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伊予市誌

コラム 「郡中・灘町の起こりと宮内家」

<コラム>
「郡中・灘町の起こりと宮内家」
              愛媛大学法文学部教授 内田九州男 氏

一 灘町開発の経過と町の特権
 (一) 開発の経過
 灘町は、宮内兄弟による開発であるということは皆様よくご存じのことです。これを史料上で確認をしていきます。『積塵邦語』の中に「郡中宮内小三郎家伝」があって、宮内家について非常に詳しい記述があります。冒頭に宮内家は河野家の出身、河野家の流れであるということが出てまいりますが、その内容は省略して町の開発の部分から始めます。

  兄九右衛門弟清兵衛両人、寛永十三年丙子之春(ひのえねのはる)、米湊の後口(うしろぐち)牛飼ヶ原(うしこがはら)、土地見合いに参り、当処に町取り立ての儀御願い申し候処、願いの通り仰せ付けらるる也、

とあります。九右衛門・清兵衛兄弟が寛永一三(一六三六)年に、ここで町をつくりたいという願いを藩にし、その願いがその通り認められたのでした。その契機になったのが藩の蔵の移転でした。

  茲に寛永十二年風早郡伊予郡御替地にあいなり、御蔵処は下三谷村にこれ有るを、当処に移さるる也

といっています。前年の替え地に伴って、藩の蔵がこの地に移転されることになったのでした。藩としても蔵周辺の開発を考えていたのではないでしょうか。
 そして

  夫(それ)より兄弟寝食を忘れ精をつくしければ、無程(ほどなく)町成就す、上灘より出るを以て灘屋と号し、町を灘町とぞ呼ぶ、尊命をうけたまわる、その後太守様円明院様御鷹野の序(ついで)に御正覧に入れ、この処国境といひ、町並能く(よく)出来(しゅったい)の段、偏に兄弟の働に在る也、永田権右衛門滝権兵衛様より兄弟の者へ御賞美仰せ出さる、

とあります。兄弟が寝食を忘れて精を出したので、間もなく町が出来上がったのでした。おそらくこれは町屋敷用地の造成が完成したということでしょう。そして、兄弟が上灘の出身であったので、家の屋号を「灘屋」とし、町名を「灘町」とするという藩主の命令を受けたのでした。その後殿様円明院様(加藤泰興)が鷹狩りにお出になったとき、その序にこの町をご覧に入れたところ、殿様より、「この地は国境の場所であるのに、よく町並みが出来上がった。これは、何よりも兄弟の働きだ」と、永田権右衛門・滝権兵衛様を通じて兄弟にお褒めのお言葉があったのでした。
 続いて、町並み建設の経過を次のようにいっています。

  その頃は皆灘屋兄弟の抱え家也、その後他家へも譲り、猶又他より住居致したく申す者へは竹木を遣し、家作追々出来、繁昌仕(つかまつ)る、

初め土地・家屋はすべて灘屋の所有でした。その後他家へ譲り、あるいは他から移住を希望する者には竹木を与え、家作が追々出来上がり、町が繁盛したのでした。この「竹木を遣わす」というのは、おそらく家を建てるときの建築資材(竹・木材)を援助するということでしょう。
 また同じく『積塵邦語』の「宮内六郎右衛門家伝」には、

  御蔵処より南はことの外地形高低これ有り、土地引き均しの人夫下され難く候あいだ、北之方下され候様仰せ付け候えども、両人申し上げ候は、地形引き均しの儀は自力をもって仕度(つかまつりたく)候あいだ、南之地くだされたく御願い申し上げ候処、願いの通り仰せ付けられ、夫々(それぞれ)兄弟往居仕り、

とあります。お蔵のある場所より南は特別に地形に高低があって、その上その土地を平坦にする労働力は藩からは下されないので、蔵より北の方を与えると命令がありました。しかし地均しは自力で行うので、南の土地を拝領したいとお願いしたところ、その願いが叶った。そこで兄弟はこの地に住んだのでした。ここの記述で、兄弟は自分たちの資金で土地―宅地―造成をしたことがわかります。
 以上のようにして灘町を建設してきたのです。ここに新しく土地を拓いて町をつくっていくときの手順―段取りが出てきます。灘町は、宮内兄弟が土地を殿様から拝領して、自費で開発した。開発とは土地の造成―宅地造成です。そして「他家へも譲り」と書いてありますから、兄弟は他家へ土地を譲渡し、あるいは、住民を誘致して建築資材等を援助したりして家を建てさせたのでした。

 (二) 灘町の特権とその維持の努力
 さらに殿様は、町に特権を与えたのでした。「郡中宮内小三郎家伝」には

  この功によって、ここ以来、諸々御免地(もろもろごめんち)に仰せ付けられる、

と、色々の税を免除すると命ぜられたのでした。
 さて、「諸々御免地」とは一体何なのか。「宮内六郎右衛門家伝」では、「諸役御免」と書いています。「諸々御免地」と「諸役御免」とはちがうものです。「諸役」の「役」は、農民や町人に懸かる夫役(ぶやく-人夫役)のことです。これは年貢とは別の負担です。たとえば寛永三(一六二六)年の「風早郡辻村新町諸役免許状」では、その本文には、

  風早郡大洲領分辻村の内、新町の儀、出羽守殿領知致さるる中(うち)、地子ならびに諸役免許申し付けらるる条、そのためかくの如く、よって件(くだん)の如し、

とありまして、風早郡の辻村の中の新町が、出羽守(加藤秦興)の支配中に地子と諸役が免許になったとしています。ここで地子と諸役が書き分けられています。この内、地子(「ちし」または「じし」)というのが町場の土地にかかる税金です。農村での年貢に相当します。「諸役免許」では、諸夫役の免許で、地子の負担は残っています。ですから、この辻村新町の「諸役免許状」という表題は「地子並びに諸役免許状」とする方が正解です。
 この辻村の例を参考にしますと、「諸々御免地」は、土地に対する税金(地子)と人夫役がないという意味だと解釈していいと思います。江戸後期に灘町には「伝馬役(てんまやく)」というのがかかるようになってきますが、それまでは灘町の住民には藩からかかる公租公課は、一切なかったということです。すごい特権をもっていたといえるでしょう。
 普通は辻村のように免許状(許可状)が出るものです。これをもらっておかないと後々トラブルが発生してくるのです。何らかの特権が与えられた場合、その当事者が生きている間は大丈夫なのですが、代が替わってくるとその経過がわからなくなってきます。やはり「宮内六郎右衛門家伝」の中に、

  同八年(延宝八年)、御替地新田御改に付き、竹内清兵衛殿 檜垣三右衛門殿御越成され候て、御竿入れ仰せ付けなされ候に付、その節当初御代官滝野権之介様・川村弥五兵衛様へ罷り出、先年よりの次第御断り申し上げ候所、もっとも思召(おぼしめ)され、御状御認め下され、町役人同伴にて御城へ持参仕り、古来の訳合申し上げ候所、早速御聞き届け下され、すなわち中村松兵衛様、友松伝右衛門様より御代官へ御返書請取り罷(まか)り帰り申し候、右に付先年の通り、御免地に仰せ付けられ候

とあります。すこし長いですが、意訳します。延宝八年に「御替地」の新田改めのとき、竹内清兵衛殿・檜垣三右衛門殿がお越しなされて、灘町にも御竿入れを命ぜられました。そのとき「御替地」の代官滝野権之介様・川村弥五兵衛様のもとに出頭して、先年からの経過を申し上げたところ、(こちらの言い分を)当然とお思いになって、お手紙を認めてくださいました。町役人同伴でそれを持ってお城へ行き、昔からの経過・事情を申し上げたところ早速了解いただき、中村松兵衛様・友松伝右衛門様から御代官様への御返書を受け取って帰りました。その結果前々の通り、灘町は御免地に命ぜられました。
 延宝八年は西暦で一六八〇年、開発したときからすると約半世紀(四四年)たっています。ですから、藩の方にも、灘町を御免地にした経過が忘れられている可能性もあります。ここで「竿入れ」というのは、藩が土地を測る、すなわち検地を行うということです。竿を入れると土地の広さ(面積)が出てきます。すると面積に対して年貢(あるいは地子)はいくらと計算できます。竿を入れさせないと面積も税も計算できません。だから「竿入れ」は藩にとっても住民にとっても非常に重要なことです。
 灘町は「諸々御免地」という特権を持っていることの経過を藩にも担当者にも理解してもらって、その経過を認めた文書を作ってもらっています。これで従来の「諸々御免地」が守られることになります。そしてさらにその史料の続きに、

     四代 同六郎右衛門通総
  宝暦四戌年、米湊村御検地仰せ付けられ、灘町東表小道より東の分へ御竿入れ仰せ付けられ候処、この時も先親の次第申し上げ、お断りあい立ち申し候

とあり、また検地問題が起こったことを記しています。宝暦四(一七五四)年、米湊村の御検地が命ぜられ、灘町東表小道より東の分へ検地を命ぜられたが、このときも過去の経過を申し上げて、検地を受けない旨のお断りが認められたのでした。先の検地問題から七四年経ってまた出てきたのです。これも経過を申し上げることにより、特権が守られたのでした。こうした経過は、灘町を宮内家が開発しただけでなく、灘町にあった特権を守ってきた証しでもあります。

二 灘町の地割
 (一) 奥行六〇間の特異性
 図116は、灘町の地割図です。これを正確に作り上げたかったのですが、なかなか出来なかったために、地籍図の中から分筆の跡を消しまして、元の地番とその形を出来るだけ復元した形にして作成しました。ここでは一間は六尺の竿が使われています。地租改正のとき土地を全部測り直しましたが、このときに一間は六尺に統一されました。それまでは一間は六尺五寸であったり、六尺三寸であったりしました。江戸時代、町の場合は大体一間は六尺五寸で計算されているはずです。伊予の場合はまだ確かめていませんが、大坂や博多の場合はこれでキッチリやられています。灘町も現在の都市計画図の上で計算しますと、一間を六尺で換算していくと数字がきれいに出てきます。図の真ん中の点線が入っているのが旧街道です。この旧街道を挟んで東と西に屋敷割が見られる。真ん中より上に「60間」といれています。ここが灘町の中で奥行が一番深い所です(現在の橘医院の所)。「60間」と書いてあるブロックが、灘町で一番屋敷割の大きい中心的なブロックだと思います。後は土地の制約があって奥行が段々狭くなっている。「52間」と入れてある所は、大洲藩の蔵屋敷跡です。やはり街道の東側で、南の端に「52・4間」といれています。ここが新谷藩の蔵屋敷跡です。この三つの数字はいずれも都市計画図から割り出した数字です。蔵屋敷より大きい奥行を町屋敷が持っているのには驚きました。街道の両側に六〇間の地割があれば大変なものですが、街道の東側は、土地の制約があったと見ています。栄養寺の裏手から港に流れる川がありますので、この川が街道の東側に制約を与えたのだろうと推測しています。
 街道の西側に奥行六〇間、東側はそれより少し短い奥行の屋敷地の配置となっています。この六〇間の奥行を持つ町屋敷というのは、あまり聞きません。それで私か驚いたのです。なんとデカイ屋敷地を持つ町場やな、よう藩が認めているなと。大坂で奥行二〇間、これが基本になって全国の城下町に奥行二〇がかなり普及したと見ています。四国では今治城下で町屋敷の奥行は一五間、高松城下もやはり一五間です。
 先程なぜ奥行二〇間なのかを説明しないままでしたので、説明します。二〇間というのが、その表側半分に店や住居部分を構え、裏側半分に蔵を建てたり、借家を建てたりして利用するのに丁度よい長さです。都市での営業形態にあっている。家賃収入で生活しようとすれば裏に借家を多く造ればよいし、商売が繁盛すれば裏に蔵を造ればよい。だから二〇間が標準サイズになったんだと理解しています。都市の屋敷として一番利用しやすい長さのようです。
 灘町の場合六〇間ですから、当然店や蔵あるいは住宅として使う部分よりは、そうでない利用(畑とか空き地)の部分の方がもっと広くあったのではないでしょうか。この点は図書館にある絵図(「郡中市陌浜辺図」)によく描かれています。

 (二) 常世橋(とこよばし)をめぐって
 常世橋(とこよばし)と彫った橋の石柱が、二本残っています。一本は、図71の一番北(現在の浜田屋の所)の場所、もう一本は福祉センターの植え込みの中に置いてあります。実はこれを皆さんで解明して欲しいのです。町を歩いておりまして、「常世橋」という石柱があるのに気がつきました。これは何を意味するのだろうか。同時に明治一五年と彫ってあります。「常世」の意味は「永久に変わらないこと(常世の国は年も取らず死ぬこともない国の意味)」です。町の範囲は北は常世橋から、南は図71の一番下にある石柱の所(現在・浜蝶)ですが、この間の空間というのは、「常世」=「この世の幸せをもたらす空間」、「不老不死の世界」と意識されていたのだろうか? 是非地元で何か言い伝えがないか調べてみてください。
 最後に図書館に本当に素晴らしい町並みの絵図があるのです。県下では宮野下とここだけで発見されています。安政元(一八五四)年に大地震があって、この町も相当に崩れてしまった、それで崩れる以前の町並みを描いたと、大筋このようなことがこの絵図の冒頭(巻物の見返し部分)に書いてあります。安政元年は明治を迎える一四年前です。こうした江戸時代の町の景観をヴィジュアルな形で残しか例は本当に少ないですから、この絵図も大切にしてほしいです。     (伊予市歴史文化の会二〇周年記念講演より抜粋)


第116図 灘町地割図

第116図 灘町地割図