データベース『えひめの記憶』
伊予市誌
3 貢租
検地
いわゆる天正検地による石高は古高として替地以後も一貫して変化はない。しかし、大洲藩領となってからの検地は一斉に実施されたわけでなく大変不ぞろいで、検地の間竿はすべて六尺三寸で一間の算定をした。新検地の石高は「用高」と呼ばれた(荒地引などで用高は減ずる場合がある)。検地と用高は第27表のようである(『伊予国元大洲県管轄伊予郡風早郡村鑑帳』愛媛県立図書館蔵)。ただしここに示される古高は、一七一七(享保二)年幕府から認可された新田含みの高へ増高したものである。
石盛と物成
石盛とは田畑一反当たりの公定標準収穫量のことで、斗代ともいう。大洲藩は次のように定めた(愛媛県行政史料「演説書・税斂概略」愛媛県立図書館蔵)。
<畑> <石> <田>
16斗 上
15〃 上中
14〃 上下
13〃 中
12〃 中中
11〃 中下
上 10〃 下
上中 9〃 下中
上下 8〃 下
中 7〃
中中 6〃
中下 5〃
下 4〃
下中 3〃
下下 2〃
畑方の場合、「沖合」あるいは「里分」と唱える村では、地位がよいので上を一石三斗または一石二斗として九等にわける場合もあった。屋敷は畑上一石の村でも、本門は一石三斗、本門以外は上の高をあてる規定である。
田方の税は定米といい、粒納めが原則だが二歩方は買入米上納も許された。畑方の税は定豆といい、大豆(または小豆)の粒納めが原則で、一部銀納と定められた。これら正租の付加税は、郡中地域は次のようであった(カッコ内は他の大洲領)。
口米・口豆 一石につき二升(三升)
目払 一石につき四合(一升)
村々の課税の決定を「土免極め(免極め)」という。上野の玉井達夫宅には、もっとも古いころの免極め文書が三二通も伝えられている。このころはすべて一年ごとの決定であった(『玉井家文書』)。
未之年上野村免相究之事 (原本のまま)
一 高千八石六斗三合
此物成
定米百弐拾石 外二口有
定豆弐拾八石壱斗一升九合 外二口有
右之通相究候間、来ル霜月中ニ急度(きつと)皆済可(レ点)仕者也(つかまつるべきものなり)、
仍而如(レ点)件(よつてくだんのごとし)
寛永廿年九月廿一日
上月十兵衛 花押
渡部次太夫 花押 (印)
庄や百姓中
豊凶にもよるであろうが、年貢は極めて低率であった。年次的に見ると第28表のようである。
もともと田畑の税率は、その年の収穫前に作柄を調べて(検見<けみ(けんみ)>という)、その豊凶によって決定された。この方式は検見取<けみどり(毛見取)と呼ばれた。これに対して定免<じょうめん>と呼ばれる賦課法がある。その田畑の数か年の実収高の平均に基づいて税率を決定し、一定の期間それによって課税する法式である。大洲藩は一七一六(享保元)年六月二七日、この年から五か年の期間をもって定免とすることを布達した。このように転法したのは、藩として毎年の予算を安定させるとともに、藩・民両者の検見のための経費の節約を意図したものであった。
定免期間は時に二か年のこともあったが、三か年定免が通例のことになり、免替えは三年毎と理解されるようになった。
正租に対して雑税を小物成という。これは大洲旧領とは著しく差があるが、替地以前の慣習法が生かされて来ていたからである。一七五五(宝暦五)年で史料の得られる小物成は第29表のようである(『玉井家文書』「村々小物成表」玉井達夫蔵)。
鵜崎・両沢・上唐川は浮穴郡であったので、砥部郷と同様で別個であった。この地域では真綿も掛目で課せられた。別に正租に準じて定胡麻が定められていた。一八五〇(嘉永三)年の鵜崎村の例では、
一、壱斗壱升七合 定胡麻
一、弐合三勺四才 右口胡麻
〆壱斗壱升九合三勺四才
であった。これは銀納が定めで、毎年納期にはその相場が布達された。
郡中地域の糸苧縄は、やがて別個に郡全体としてまとめての上納に変わっていく。その時期は明らかでないが、『郡中諸用控』(文化四年)によると、郡役所詰番によって郡全体分が次のように上納された。
献上火縄 一〇八曲 代銀 三七匁八分
畳 薦 二〇〇枚 同 八〇匁
糸苧縄 六二貫二二〇匁 同 一貫五二四匁三分九厘
なお、ほかに商工業その他に課せられた運上があった。郡中関係としては商札・職人札・蝋打札・質屋札・馬喰札・船札などであった。