データベース『えひめの記憶』
伊予市誌
2 村方制法
心得条々
町郷民統治は秩序威令を加えることが基本とされたが、これを治める者は有識者として「愚昧の民」を教化する義務を負うものであった。幕府もここに意を致し、一六八二(天和二)年五月には各藩に高札の条文を示し、領民心得を公布させた(本文略、『上吾川宮内家文書』)。その内容とするところは、(1)忠孝親睦仁愛、(2)勤勉倹約、(3)悪心排除・家業努、(4)悪党出訴・博奕禁止、(5)喧嘩口論停止、(6)死罪見物禁止、(7)人身売買停止などの教諭と禁令であった。
こうした布令に基づいて、大洲藩は翌年四月郡奉行から、いっそう具体的に領民の心得を布達させた(『上吾川宮内家文書』宮内政美蔵)。
申渡条々
一、耕作並びに諸役等疎略に仕る百姓これ有るにおいては、庄屋・組頭・五人組として御代官迄きっと訴うべき事、
付、庄屋・組頭私欲を構え百姓に非分を申しかくるにおいては、百姓方より申し出ずべきの事、(非分出訴)
一、田畑売買の節、庄屋・組頭相談の上互に売券の証文取替わし、以来出入りなきように仕るべき事、(田畑売買庄屋組頭引責)
一、免割の節は小百姓まで呼びよせ、銘々の持高相違なきように御物成並びに入用等くわしく詮議をとげ、割に入るべき分、又は入るまじき儀吟味の上割帳を相極め、総百姓どもに判形致させ、後日の出入りなきように仕るべき事、(総意の免割)
一、前々より申し触れ候通り、諸役人並びに給人はもちろん小役掛りの者に至るまで、軽重を限らず音物(贈物)堅く停止の事、(贈物停止)
一、百姓どもに借財借銀、庄屋・組頭きもいりにて借り遣わし候はば、銘々持高吟味の上分限に過ぎたる借銀に候はば、田地を売らせ御年貢方納所致さすべく候、不吟味に仕り分過ぎの借物返弁なり難く、総村中へ負かせ申すにおいては、庄屋越度たるべき事、(借財吟味庄屋引責)
一、無縁の者何の営みもなくいたずらに日を送り候はば、庄屋・組頭吟味を遂げ、御代官まで断りその村に置き申すまじき事、(無縁無職追放)
一、往来の旅人一宿のほかその村に逗留仕り候はば、その断りを聞届け余儀なき仔細候はば、二宿三宿までは貸し申すべく候、右のほか逗留仕るにおいては、御代官まで相断り差図をうけ留め置き申すべき事、(旅人宿泊規定)
一、よそよりその村へ来り住居のものこれ有り候はば、前廉住所のさきざきへ相断り障りなきものにおいては、もっとも宗門相改め最前の檀那寺より、宗門紛れなしとの証文を取り住居致さすべき事、(入居者宗門吟味)
一、庄屋並びに百姓の家普請ただ今有り来り候ほか、新規の作事分限に過ぎたる儀仕るまじく候、たとい座敷むきたりとも書院床をつけ杉丸太杉板等を用い申す儀、堅く無用たるべき事、
付、婚礼の取結び、総じて百姓奢りがましき儀仕るまじき事、(普請制限)
一、諸役人私用は申すに及ばず、御用たりとも非儀の過役等申しかくるか、あるいは給人物成納方につき非道または年貢のほか役義がましき儀申しつけ候はば、断りを申すべく候、もし承引これなく候はば御代官まで相断るべく候、付、役人在々回り候節、こなたより申しつくる賄のほか、庄屋役人として自分の馳走仕るまじき事、(藩士過大要求拒絶)
一、神事の節その村ぎりにこれを執行すべきなり、たとい他村に縁者親類これ有り候とも、たがいに往来仕り費なる儀少しも仕るまじき事、
(祭一村限)
右の条々、村中百姓どもに申し聞かせ、堅く相守るべきものなり、
天和三年癸亥四月 日
高井儀右衛門
(郡奉行) 矢野清左衛門
中村覚右衛門
滝野 権之助
吾川村庄屋
組頭
惣百姓中
禁制
右にも禁制のことは示されているが、この後特にくり返し申し渡されたのは、分に過ぎないよう制服(服飾の制禁)を守ること、ばくちを行わぬこと、制法を破らぬことなどであった。一七八八(天明八)年四月には、郡奉行触をもって家中制服の件を領民に周知させるとともに、領民の分に応じた倹約、服装の規定などを示した(『玉井家文書』「戊申歳御触状写帳」文部省史料館蔵)。
1 畳は七嶋に限る。
2 諸講会・祭事など一菜に限る。
3 婚礼・葬礼の式は分限を過ぎてはならない。幕などで飾ってはならない。
4 衣類は上着・下着・帯ともに木綿に限る。紅裏は使えない。ただし六〇歳以上と五歳以下は格別である。
5 日傘はいつさい使用してはならない。
6 雛・幟は小百姓は用いない者もあろう。相応の身上の者も雛一対、幟一本ですませるようにせよ。
博奕については幕府も神経質であったが、藩も何回となく禁令を出した。一七九一 (寛政三)年八月三〇日には、郡奉行布達で勝負遊び禁止を令した。遊び半分のことでも科料に処し、罪は五人組にも及ぶことを厳達した。
一七九四(寛政六)年には各村に対して藩法順守について総百姓の連印をもって誓約することを命じた(『上吾川宮内家文書』「御法度筋銘々印形帳」宮内政美蔵)。
御請書
毎々御上体様より御触の趣仰せ聞かされ候、強訴徒党の儀は申し上ぐるに及ばず、そのほか御法度筋並びに御制服の儀、仰せ渡され候通り委細畏り奉り候ところ、よって件のごとし、
寛政六甲寅年八月 上吾川村百姓
忠之丞(印)
幸兵衛(印)
(以下一七六名連印略)
一八一六(文化一三)年一一月には、領中庄屋並びに農民に対して、詳細に贈答・制服を規定し、庄屋中、総百姓おのおの別個に連印帳を提出させた(『和田家文書』和田篤蔵)。この期になると一般の衣服も華美になったので、制禁がゆるめられた感がある。制服だけの概要は次のようである。
1 男女とも帯・下着は紬以下に限る。
2 じゅばんのえり・袖口とも絹以下に限る。上着はえり・袖口とも木綿。
3 合羽装束はびろうど・毛類でも苦しくない。
4 くし・こうがい・かんざし・木・竹・くじら・びいどろ・しんちゅうに限る。
5 雪駄は在中にはふさわしくない、申し合わせの上着留とする。
宗門改め
宗門改めはキリシタン信仰を禁止するために設けられた制度である。幕府の重要施策の一つで、諸藩もその布令により一六六四(寛文四)年以降には実施したようである。領民一人ごとにその信仰する宗派の檀家であることを寺院に証明させた。これを寺請制度というが、領民は所属寺院を檀那寺(檀寺)とし、婚姻・旅行・移転・出奉公などには、村役人発行の追手形とともに、檀寺の宗旨手形を必要とした。このため寺は戸籍事務機関の性格も具えていった。藩は宗門奉行をおいて毎年各村の宗門改めを行ってきたが、村々では村役人があらかじめ下改めを実施して宗門人別帳を作成した。このとき起請文には、決して虚偽のないことを誓った。起請文は誓約の文言を前書として、それには牛王宝印(熊野神社符)を張り合わせ、その部分には神への誓いを書き、末尾署名には血判した。上吾川村の例をあげると次のようである(『上吾川宮内家文書』宮内政美蔵)。
宗門御改につき起請文前書の事
一、当村中宗門委細吟味仕候、
一、切死丹ならびに転類族の者、
一、不受不施、付たり悲田宗、
一、右の宗旨一人もござなく候、この以後宗旨疑わしき者ござ候はば、せんさく致しさつそく注進申し上ぐべく候、
一、他所よりの来人、その所より確かなる寺手形持参においては、早々庄屋方へ相渡し差図しだい滞留仕らせ申すべく候、庄屋方への来客は組頭どもへ寺手形見せ、相談の上にて逗留仕らせ申すべく候、たとい親類縁者たりといえども宗旨疑わしき者、逗留仕らせ申すまじく候、もし不審なる者隠し置外より顕わるるにおいては、その者は申し上ぐるに及ばず、庄屋・組頭・五人組どもまできっと曲事仰せつけらるべく候、
ただし往還の旅人一宿は格別の事、付たり、宗門手形これなき者は、御支配様御聞き届けの上逗留仕らせ申すべき事、
一、家数人数一家一人も隠し置かず、もっとも銘々宗旨帳面に記し出し申すところ相違ござなく候、右の条々少しも偽申し上ぐるにおいては忝くも(以下牛王)梵天帝釈四天王、惣じて日本国中六十余州大小神祇、殊には伊豆箱根両所権現、三島大明神、八幡大菩薩、天満大自在天、部類眷属、神罰冥罰おのおの相蒙るべきものなり、
天保十四癸卯年正月晦日
上吾川村庄屋 宮 内 次 郎(印)
(貼紙)「服中ニ付黒印ニ而血判不仕候」
同村組頭 喜 代 次(印)
(貼紙)「六十歳以上ニ付血判不仕候」
同村 同 保 之 助 血判
同村 同 金 五 郎 血判
同村 五人組 市郎右衛門 血判
同村同 喜 三 兵 衛(印)
(貼紙)「服中ニ付黒印ニ而血判不仕候」
同村 同 政 七 血判
往来手形の一例をあげれば次のようである(『上吾川宮内家文書』宮内政美蔵)。
往来手形の事
一、予州大洲領伊予郡吾川村七郎左衛門、源右衛門、勘介、りんと申す者、今般四国辺路にまかり出で申し候、所々御番所御疑いなく御通し下さるべく候、もっとも行き暮れ候節は、止宿仰せつけられ下さるべく候、万一死亡に及び候はば、御つけ届けに及ばず、御慈悲の上御葬り遣わされ下さるべく候、
一、宗門之儀は真言宗吾川村称名寺旦那にて紛れござなく候、すなわち印形相添え申し候、よって往来手形くだんのごとし、
寛保四甲子歳二月八日
大洲領伊予郡吾川村庄屋
芳我弥左衛門(印)
同 村
称 名 寺(印)
所々御番所御役人中様
村々 御庄屋中様