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伊予市誌

一二、開発と産業

 特産物 
 幕藩体制下の郷村は、すべて貢租上納の機能を果たすための仕組みでしかなかった。したがって産業の首座は農業であり、米豆の産出だけが問題であった。しかし『大洲秘録』に見る一七三九(元文四)年ころの郷村産物の記録には、特産物と考えられるものが既に現れていることは興味深い。伊予市関係郷村分を整理すると第33表のようである。

 農業 
 検見取の場合は、田作が不作であっても作柄通りの賦税であるので問題はなかったが、定免の時代になると、凶作であれば「不作願」を出して「不作改」を請願しなければならなかった。これには制限規定があり、田高一〇〇石につき不足高三石に及べば出願できるとされた。それにはまず小内で改めてみて、上一畝一斗六升の高で一歩につき籾九合六勺六才以下であれば出願できるわけである。出願すると藩の中見方は、田毎の立毛を見ならして、中毛平均の場所で一歩の坪刈りを行い、念入りに籾ごしらえして一合ますで計量し、それによって減免方を決定した。
 畑作においては大豆が主作であるため、藩は雑作に対しては中作としての仕付法を規定していた。次のようである(愛媛県行政史料『演舌書・収斂概略』)。

  粟  大豆一畦替えに作ってよい。
  小黍 高黍・中作は許されない。
  胡麻 大豆六畦・七畦に一うねずつ。
  稈  水窪の場所は仕付けてよい。
  小豆 中作に植えてはならぬ。大豆を作る畦に蒔くのはよろしい。
  藍  中作に植えた分は不作改から除く。
  唐黍 大豆四畦ごしに植えてよい。岡畑と唱える分は大豆三畦ごしに植えてよい。

 前出の『大洲秘録』の産物でも明らかなように、もとの郡中村・南伊予村・北山崎村などの地では、古くから綿の産出が多かった。これはのちに三町を中心とする「ジンキヤ(碪弓屋)」の篠巻を隆盛にする基盤ともなるのである。綿実は搾油の原料となるものなので、幕府の統制下にあった。大洲藩としても一七六二(宝暦一二)年には綿実を大坂表へ移出することになったので、問屋干草屋新右衛門を経由して出荷貫数を大坂町奉行書に届け出るよう布達された(『玉井家文書』「壬午歳御触状写」文部省史料館蔵)。
 出荷記録は見出されないが、綿の製産が相当多量であったことを推測させる。もとより収入もよかったのであろう、そのため綿の植栽は畑に限られていたのに、田地に植える者が多くなった。藩はついに一七八三(天明三)年四月六日、田に綿を植えることを布令せねばならぬほどであった。
 藍の栽培も相当行われたようである。一七九四(寛政六)年閏一一月には、藍の出津が許可された(『久保家文書』)。

 商業 
 中期以後は特に商業の発達を見た。特に郡中三町は、他領との取り引きによって多大の収益をあげ、やがて商人らの経済力は藩政をも左右するほどになっていった。

 (1) 商札

 <札取>  <営業内容及び品目>
三〇匁札取 俵物(米・大豆)並びによろず商売、出津許可

一五匁札取 穀物(糀をふくむ)、浅田油、干鯛、蓙綿、藍、茶、たばこ、釜、鍋、櫨、白木綿、俵塩、油、油締、鉄、鉛、舟釜、七嶋表筵、藁縄、萬荒物、篠巻、菜種類、蜜、鰯網、味噌、醤油、鉄砲薬、石臼、石炭、松大束、小割木、諸竹木

三匁札取  渋、鬘付、元結、渋紙、茸類、酒粕、松葉、砥石、刻煙草、蓑、笠、豆腐、こんにゃく、竹細工、線香、杓子、石灰、塩計売、麺類、心太煮売、干魚類、茶売、荷棒、釘、鋤先、しゅろ皮、酢、荒布、昆布、かりやす、火縄、飯骨柳、磨炭、めうばん、桃皮、蕨粉、木ぶし、土器、餅、竹皮、苧、鍬、鎌の柄、魚煮売、市の節茶碗酒

無   札   飴、菓子、果物類、野菜物、綿実、とうしん、付木、火打、ほくち、もぐさ、白箸類、古金、草り、わらじ、菜種五種まで

 商人には商札(商業鑑札)を買いとらせるという形で税(運上)を徴収していたが、旧来からの慣習でその規模と種類によって、三〇目札(運上銀三〇匁)・一五匁札・三匁札の差などが設けられ、一年ごとの更新であった。なお小商売で無運上の無札もあった。
 一八〇二(享和二)年五月、大洲藩は乱れた商札取り扱いを是正するため、整理して「商札条目」を公布した(『大洲手鑑』)。営業の区分範囲を明らかにし、取扱品目まで規定した。そのうち出津営業の許されるのは、従前から三〇目札取に限られていた。前頁の表のとおりである。
 これより先、城下・在町以外の郷村で、農業を捨て商札を受けるものが多いのに悩んだ大洲藩は、一七九四(寛政六)年一二月一八日郷中の商札・蝋打札はすべてこれを回収した。三町及び三島続きの尾崎村、米湊村町並は従来通りで変化はなかった。病身で農業を営むことができず、商業だけで渡世したい者は改めて願書を出させ、審査の上で認否を決定するというのであった(『玉井家文書』「甲寅歳御触状写」文部省史料館蔵)。一年おいて一七九六(寛政八)年一月になって、ようやく郷村の商札指名認可があった。上野村では在来の数は不明であるが、文蔵ほか四人が許された。

 (2) 塩田開発と塩の販売
 郡中方面の塩は、浜に入船したものを塩商いが扱い、その末端「荷ない塩」の出売りで村々がまかなわれていた。一七六二(宝暦一二)年閏四月一七日、大洲藩は郡中町郷の塩販売を八蔵屋吉郎兵衛の一手販売にゆだねた。八蔵屋には灘町に出店を設けさせ、従来の塩商いや荷ない売りの者には同店より仕入れさせて、これらには八蔵屋発行の木札(鑑札)を渡させた。塩の抜き売りは更にきびしく取り締まった(『玉井家文書』「壬午歳御触状写」文部省史料館蔵)。
 元来大洲藩は塩には恵まれず、かつて三代藩主泰恒は、領中に塩浜の開発を図りたい念願を持ちながら、ついに果たせぬままに過ぎた。大洲・新谷両藩とも、黒野田・今坊・串・大久保・高ノ川などから出荷される松葉によって、わずかに長浜近辺で藻焼方式による製塩がほそぼそと続けられるに過ぎなかった。一七七四(安永三)年の春、本郡村庄屋片岡丈平・尾崎村庄屋久治の両名は、郡中詰郡奉行坪田甚五右衛門に願い出て、本郡に塩田を開発することを許された。土地は一町二反二畝二三歩、高六石五斗四升四合であった。これは福田寺に出入りしていた松山領和気郡の才安という道心が、ここの浜の塩田に適していることを物語ったことから、丈平は久治と共同で開発を始めたものである(『御替地古今集』・『大洲旧記』)。規模は小さく産量も少なかったが、大洲藩ははじめて国産の塩を得たわけである。この塩は郡中地域に売られた。
 一七七八(安永七)年七月、過去一年間は郡中浜に塩の入船を禁じていたが、その禁を解くとともに、新たに売塩規定を定めた(『玉井家文書』「戊戌歳御触状写」文部省史料館蔵)。
  1 入船の塩は一斗につき口銭銀札壱分五厘を徴収する。
  2 砥部方へ入れる塩も、今後同様の口銭を宮内番所で徴収する。
  3 本郡の塩は口銭を必要としない。
 次いで翌一七七九(安永八)年一〇月には、大洲藩は灘町に塩役所を開設し、塩方役人を置くことを布達した。このことは八蔵屋の一手販売を止めることであった。同時に関係規定を取り決めた。以後役所以外からの塩の販売は禁止すること、荷塩売りには役所よりの焼印札をさげさせること、本郡塩浜の塩は残らず役所へ引き受けること、したがって本郡塩浜での直売は許さないこと、銀札一匁七〇文遣いで役所加印札を年利一割二分で貸し出すこと、役所開設日は月の三、七の日とし、小売は毎日であることなどであった(『玉井家文書』「己亥歳御触状写」文部省史料館蔵)。本郡塩を役所の専売にしたのであったが、翌一七八〇(安永九)年六月三日には改めて塩浜での直売も認可した。
 塩役所開設以来八年、一七八六(天明六)年、九月二〇日には塩役所は廃止されることになり、塩販売も自由になった(『玉井家文書』「丙午歳御触状写」文部省史料館蔵)。

 (3) 蘇鉄商売
 得られた史料では一例だけであるが、珍しいのであげておく。一七四〇(元文五)年六月吾川村庄屋儀右衛門は、村内の佐七が瀬戸内へ蘇鉄商売に出るについて、次のような船手形を願い出ている。

     出船手形の事
  当村佐七義、小川町権兵衛船にて瀬戸内へ蘇鉄商売に参り申し候、御番所疑いなく出船仰付けられ下さるべく候、重ねてこの者につきむつかしき義出来仕り候はば、私まかり出で御断わり申し上ぐべく候、後日のだめ出船手形よってくだんのごとし、
    元文五庚申年六月三日
                     吾川村庄屋 儀右衛門

 佐七は同月二〇日無事帰着した(『上吾川宮内家文書』宮内政美蔵)。

 工鉱業 
 この面で郡中において特色のあるものは、市場焼・砥石・篠巻である。

 (1) 紙・梶
 この地においては紙・梶は流通のことが中心の問題であった。一七五八(宝暦八)年二月には、紙の出津は大坂に限ることとし、瀬戸内への出荷は厳禁され、次いで八月には梶の出津もいっさい禁止された。一七六〇(宝暦一〇)年一一月には梶は統制の度が加わり、領中の梶はすべて藩の買い上げとなり、現品は五十崎梶場所に持ちこまなければならなくなった。買子や紙漉には「梶買札」が交付された。郡中は遠方であるというので、郡内の紙漉に直接売ってよいとされた。しかしなお不便であるため、のちには中山紙役所が設けられた。梶の出津は依然として禁止であったが、一七六二(宝暦一ニ)年三月には梶の不足となり入津が認可された(『玉井家文書』文部省史料館蔵)。
 紙の出津・販売に関しては、郡中では宝暦ごろは宮内惣右衛門・宮内小三郎両家だけが藩から公認されていた。郡中一円に売り出す紙も、この両家から仕入れないものは抜き紙(密売紙)として、現品没収の上科料に処せられた。一七五八(宝暦八)年一二月には土佐紙取り扱いも両家の専売が布達された。町も在もともに小売は両家から仕入れ、「売目録」を渡される仕組みで、売目録のないものは抜き紙とされた。抜紙の監視と没収は口口の役目であった。更に抜紙取り締まりは強化されて、一七六〇(宝暦一〇)年七月一一日に改めて布達があり、「紙目付」によって取り締まられるようになった。一七六二(宝暦一二)年一〇月にも抜き紙に対して布令があり、紛らわしい荷物は改め、抜き紙であれば直ちに取り押さえ庄屋へ差し出し、庄屋は中山紙役所へ提出せねばならなかった。現品押収の者へは相応の褒美が約束された。
 一七八〇(安永九)年一二月大洲藩は地売紙の取扱人を指定した。すなわち高橋彦兵衛・高橋治兵衛・佐野伝四郎・紀藤太兵衛・加世治右衛門・玉井与五郎・油屋安兵衛の七人であるが、郡中は御替地塩役所と定められた(この項すべて『玉井家文書』文部省史料館蔵)。

 (2) 櫨・蝋
 櫨の実の出津は大坂のどの問屋へでも許されていたものを、大洲藩は一七七五(安永四)年八月七日、船町の助松屋加右衛門に一手に扱わせることにした。もっとも瀬戸内へ櫨の実を出津することや、松山領へ晒蝋で売り払うことは、前々通りに許していた。翌一七七六(安永五)年一〇月になると、大坂の櫨の実問屋指定ほとりやめ出津を自由化したが、運上を課することを定めた。
 唐櫨の木については、一七七七(安永六)年八月立木改めを実施した。木元から二尺上がりの回り一尺以上の木はすべて登録することを命じた。この改め替えは五年に一回と定められた。村役人は神文誓約の上改めの作業に従った。次いで一〇月には、この登録唐櫨一本につき銀札一分の運上が課せられた。
 一七八四(天明四)年二月一〇日、大洲藩は出津する諸蝋には口銭を課することにした。七五斤入一丸につき銀札七匁の定めである。同時に抜き荷について更にきびしく布令した。蝋だけでなく穀物類・唐櫨なども、見つけ次第取り押さえるよう村々に命じた。更に一二月には取り締まりを強化して、村々では唐櫨・蝋売却の際は、庄屋に願って売先への送手形(移出証明書)を作成して荷に付けるように命じ、番所でこれを改めた。中には煙草荷や茶の葉筒などに仕込んだ蝋・紙などの例もあったので、荷物改めにはさし金を入れて改めるようにした(この項すべて『玉井家文書』文部省史料館蔵)。

 (3) 篠巻
 文化のころ代官所手代岡文四郎は、旧来の質役所を綿役所として独自の経営を行った。目的は波戸構築の経費を生み出すためであった。彼はそれだけではなくて、創意工夫をもって産業の開発と民生援助を合わせ行った。その経緯は別項「郡中築港」を参照されたい。『郡中町郷土誌』は次のように記している。

  両町(湊町・灘町)は商業を専らとするも、漁業者の如き他に副業のあらざると、万安港の維持費に充つるが為に、岡某は綿役所を発起し、営業者が中国筋より実綿を買込むに当り、某代金を貸与え、綿は質として役所附の倉庫に貯蔵し、営業者は随意に之を請出すことを得せしめ、其貸附金の利息を収めて藩の所得とし、また営業者は漁業者の婦女子をして実綿を繰らせ、男子は其繰り綿を打ち、女子はそれを巻きて紡糸用の篠巻綿を製造し、近傍はもちろん大洲・宇和島地方にこれをひさぐ、郡中篠巻の名あり、これを製造するを人弓業と言う、これがために漁者に副業を授くるを得たり、綿役所掛の役人は、粗製濫造を防ぐがために、時に営業者の宅につき製品の目方及びその数を検査し、覚定に背くものある時は、直ちに営業を停止するものにして、その営業者両町間に四十七戸の外を許さず、これをいろは組と称す。

 時代を追ってこの業は隆盛におもむいたようである。一八五九(安政六)年七月七日には、新谷藩は市場村にじんき一、二軒を認可する方針を示して、希望者を募っている(『市場佐伯家文書』「役用諸日記」佐伯政美蔵)。民生上効果のあることが周知されたのであろう、一八六二(文久二)年には長浜でも篠巻を始めた。その手間子四人が前借で長浜に雇われたことで郡中長浜間でもつれが生じた。一〇月には綿役所から呼び戻し命令が出てさらに紛糾したが、しばらく手間子を借用するということで解決した。しかし綿役所は以後は手間子の他所稼を禁止した(『塩屋記録』)。この年は綿も篠巻も値段の急騰をみた。一斤の相場は次表のようである。

     <従来>   <10月10日>  <11月10日>  <11月20日>
上 綿    四匁    五匁ニ分    一五匁七分   一六匁二分
篠 巻  一四二匁  一五三匁     一七六匁    一九〇匁

 一斤の手間賃については一八六三(文久三)年七月に改定され、翌元治元年四月にまた改められた。

     <従来>   <文久三>  <元治一4月>  <同年9月>
打 賃   七文五分    八文     九文      一三文
巻 賃   四文五分    五文     六文       八文
繰 賃  一一文匁    一二文    一三文      一八文

 一八六四(元治元)年九月一三日郡中綿役所は実綿の他所売りを禁止した。他所売り留め役として、篠巻屋中が分担して村々へ出張した。九月二〇日には篠巻屋に統制が加えられた。濫立の弊もあり、手間人の減少したことにもよるが、郡中三町で弓一挺と定められ、鑑札木札が渡された。また綿中買人には中買札、手間大には手間札の木札である(『塩屋記録』)。

 (4) 砥石
 上唐川村砥石山については、史料採訪につとめたが思わしくなかった。後考に待ちたい。『南山崎村郷土誌』(明治四三年一二月刊)は、『上唐川村庄屋旧記』を引いて、砥ノ谷で、「寛保二年(一七四二)より同三、四年砥石掘り申し候」と示している。『影浦家文書』(影浦桂一蔵)に、上包に「砥山定書」と記した一七九三(寛政五)年の次のような一文がある。湊町に出店を持つ和泉屋佐重郎の買請契約書である。
(図表 「砥山定書」)

 更に『南山崎村郷土誌』によると、上唐川村庄屋影浦喜右衛門為従は、一八五四(安政元)年その所有山砥ノ畦で砥石を発掘、経営三年にして安政五年四月大洲藩に献上、年産二万五〇〇個に及んだという。また『郡中町郷土誌』は、一八六〇(万延元)年豊川某の発見にかかる上唐川産の砥石は藩営となり、砥石掛支配のもと外山産のものとともに和泉屋に販売させたと記している。

 (5) 市場焼(のち千歳焼)
 市場村の唐津山の始源は、『北山崎村郷土誌』によれば、享和・文化のころ新谷藩主の創始とあって、年代は明らかではない。一八一六(文化一三)年五月の『市場佐伯家文書』(乍恐御歎申上ルロ上之覚)によると、「唐津山御開基の儀は、村上俊介砥部の唐津山世話懸り仕り居り候節、ふっと存じつき御上体様へ御内々申し上げられ、御思召の上村内にて出来仕り候儀に御座候」とある。村上俊介の砥部在任年次が明らかにされると、創始の大体の年がわかるが、今のところ不明である。ともあれ藩営の名のもとに出発したが、その資金は庄屋佐伯忠左衛門個人の出費に藩金の借用を加えたものであった。しかし存外諸経費がかさみ、資金注入のため忠左衛門は大借金をし、ついに一八〇四(享和四)年庄屋職をせがれ勝三郎に譲ることを願い、許されて隠居した。隠居はしても唐津山経営にはなお全力を傾け、一八一六(文化一三)年五月には運転資金を得るために、二〇~三〇人による頼母子の計画を郡奉行中山郡兵衛に願い出ている。
 忠佐衛門は窯元維持に必死の努力を重ねてはいたが、窯焼き方の技術者が永続しなかった。文化一二年秋からは村内の七右衛門・乙(音)右衛門が焼き方を引き受けて、熱心に事に当たった。
 現在のところ文政・天保・弘化の間の史料が得られないが、一八五一(嘉永四)年には音右衛門は、長崎表の萬屋多助と唐物取引(絵薬)を藩に願い出て許されているから、三七年の間もたゆまず焼き方の研究を続けていたものであろう。彼のこうした努力にもかかわらず、藩としては予期しか収益が得られなかったと見え、この年九月一九日市場窯は藩の手を離れることになった。恐らく金岡音右衛門個人の肩にすべてがかかったものであろう。
 一八五四(嘉永七)年九月二〇日、音右衛門は八〇歳の年賀としてその作品を藩主以下重役に献上することを願っていたが、この日滞りなく献上を果たした。品目は伝わらないが自信作であったろう。
 一八五七(安政四)年三月二二日から新谷藩若殿真之助(泰令)は、郡中諸村を巡視した。二三日稲荷社参詣の途次、唐津細工を見学したが、にわかに音右衛門宅を訪れて休息した。老人音右衛門の感激は察するに余りがある。『村諸日記』(『市場佐伯家文書』佐伯美則蔵)には次のように記録されている。

   一 三月廿二日九ツ頃若殿様御着船に相成る、(注、長浜から船で郡中波戸着、新谷藩郡中屋敷泊)(中略)
   一 同廿二日、稲荷社御参詣、四ツ時(午前一〇時)御立ち、いなり庄屋宅へ御立寄り、御昼、同村芝居場にて松露とり、それより当村(市場村)唐津山へ御越し、唐津山細工御覧、絵書釜御覧に相成り、にわかに音右衛門宅へ御入りに相成り、御休足に相成り申し候、七ツ頃(午後四時)御帰りに相成り、御屋敷へ御入り御泊り、翌廿四日砥部御越、

 翌一八五八(安政五)年一二月二二日金岡音右衛門は、大洲藩郡中詰郡奉行新諌見から表彰を受け、米二俵を与えられた。『村諸日記』は次のように記録する。

  安政五年十二月廿二日、村方金岡乙右衛門、上御代官所より御用申し参り召しつれまかり出で候ところ、同人絵薬薬種の義長崎表へ掛合い、何にか御都合にも相成り、御称美米弐俵下し置かれ候、御郡新諌見様御書付にて下し置かれ候、

 上御代官所とは大洲藩代言所のことである。右にあるように「絵薬薬種の義長崎表へ掛合」つて、何とか大洲藩に都合よく尽力したというのであるが、恐らく砥部焼のために絵薬調達に尽力したのであろう。さきに許されている萬屋多助との取引関係で、音右衛門の顔がきいたのであろう。これは異例の表彰で、八四歳の老人音右衛門はまさに永年の功成り名遂げたといえよう。
 以後その子孫、亀蔵・定蔵・亀十郎と続き、焼物名も千歳焼となり、窯場も三島町寄りの市場村内に移ってから昭和初年にまで及んだ(名称や窯場移転その他、当主金岡健三の示教による)。

 漁業 
 湊町の漁船と漁網については、寛政ごろの実況として『御替地古今集』は次のように記録する。

  漁船十八艘、鰡敷網壱張、しゅく(魚編に粛)巻網壱張、地引網壱張、片寄網三張、鰯網九張御座候。

 このころでも相当の漁獲があったろう。この面の史料が乏しい。後考に待つ。
 幕府は清との貿易において、金銀の流出を防止するため輸出の拡大に意を致した。輸出の重要なものは白糸・銅であったが、そのほかの一つに「俵物」があった。煎海鼠・干鮑・鱶鰭・するめ(魚編に易)・茯苓・鶏冠草などであるが、これら水産・薬草などを乾燥して俵で荷造りしたので、ひっくるめてこの名で呼ばれた。一七八五(天明五)年幕府は直接集荷に乗り出し、「長崎俵物買集方」として下請商人を指定したが、四国関係は俵物のうち煎海鼠の買い集めに、周防国大島郡遠崎の胡屋平七を任命した。天明五年に幕吏が回浦して、浦ごとに煎海鼠請負高を決定した。この折には郡中方面には割り当てはなかった。
 幕府の強い指示にもかかわらず、生産高は到底請負高に及ばなかった。一七九九(寛政一一)年五月一四日幕府勘定方平岩右膳は、煎海鼠供出督励のため大洲領に入りこんだ。一五日長浜には関係村浦から庄屋・組頭・漁師総代・下請手先が召集され、一同連名で収穫に努力する旨の請書に連印させられた。郡中では湊町だけで連印したのは次の人々である(『久保家文書』「長崎廻俵物之品糺方請書」久保重徳蔵)。

  湊町漁師総代 重   助 同町 同 仙 介 同 町 組 頭 嘉  七
  同町町老   四郎左衛門 同町町老 勘兵衛 懸り吾川村庄屋 儀右衛門
 湊町はこのとき初めて請負高を命ぜられた。『新規稼取極請書』(久保家文書)に次のように見られる。
      此節御糺ニ付新規請負高
  一、煎海鼠五百斤 但湊町
                  遠崎下請手先 塩屋次右衛門

 右のような請負高ではあったが、生産はとても及ばなかったであろう。上納史料がないので実績はわからない。
 一八一一(文化八)年一月一八日生産督励のために煎海鼠奉行が入りこんだ(『中島町役場文書』御請証文写)。奨励金制度の強化を発表し、生産意欲を高めようというものであった。湊町の場合、一三〇斤~二〇〇斤では一斤につき銀一分ずつ、二〇〇斤以上では一斤銀一分三厘ずつの褒賞が約束された。
 値段についての史料は乏しいが、一八六六(慶応二)年一月には、価格一斤銀札一二匁、三月には銀札一五匁、翌慶応三年三月には一〇斤につき金一両二歩と変動した。
 長く続いた幕府支配の煎海鼠供出命令も、維新とともに藩直営に移行した。慶応四年閏四月一三日、代言所より煎海鼠は藩で買い上げること、胡屋の買い付けは禁止することなどが布達され、値段は一斤銀札七五匁と定められた(『塩屋記録』)。

第33表 郷村の特産物(1739年)

第33表 郷村の特産物(1739年)


「砥山定書」

「砥山定書」