村々の小児を募って種痘した名医であった。
 幕府においても養生法・薬法についての触書を全国に布達した。薬は「芳香散」(桂皮・益智・乾姜を等分)を二匁ずつ時々服用と示された。益智とは竜眼肉のことである。郡中には九月二三日に達せられたが、薬調合所は灘町の村瀬伊織に指定され、一服が七五文と定められた。この流行も一一月に入ってしだいにやんだ(『塩屋記録』)。

 安政六年 
 この年(一八五九)も七月上旬からコレラの流行をみた。郡中では七月二五日天神社で神楽祈祷が行われ、四日間は町内の「賑わい」が許された。町組は鐘馗大人形、下浜組は狼大人形、上浜組は天狗大人形といった作り物をかき歩き、そのほか太夫行列、住吉踊り、祇園ばやし、神楽舞などが行われ、夜分は踊りや「にわか」などでにぎわった。
 八月に入っても病気流行は衰えないので、町ではまた鐘馗大人形をかいてまわった。八月一九日戎社にはじめて神輿ができて町内をかいた。讃州金毘羅社・石鎚社にも代参が出発した。八月二九日には、藩は中分以下の病者に医薬料を支給した。伊予岡八幡社・稲荷神社は、それぞれ藩命により一昼夜の祈祷があり、谷上山ほか諸寺も毎日祈祷に専念した。諸社寺より大守札が授与され、町内入口に立てられた。家々に朱文字守り札が張られ、人々はぬいざるを身につけた。この年も一一月に入ってようやく終息した(『塩屋記録』)。

 文久二年 
 この年(一八六二)も悪疫の年であった。郡中では三月ごろはほうそうがはやったが、五月ごろからはしかの大流行をみた。三〇日目ぐらいに治るのは軽い方で、重いのは五〇~六〇日に及び、中には二度も三度もかかる者もあった。八月中旬ころからようやく下火になっていった。
 この大流行は商家取引にも影響が出るほどで、大洲新谷両藩とも郡奉行布達で、七月一四日の節季定日を領内とも八月一三日に延期した。郡中三町は役場触れで七月二九日を節季とした。
 はしかに続いて七月末ごろからコレラが大流行して、祈祷やまじないが手を尽くして行われた。次のようなことが行われている。

  八月 五日 氏神悪病祈祷、町役場より赤文字守札配布
  同  七日 五日間清正公信者題目で町中巡回
  同  八日 石鎚山へ代参二人派遣、五日間石鎚講中貝を吹き町中巡回
  同 一〇日 藩命で氏神二夜三日祈祷、五日間人気引立のため大人形ならびに賑わい認可
  同 一一日 代参帰町、各戸に入込み祈祷

 閏八月末ごろにコレラはやんだが、この年はほうそう・はしかが絶えず、これら諸疫で死んだ者は、湊町だけで一七〇人にも及んだ(『塩屋記録』)。