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伊予市誌

3 廃藩置県

 大洲県の成立 
 全国旧藩は、藩知事によって諸改革が推進されていたが、財政上その他藩内事情により自立性の危うくなった小藩も現れて来ていた。一八六九(明治二)年一二月には、上州吉井藩(一万石・松平信謹)・河内狭山藩(一万石・北条氏泰)が、新政府に廃藩を願い出た。その処遇は、土地・人民は近県に合併、藩主には藩の現石高の十分の一を与えて東京在住を命じ、士族・卒は県の所管に移すことであった。このことは一つの模式的な移行として、しだいに全国にその風潮を誘発した。
 一八七一 (明治四)年二月二三日加藤泰秋・泰令ともに、東京府貫属を命ぜられた(『加藤家年譜』)。藩内上下とも廃藩の近いことをさとらざるを得なかった。七月七日泰秋は朝廷に出京の伺いを提出した。しばらく滞府して天機を拝し、朝旨を伺って知事職を拝辞する決意であった。次いで泰秋は官員並びに藩臣一同に対し、直書をもって勤王の素志により職を辞する決意を示した(『岡田家文書』「御触状写」岡田広心蔵)。
 一八七一 (明治四)年七月一四日朝廷は廃藩置県の詔書を発し、在藩知事の名代には一五日示達した(『太政官日誌』辛未第四号)。

    御布告写
  藩ヲ廃シ県ヲ被(レ点)置候事、
    御沙汰書写
  今般藩ヲ廃シ県ヲ被置候ニ付テハ、追而御沙汰候迄大参事以下是迄通事務取扱可(レ点)致事、

 なお元知事に対しては、九月中に帰京するよう達せられた。
 こうして法的には一応大洲県が成立したわけであるが、東京からの連絡には日を要し、県庁では七月三〇日支配地庄屋一同を召集し、書き付けを与えて置県のことを公表した。書き付けは太政官布告七通、戸籍関係布告のほか、これに関する藩主泰秋の直書であった(『五百木村庄屋文書』)。未曾有の大変革であるにもかかわらず、事務的に多数の布達文書を配布し、単に事務処理として終わったことは後に問題を残すことになった。

 新谷県の成立 
 加騰泰令は一八七一(明治四)年七月九日郵便をもって知事の辞表を提出するとともに、その趣意を士卒に示した(『新谷藩庁日誌』)。七月一四日廃藩置県が令せられたので、二六日泰令は士卒を召集、布告類を伝え説諭するところがあった。泰令は知事事務一切を大参事徳田儀一に交付したが、八月二八日嫡子秀丸を伴って離県、九月九日東京に移った(『新谷加藤家伝記』)。