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伊予市誌

1 松山征討

 松山討伐令 
 一八六八(慶応四)年一月一一日、安芸・備前・土佐三藩は、福山(阿部正方)・松山(備中・板倉勝静)・高松(松平頼聡)・松山(伊予・松平定昭)各藩の討伐を命ぜられた。翌一二日宇和島藩は松山討伐について土佐応援人数差し出しの命を受けた。宇和島は応援でなく討伐令を得るように強く運動したが許されなかった。土州勢は一月二三日先使金子平十郎をして松山藩主の進退について質問状を発した。これに対して翌二四日定昭は無条件で討伐軍の命に服することを答え、隠居勝成とともに城を出て、菩提寺の道後常信寺に謹慎した。二七日、土州部隊は立花□に着陣、直ちに城を接収した。

 兵員郡中滞陣 
 同年一月二九日、宇和島藩先陣桑折駿河の率いる一七四人の兵員が郡中に着陣した。翌二月一日には桜田出雲引率の六七八人が到着、二日に九二四人、三日に八三七人、四日に八一〇人と相ついで着陣した。三日からは帰藩する人数もあったが、郡中町内の負担は多大なものがあった(『塩屋記録』)。
 兵員を郡中に止めたまま、桑折・桜田らは松山城に行き土州と応接した。宇和島藩は兵員総計三、四二三人というおびただしい動員で、その意気込みのほどが知られるが、土州はその応援を喜ばなかったようである。大洲藩の『諸事扣』(加藤家蔵)には「土州藩中何分不応答の由にて居苦しく相成り候や、追々引取り候趣にて、二月五日より百人二百人程ずつ日々引取り候事」と記されている。
 大洲藩では一月二六日固め人数として三の隊二〇〇人余を郡中まで出動させ、灘町栄養寺に滞陣させた。二七日には一の隊を郡中まで送りこみ、二の隊を内子で待機させた。これは様子によって郡中まで出向させる手順であった(『加藤家年譜』)。土州軍の依頼により、二月一七日には加勢として萱町口関門固め人数を出動させ、三月六日まで警守の任についた(『高知県史料稿本』)。
 新谷藩は、一月二六日家老加藤弘人が隊長として二小隊を率い、郡中まで出動して景況をうかがった。やはり土州軍の依頼により、二月一七日加勢として立花口関門固め人数を遣わし、三月九日まで警守した。更に別に三津浜警備にも当たり、任終えて撤退したのは五月二五日であった(『旧新谷藩歴叙』)。
 このようにして郡中三町及び近村は、おびただしい兵員の滞陣に追いまわされ、多大の失費を重ねて安定することもなかった。