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伊予市誌

2 郷村の流れ

 吾川村分郷 
 五口川村はもとは一村であった。慶安石高帳にも高一、一五一石四斗一升四合とあり、享保二年新田加算の用高で一、二七四石八斗二升六合であった。これは幕府公簿向けの公式石高で、寛文検地の用高は一、八五一石一斗三升九合となっていた。しかし古くからの慣例で上分・下分に区分され、藩からの土免差紙(租税賦課令書)でもそうであった。例えば一七四七(延享四)年の差紙には第117図のように記されている。
 地域的には二分の姿であったので、下分百姓らははやくから独立を願っていたが、改めて一七四一 (寛保元)年に分村を強く願い出た。藩郡奉行所は審理した結果これを却下し、「こうした願いは村役人はじめ上下百姓どもが平常不和のためであろう、苦々しいことである」ときめつけた。しかしその後も分村願いはくり返された。一七五一(宝暦元)年九月に至って、ついに大洲藩は「検地帳の上での分村」を許した。寛延内子騒動のあとでもあり、民意を承引したのであろう。検地帳の上でという名分をたて、事実上は分村を認可したわけである。上吾川村・下吾川村となるについて、上下百姓らは諸規定を定め全員連印の上、覚書を代官竹内千助に提出した。分村時の庄屋は幸蔵、組頭は甚六・庄助・仁右衛門・弥七・忠之丞・庄兵衛であった(『上吾川宮内家文書』宮内政美蔵)。

 村勢 
郷村全部についてのまとまった史料は乏しい。一七五五(宝暦五)年『村々田畑古用高帳』(玉井達夫蔵)を整理すると第30表のようである。大平村は新谷分を除く。空欄は史料に記入がない。
 郷村における家数や人数は、年数が経過してもあまり変化がない。一八三一(天保二)年五月の『郡中邑々家数人数控』(上吾川宮内家文書)の数字は第31表のようである。空欄は史料にも記載を欠く。

 村諸入用 
 郷村においては、藩法・藩行政の領域は別として、部落共同体一体となり、庄屋・村役人を中心として、総寄せによる百姓全員の合議をもって、村政全般を自治的に運営した。一村単位に与えられる貢租賦課の割り当てをはじめ、村全体としての立場で各自持高に応じて負担を分割した。農民個人負担でない村関係の経費は、「村入用」として経理されたが、上吾川村の天保四年の場合、高一石につき村民割り付けは次のようであった(『上吾川宮内家文書』発巳歳御免割并村入用役割方帳)。

  免 割 田 租 六斗三升五合七勺八才一三四三
       畑 租 四斗二升三合九勺○一一八八
  村入用 銀米方   九升七合一勺二才四九五
       使役割   八升五合五勺六才七四四七

 郡中一円の村々は、その共同必要経費は「大割入用」として共同経理し、村高一〇〇石につきいくらと割り出して、郡中三四か村で負担した。これは「村入用」の中にこめられた。大割として負担する領域は極めて多方面であった。主なものをあげると次のようである。

  給  与 藩屋敷内夫 代官所内夫 蔵番二人 郡役所詰番 千石夫 郡人足
  役  料 年行司 笹ヶ峠加番 しだ谷加番 雲雀峠札改
  小物成代 火縄代 入木代 糸苧縄代 畳薦代
  賃  銀 帰城関船水主賃 役人往来船賃 藩役人伝馬賃銭
   総代経費 大洲新谷長浜 年始 中見方へ出頭
   普請入用 郡役所 谷上山 行道山
   宿  賃 大宿 大洲宿 長浜宿

 文化一四年の郡中大割入用によると、米方は村高一〇〇石につき一石一斗四升五合五勺九才三四、銀方は同じく銀札八八匁二分五厘一毛六の割り当てであった(『郡中役用控』)。

第30表 村々田畑古用高帳(1755年)

第30表 村々田畑古用高帳(1755年)


第31表 郡中邑々家数人数表(1831年)

第31表 郡中邑々家数人数表(1831年)